第2話 それでも揺れる心

ある朝、いつものように台所で湯を沸かしていた。

古びた電気ケトルから白い蒸気が上がり、やがてカチッという音とともに止まる。

マグカップにお茶の葉を少しだけ入れて、湯を注ぐ。


特別な朝じゃない。いつもと同じ。

だけど、窓の外から差し込む光がやけに眩しくて、私は思わず目を細めた。


「ああ、もう夏か」


そう口に出してから、自分でも少し驚いた。

季節の移り変わりに、声を出すほど反応するなんて、ずいぶん久しぶりだと思ったのだ。


昔は、もっと敏感だった気がする。

風の匂いとか、空気の乾き具合とか、通りを歩く人の服装とか。

何気ない変化の中に「季節」を見つけるのが、ちょっとした楽しみだった。


今はどうだろう。

目の前の変化さえ、意識にすら上らないことが増えた。


それでも、この朝の光は、妙に心に残った。



その日の午後、なんとなく外に出てみた。

目的はなかった。ただ、家の空気が少し重く感じた。


最寄りの駅まで歩き、何駅か電車に乗って降りたことのない駅で降りた。

本当に、それだけのことだった。


駅前には小さな商店街があり、レトロな喫茶店がぽつんとあった。

看板には「昭和47年創業」とある。


私はふと吸い寄せられるように扉を開けた。

中は薄暗く、コーヒーの香りが静かに漂っていた。


「いらっしゃいませ」


年配の女性が、カウンター越しに笑顔を向けてくれた。

私は席に座り、メニューを一瞥したあと、アイスコーヒーを頼んだ。


そういえば、コーヒーをやめてから、ずいぶん経つ。

久しぶりに口にした苦味は、思ったよりもやさしかった。

飲みながら、ふと、「ああ、昔はこういうのが好きだったな」と思った。


私の中に、まだ残っているらしい。

“好きだった気持ち”が、どこかに。



店を出て、商店街を歩いた。

ふと、古本屋の軒先に足が止まった。

外に置かれたワゴンを何気なく眺めていると、一冊の文庫本が目に留まった。


タイトルは、もう忘れてしまっていた詩集だった。

ページを開くと、懐かしい一節が目に飛び込んできた。


「気づかぬうちに、春が過ぎ、君の声も風にまぎれた」


読んだ瞬間、なぜか胸がきゅっと締めつけられた。

その詩が誰のことを言っているのか、自分でも分からない。

でも、そこに書かれた「気づかぬうちに」という言葉が、まるで自分のことのようだった。


気づかぬうちに、春が過ぎ。

気づかぬうちに、趣味が消え。

気づかぬうちに、私は何も感じなくなっていた。


その本を手に取った。値段は100円。安いものだ。

帰りの電車で、私はその本を読み続けた。最後までは読まなかった。

でも、途中まで読んで、「また明日読もう」と思った。


それだけで、少し心があたたかくなった。



夜、湯船に浸かりながら、今日のことを思い出していた。s

特別なことはしていない。コーヒーを飲んで、古本を買って、歩いただけ。


でも、私の中の何かが、すこし揺れた。


心っていうのは、案外しぶとい。

どれだけ固まったように見えても、ほんの少しの光や匂いで、ふっとほどけることがある。


私は今も、つまらない人間かもしれない。

だけど今日の私は、昨日の私とはちょっと違う。


それで十分だと思った。

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