ゆめみるくじら。

鯨井涼介

姉さんと僕

『拝啓、姉さん。


 僕はもうすぐ小学校の卒業式を迎えます。

 学校でお世話になった家族に手紙を書こうと言うことになり、父さんや母さんより真っ先に頭に浮かんだのが姉さんだったのでこうして手紙を書いています。


 姉さんは僕が小学四年生の頃、父さんと母さんが大喧嘩していたときの夜のことを覚えていますか?

 二人の聞いたことのない大きな声と険悪な空気に耐えられず部屋で蹲っていた僕の手を姉さんは黙って引いて外に連れ出してくれました。正直、あの時の僕は姉さんと口を聞いたことも無かったのでとても怖かったです。

 外は暗く、姉さんも僕も何も言葉を発さず、とても静かで、いつもより夜道が怖く感じました。

 しばらく歩いていると警察官が僕らに声をかけてきました。小学生の僕が夜に出歩いているのが心配だったのでしょう。姉さんは免許証を見せて自分は保護者だと言いました。その時久しぶりに聞いた姉さんの声がこんなに低かったっけと思いました。

 警察官はその言葉を聞いても姉さんを怪訝そうな目をして見ていたのですかさず僕が、家で父さんと母さんが喧嘩をしていているんです、と伝えました。警察官は僕の言葉を聞いてしばらく考え込んでから、夜の十一時までには家に帰るようにとだけ言ってどこかへ行きました。姉さんは長いため息を吐いてから再び僕の手を引き歩き出しました。

 しばらくして、たどり着いたのは錆びれた小さな映画館でした。どれ見る、と姉さんが僕に声をかけます。それが姉さんと僕の初めての会話でした。

 急に映画館に連れてこられても特に見たい映画なんてなかったのでタイトルだけ知ってる子供向けアニメの映画の名前を適当に言うと、姉さんはチケットを2枚買いました。僕が売店でポップコーンとジュースも買いたいと言うと、ジュースなんて飲んだら途中でトイレに行きたくなるからだめだ、と返されました。結局大きいサイズのポップコーンを一つずつ抱え、映画を見始めました。

 内容はよく覚えていません、特に興味もないアニメの映画だったのである程度のキャラの設定も分からず、特に面白いとも思えませんでした。僕でさえ楽しめてないから、もしかしたら姉さんは怒ってるんじゃないのかと恐る恐る隣の席を見たら、姉さんは真っ直ぐとスクリーンを見ていました。

 その目は楽しんでいるわけでもなく退屈そうにしているわけでもなくただただスクリーン見ているように感じました。

 塩味のポップコーンに水分を取られ、映画の中盤であの時ジュースを諦めた事を後悔しました。映画もつまらない、喉は乾く、退屈な時間でした。だけど、どこか居心地良く感じました。


 後日再び父さんと母さんが喧嘩を始めました。

 僕は家を出る支度をして姉さんの部屋に行きます。姉さんの部屋のドアを開けると広がるタバコの臭いで軽く咽せた僕を姉さんが軽く小突き、勝手に入ってくるなと怒りました。姉さんはすでに身支度を整えており、僕らは手を繋ぎ映画館に向かいました。

 姉さんは返事はそっけないものの、僕が声をかければ必ず返してくれるので、僕は必死に話題を探します。タバコ吸うんだね、うん、映画館に喫煙所あるけど吸わないの、ガキの前で吸えるかよ、僕は外で待ってるよ、目を離したらアタシの責任になるから嫌だ。

 姉さんは鬱陶しいと思っていたかもしれないけど僕は会話しながら映画館に向かう道がとても楽しかったです。

 その日見た映画は難しい海外の字幕映画でした。内容が全く頭に入ってこず、気がついたら僕は寝ていました。

 映画終わったぞ、姉さんは僕が映画の途中で寝た事を怒ることもなく優しく起こし、そこから会話なく家に帰りました。


 あの夜からずっと父さんと母さんは喧嘩を続けていました。

 今まで喧嘩することのなかった二人に何があったのか僕は気になって僕の手を引き映画館に向かう姉さんに尋ねました。父さんと母さんは仲が悪いから喧嘩している、姉さんはそう答えました。仲が悪いのになんで結婚したの、と僕は返します。そう聞くと姉さんは僕の手を離し、振り返って言いました。女手一つでアタシを育てられなくなって母さんはそこそこ金を持っていた父さんと結婚するために子供を作ったんだ、そして今父さんの会社の経営が傾いたことで喧嘩が始まった、二人は仲良くなんてない。

 僕は姉さんの言っている意味がその時わかりませんでした。姉さんは僕から背を向けて映画館に向かいます。

 僕は急いで姉さんを追いかけて手を掴みます。姉さんはそれを振り払うことなく黙って歩き続けました。

 その日の映画の内容は全く覚えていません。


 その後姉さんの言葉の意味を知りました。

僕と姉さんが普通の兄弟ではなかったことを、ネットで調べたら異父兄弟という単語を知りました。それを知ったところで特に何かが変わる事はなく、父さんと母さんが喧嘩をしていたら僕は姉さんと映画館に向かいました。


 僕が産まれたせいで父さんと母さんは仲が悪いのに結婚して今喧嘩をしているの、と僕がポツリとつぶやいた夜がありました。姉さんは僕の顔を振り返ることなく、アンタは巻き込まれたんだから被害者ヅラしておけばいい、とだけ言ってくれました。

 その日に見た映画は飼い主と犬の出会いと別れを描いた海外の映画でした。


 五年生の時、僕と姉さんが手を繋いで映画館に行ったところを見ていたクラスメイトがいて学校でしばらくそのネタでいじられました。五年生にもなって母親と手を繋いで歩いていたと、勘違いをされていたのであれは姉さんだよ、と弁明しました。結構歳に見えたと言われたので、姉さんはタバコを吸ってるから老けて見えるだけでまだ21歳だよ、とちゃんと誤解を解いておきました。

 それから今まで見た映画の話をしたらそこから興味をもったクラスメイトと仲良くなり、一緒に映画に行くことになりました。パンフレットを買い、ポップコーンとジュースを買い、目当ての映画を観て、感想を言い合い盛り上がりました。

 しかし、あの時間は僕の求めていた幸福とは違いました。同じ映画でも隣にいるのは姉さんであって欲しい、姉さんと感想を言い合うわけでもなく黙って暗い道を共に歩いていたい、言葉は気が向いた時だけ交わしたい、そう思いました。


 しかし僕は薄々気がついていました。姉さんは好意から僕に優しくしているわけではないということです。

 罵声を浴びせ合う両親のいる家に僕だけを置いて行ったら無責任だと責められるから、いつも映画に連れて行ってくれるのは僕とはなるべく会話をしたくないから、体感短くお互いに沈黙になれる場所だったからでしょう。

 なので僕は姉さんに尋ねました。姉さんはいつまで僕の面倒を見てくれるのかと、姉さんは小学生までだとキッパリと答えました。中学生になったら友達でも作って映画はそいつらと行け、と。

 僕には一緒に映画館に行く友達はいます。

しかし、彼らでは僕の望む時間を作れないのです。姉さんと映画館にいる時だけ、僕は全てから解放されている気持ちになれたのです。


 姉さんはそんな僕に反して僕の小学生の卒業を機に僕からの解放を望んでいるのです。それは当然なのかもしれません。

 姉さんからしてみたら僕は鬱陶しい子供で、嫌いな父さんの子供だったのです。

 それでも僕にとっては姉さんがくれた時間は宝物でした。あの錆びれた映画館の硬い椅子の上で姉さんと見たつまらないアニメ映画も、何も理解できない難しい海外の字幕映画も、びっくりさせることしか能のないB級ホラー映画も、サメが降ってくるめちゃくちゃな映画も、全てが大切な思い出です。


 僕はもうすぐ小学生を卒業します。短い間でしたが、幸せな時間をありがとうございました。


敬具。』


 ここまで読み終わると喪服を着た女は便箋をぐしゃぐしゃに丸めその場に泣き崩れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る