8話:戦闘

 腐食した森に足を踏み入れたとき、空気の匂いが変わった。

 獣の血と、焼け焦げた魔素の臭い。それに混じる、不快なほど濃密な魔力。

 

  

 

「いるわね、間違いなく……あれは」

 セレスの声が低くなる。三匹の猫たちが、俺たちのまわりをぐるりと囲むように走っている。

 

  

 

 森の奥から、ゆっくりと姿を現したのは、漆黒のローブを纏った女だった。

 長い髪が風もないのに揺れ、濁った瞳がこちらを射抜く。

 その周囲には、無数の魔物たちが控えていた。まるで、彼女に付き従う奴隷のように。

 

  

 

「……ミレイナ、か」

 その名を呟いたとたん、胸の奥にざらついた痛みが走る。

 かつて、魔術院で机を並べていた少女。優秀で、だが脆くて、どこか無理をして笑っていた少女。

 

  

 

 けれど、今ここにいるのは、そんな彼女じゃない。

 これはもう、“災厄”だ。

 

  

 

「行くわよ」

 セレスの合図と同時に、三匹の猫が走り出す。

 黒猫は地を駆け、白猫は空に舞い、灰色の猫は霧となって周囲を包む。

 

  

 

 ミレイナは、無言のまま手をかざした。

 その瞬間、魔物たちが一斉に動き出す。凶暴な爪と牙が襲いかかってくる。

 

  

 

 俺とセレスは連携して迎え撃つ。

 セレスの魔術が封結領域を張り、敵の動きを鈍らせた。

 俺はその間に術式を展開する。狙うは、ミレイナの精神。精神干渉の術は、対象の深層に入り込む繊細な魔術だ。

 

  

 

 ――術が通った。

 視界が歪み、俺の意識は彼女の精神世界に沈む。

 

  

 

 そこは、赤黒い空が広がる瓦礫の部屋。

 壁には無数の傷。床には、壊れた本や椅子。

 中央に、少女がひとり、膝を抱えていた。

 

  

 

「誰にも……認められない。どうせ、壊れるしかないの」

 呟くその声は、ひどく小さくて、痛々しかった。

 

  

 

「……お前のままでいい。俺が認める」

 俺はそう言った。理屈でも、慰めでもなく、ただそれが真実だったから。

 

  

 

 少女が顔を上げる。涙が一粒だけ、濁った空に落ちた。

 そのとき、周囲の景色がほんの一瞬だけ色を取り戻す。

 

  

 

 俺は、精神の深層で術式を完成させた。

「強制契約」――本来は使ってはならない術。けれど、今の彼女には必要だった。

 

  

 

 精神領域が軋み、ミレイナの本心が暴れる。

 過去の恐怖、怒り、寂しさ。

 すべてを受け止め、俺はその中心に手を伸ばした。

 

 

 

「……一緒に、生きてみろよ」

 

  

 

 契約が成立する。強制ではなく、最後には彼女自身が手を伸ばしてきた。

 

 

 

  

 

 意識が現実に戻ると、ミレイナは地に伏していた。

 魔物たちはすでに崩れ落ちている。

 

  

 

 彼女は、ゆっくりと目を開ける。

 その瞳には、もう濁りはなかった。

 

 


「……わたし、力に飲まれてた……自分を見失ってたの」

 その声は、かすかに震えていた。けれど、確かに彼女のものだった。


 


 セレスがゆっくりと近づき、無言のまま、そっと肩に手を置いた。

 その仕草は、言葉よりも静かで、深かった。


 


 しばらくの沈黙のあと、セレスが柔らかく口を開く。

「……名前を、教えて」

 ミレイナはわずかに目を伏せ、かすかに息を吐いて答えた。


「……ミレイナ。私は……ミレイナ」

「そう。私はセレス。同じ契約者として……よろしくね」


 


 言葉は短く、それ以上はなかった。

 だが、そこには確かに、信頼の種が蒔かれていた。




 俺たちの間に、これまでにはなかった静けさが流れる。

 それは、壊れたものを拾い上げようとする者たちの、静かな決意だった。




 戦いの終わった森には、しんとした静けさが広がっていた。

 崩れ落ちた魔物たちの骸の上を、木漏れ日が優しく照らす。


 セレスは猫たちに囲まれて腰を下ろし、肩で息をしていた。

 額にはうっすらと汗。けれどその横顔は、どこか安堵に満ちていた。


 俺は黙って歩み寄ると、彼女の頭に手を置いた。

 柔らかな髪に、そっと指先を滑らせる。


「……よくやったな」


 セレスの肩がぴくりと震え、俺を見上げる。

 驚いたような目。それから、ゆっくりと細められていく。


「……ふふ。悪くないわ」


 そのまま目を閉じ、猫のように撫でられるままになっていた。 

 そのやり取りを、少し離れた場所からじっと見ていたのはミレイナだった。

 ローブの袖でこっそり頬の汗を拭いながら、彼女は俺の手元をじっと見つめていた。


 猫の一匹がミレイナに近づいて、足元にすり寄る。

 ミレイナはその猫を撫でながらも、ちらりとも目をそらさなかった。


 やがて、俺と目が合う。

 その瞬間、ミレイナははっとしたように顔を逸らし、視線を地面に落とした。

 頬が、わずかに赤い。


「……ふふ。次はあの子ね」


 隣でセレスが、いたずらっぽく笑った。



 屋敷に戻ったのは、夜の帳がすっかり降りた頃だった。

 セレスは猫たちに囲まれて寝台に沈み、早々に眠りについていた。

 

 俺は一人、書庫で魔術書を開いていた。

 薄明かりのランプの下、紙の擦れる音だけが静寂に響く。

 

  

 

「……起きてるんだ」

 

 扉の隙間から、か細い声が届いた。

 顔を上げると、ミレイナが立っていた。

 ローブのまま、裸足で。まるで眠れない子どもみたいに。

 

  

 

「ここ、静かすぎて……落ち着かないの」

 そう言って、俺の隣に腰を下ろした。

 

 しばらく、沈黙が続く。

 ランプの炎がわずかに揺れた。

 彼女は膝を抱えるようにして座り、小さく息をついた。

 

  

 

「……あなたのいなくなった魔術院ではね、誰とも話さなかったの。

 魔力が強いだけで、怖がられて……無視されて……

 それが普通になってたの。

 だから、もっと力があれば認められるって……思ってた」

 

  

 

 その声は穏やかだったが、奥底にかすかな震えがあった。

 

「でも……何も見えなくなってた。

 気がついたら、壊すことしかできなくなってたの。

 わたし……自分が、もう人じゃないみたいで」

 

  

 

 俺は本を閉じ、彼女の横顔を見つめた。

 淡く揺れる光が、ミレイナの瞳に反射していた。

 かすかに濡れている。

 

  

 

「お前のままでいい」

 俺はそう言っただけだった。

「無理しなくていい」

 

  

 

 ミレイナは驚いたように目を見開き、それから、ふっと微笑んだ。

「……ありがとう」

 その声は、とても静かで、確かだった。

 

  

 

 そして、彼女はそのまま、机に腕を置いて眠ってしまった。

 まるで力が抜けたみたいに、安らかな顔をして。


 


 俺は立ち上がり、部屋の隅にあった毛布を手に取った。

 静かに、音を立てないように――彼女の肩にそっと掛ける。

 少しだけ身じろぎして、また穏やかな寝息に戻った。


 


 ランプの火を消すと、部屋は静かな闇に包まれた。

 その中で、微かに聞こえる寝息だけが、彼女の今を伝えてくる。

 それは、初めて聞くミレイナの“安らぎ”の音だった。


 


 部屋を出る前に、ふと振り返った。

 毛布にくるまれて眠る彼女を見つめながら、

 この夜が、彼女にとって“始まり”でありますようにと――

 ほんの少しだけ、祈った。

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