第2話 それでも揺れる心
ある朝、いつものように台所で湯を沸かしていた。
古びた電気ケトルから白い蒸気が上がり、やがてカチッという音とともに止まる。
マグカップにお茶の葉を少しだけ入れて、湯を注ぐ。
特別な朝じゃない。いつもと同じ。
だけど、窓の外から差し込む光がやけに眩しくて、私は思わず目を細めた。
「ああ、もう夏か」
そう口に出してから、自分でも少し驚いた。
季節の移り変わりに、声を出すほど反応するなんて、ずいぶん久しぶりだと思ったのだ。
昔は、もっと敏感だった気がする。
風の匂いとか、空気の乾き具合とか、通りを歩く人の服装とか。
何気ない変化の中に「季節」を見つけるのが、ちょっとした楽しみだった。
今はどうだろう。
目の前の変化さえ、意識にすら上らないことが増えた。
それでも、この朝の光は、妙に心に残った。
*
その日の午後、なんとなく外に出てみた。
目的はなかった。ただ、家の空気が少し重く感じた。
最寄りの駅まで歩き、何駅か電車に乗って降りたことのない駅で降りた。
本当に、それだけのことだった。
駅前には小さな商店街があり、レトロな喫茶店がぽつんとあった。
看板には「昭和47年創業」とある。
私はふと吸い寄せられるように扉を開けた。
中は薄暗く、コーヒーの香りが静かに漂っていた。
「いらっしゃいませ」
年配の女性が、カウンター越しに笑顔を向けてくれた。
私は席に座り、メニューを一瞥したあと、アイスコーヒーを頼んだ。
そういえば、コーヒーをやめてから、ずいぶん経つ。
久しぶりに口にした苦味は、思ったよりもやさしかった。
飲みながら、ふと、「ああ、昔はこういうのが好きだったな」と思った。
私の中に、まだ残っているらしい。
“好きだった気持ち”が、どこかに。
*
店を出て、商店街を歩いた。
ふと、古本屋の軒先に足が止まった。
外に置かれたワゴンを何気なく眺めていると、一冊の文庫本が目に留まった。
タイトルは、もう忘れてしまっていた詩集だった。
ページを開くと、懐かしい一節が目に飛び込んできた。
「気づかぬうちに、春が過ぎ、君の声も風にまぎれた」
読んだ瞬間、なぜか胸がきゅっと締めつけられた。
その詩が誰のことを言っているのか、自分でも分からない。
でも、そこに書かれた「気づかぬうちに」という言葉が、まるで自分のことのようだった。
気づかぬうちに、春が過ぎ。
気づかぬうちに、趣味が消え。
気づかぬうちに、私は何も感じなくなっていた。
その本を手に取った。値段は100円。安いものだ。
帰りの電車で、私はその本を読み続けた。最後までは読まなかった。
でも、途中まで読んで、「また明日読もう」と思った。
それだけで、少し心があたたかくなった。
*
夜、湯船に浸かりながら、今日のことを思い出していた。s
特別なことはしていない。コーヒーを飲んで、古本を買って、歩いただけ。
でも、私の中の何かが、すこし揺れた。
心っていうのは、案外しぶとい。
どれだけ固まったように見えても、ほんの少しの光や匂いで、ふっとほどけることがある。
私は今も、つまらない人間かもしれない。
だけど今日の私は、昨日の私とはちょっと違う。
それで十分だと思った。
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