7話:記憶より還るもの
──夜の静けさの中、気配が揺らいだ。
術式を張り巡らせたアトリエの空間に、重たくしなやかな影が滑り込んできた。
音もなく床を踏みしめるその存在は──猫の姿をしていた。
だが、ただの猫ではない。
体躯は大型犬ほどもある。
長く美しい毛並みは漆黒に輝き、夜そのものをまとっているかのようだ。
金色の瞳が、薄闇の中できらめいていた。
セレスは思わず一歩引いた。
「……これが、本当に……猫?」
「ふん、驚くには及ばぬ」
長毛の巨猫は棚へ跳ね上がるでもなく、まるで王のように悠然と歩み寄った。
そして、俺の前でぴたりと動きを止めた。
「……久しいな、我が友よ」
俺は顔を上げ、静かに応じた。
「猫の王……ようやく来たか」
俺がそう呟いた瞬間、セレスが肩を震わせた。
長毛の巨猫がゆっくりとこちらを向く。
「久しぶりに呼ばれた気がするな。……おまえの声で、だ」
その声はどこからともなく響いた。口は動かない。
だが確かに、言葉が心に直接届いてきた。
「言葉を使う猫……そんなの、聞いたことないわ」
セレスの呟きに、猫の王はふわりと尾を揺らした。
「我は“猫”であって“猫”にあらず。
古き契約により、この姿を選びし存在……貴様らの区分など、どうでもよい」
それは誇りというより、飽きたような響きだった。
「……本題に入ろうか」
猫の王の瞳が、ゆっくりと俺を見据える。
「“あれ”が目覚めつつある。……おまえの記憶にいる女、ミレイナのことだ」
空気がひとつ、凍った。
俺は無言で、セレスが小さく息を呑む音を聞いた。
「やはり……彼女か」
俺は静かに目を伏せる。
「彼女はもう術師ではない。ただの失踪者のはずだった」
「それは、過去の話よ。今の“あれ”は違う。
知ってのとおり、あやつは契約の器だった。だが、制御できずに逃げた。
……そしていま、器ではなく“支配者”になろうとしている」
俺の中で、かつての記憶が揺れる。
隣で魔術の才を競い合い、同じ術域を歩いた少女。
あまりに聡明で、あまりに脆かった存在。
「彼女は、なぜ……戻ってきた?」
猫の王の声は、低く唸るようだった。
「おまえを取り戻すためだよ。……おまえの術式、その根幹にある“核”を奪うために」
その言葉に、空気がひときわ重くなった。
猫の王が視線を逸らさずに告げた真実は、静かに、だが確実に場を支配していく。
セレスは黙って聞いていた。
猫の王と俺の会話を、ひとつも聞き逃すまいとするように。
──だが、「ミレイナ」という名が出たとき。
その瞬間、彼女の眉がわずかに寄った。
「……知らない名前。でも、感じる。嫌な気配」
その声には、ざらついたものがあった。
理屈ではない。直感だ。
“核”という言葉に、セレスの術師としての本能が反応している。
「術の“核”を奪う? そんなこと、できるの……?」
問いというより、呟き。
だがその中には、不安と怒りが混じっていた。
「できるわけない。……でも、それを“やろうとしている”奴がいるなら──私は、絶対に許せない」
その言葉に、猫の王がにやりと口元を歪めた。
「おまえ、思ったより気が強いな。
いいぞ。そうでなくては、奴とは戦えん」
セレスは猫の王を見返し、そして俺に向き直った。
「……術の“核”って、私にもあるの? 私も、奪われる対象になるの?」
その問いに、俺は目を伏せた。
「──おまえがここにいる限り、そうはさせない。
ただ……ミレイナは、“自分以外の術”を全て解体して、理解し尽くそうとしてる。
おまえも例外じゃない」
セレスの喉が、微かに鳴った。
けれど目は逸らさない。わずかに強くなっていた。
言いかけて、彼女は言葉を止める。
その目が、俺を見ていた。
「その人は……あなたにとって、特別な誰か?」
問いには棘はない。だが無感情でもない。
それは、自分の知らない過去への慎重な探りだった。
「昔、術を共に学んだ相手だ。……才能も、力も、すべてが突出していた。
けど、同時に──危うかった」
「危うい?」
「力に溺れていたわけじゃない。
でも……“術こそ真理”だと信じていた。
人も感情も、術にとっては余分だと」
俺の言葉に、猫の王が尾をひとふり。
「かつては“術に殉じる者”だった。だが今は──“術に執着する者”だ。
執着とは、崩壊の兆しだ。危険な兆候だな」
セレスはしばし沈黙したあと、ゆっくり言った。
「なら、その人と私は……きっと、全然違う。
私は──術の中で、誰かのために生きたいから」
その言葉に、猫の王は目を細めた。
「……ほう。ずいぶん、人間くさいことを言うものだな。
だが、面白い」
猫の王が、喉の奥で笑った。
その長毛の巨体をわずかに揺らし、ふわりと尾を巻く。
「術師というのは、孤独なものだ。誰にも理解されず、ただ己の式と語らう存在。
だが──おまえは違うようだな、セレス」
その名を、初めて正確に呼ばれた瞬間。
セレスの肩が、わずかに揺れた。
「……名前を知っているの?」
「知らぬはずがない。“核”を持つ者の名は、魔に連なる存在の間で囁かれる」
猫の王は薄く目を細め、俺へ視線を移した。
「そして──おまえが繋いだ」
俺は無言でうなずく。
すべては、術式の選定の時点で始まっていた。
セレスは数秒、目を伏せ、そして告げた。
「……私は、その女を知らない。会ったこともない。
でも、私の式に指を突っ込んでくるような奴が相手なら──私は、術師として、決して譲らないわ」
猫の王が、声を上げずに笑った。
その巨体が静かに前へ踏み出し、セレスの目の前に立つ。
「ならば、認めよう。
術師・セレス。おまえの核は、まだ未熟だが──磨けば光る。
……ミレイナの掌には収まらん、面白い歪さだ」
セレスは、睨むようにその瞳を見上げた。
だが、その視線は怯えではない。試される者の、誇りに満ちた眼差しだった。
「次に進むのは、おまえたちの意志次第だ。
術の“核心”に踏み込むなら──王である私は、その扉を開く鍵を持っている」
そう言って、猫の王は背を向けた。
その大きな背が、薄い光の中へと消えていく。
セレスがぽつりと呟いた。
「……あの猫、本当にただの猫?」
「俺にも、わからない」
そう返すと、彼女はようやく少しだけ、息を吐いて笑った。
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