静けさの向こうに

ポチョムキン卿

第1話 つまらない人間になった

あの頃は、もう少し賑やかな人生だったと思う。

飲みに行ったり、スポーツを見たり、流行りの店に並んだり、休日が来るのが待ち遠しかった。


ところが、ある日を境に、私は急にあれこれをやめ始めた。

最初にやめたのは、飲み歩きだった。


いつからか、あの喧噪に疲れていたのだと思う。

空いたグラスと気の利いた会話。そういうものが「場代」以上の意味を持たなくなってしまった。

金を払って、疲れるだけの夜を過ごしている――それに気づいた瞬間、私はもう行かなくなった。


お酒も、やめた。

健康のためというより、単に「もったいない」と思ってしまった。

飲んでも楽しくない。税金を払って、次の日に頭が痛くなる。そんな行為に、意味を見出せなくなった。


読書もそうだ。

以前は四六時中、本を読んでいた。電車の中でも、寝る前のベッドでも。

だが、今はたまに手に取っても、数ページで閉じる。

登場人物の心の動きに、自分がうまくついていけない。


「終わりまで読む」という気力が、残っていないのかもしれない。


街歩きも、カフェ巡りも、服を選ぶのも、面倒になった。

毎日同じお茶を飲んで、同じものを着て、同じような食事を摂る。

それが、なぜか「落ち着く」と思ってしまう。


かろうじて、銭湯めぐりだけはまだ残っている。

けれど、それとて頻度は減った。以前のように「次はどこへ行こう」と地図を睨んでいた頃の情熱は、もうない。


「今日は何しよう」と考えることが、プレッシャーになった。

選ぶことが、つらい。外れたら損をした気分になる。だから、選ばない。


私は、つまらない人間になった。そう思った。


でも、だからといって悲しいかというと、少し違う。

どこかで「ほっとしている自分」もいる。

気を使わなくていい。見栄を張らなくていい。

誰にどう見られているかを気にせず、同じ一日を繰り返している。


あの頃の私は、「楽しいこと」をしていないと、不安だった。

何かしていないと、「何者でもない自分」が怖かった。


だけど、今は何者でもない時間に、逆に救われている。


風呂上がりに飲む麦茶の冷たさ。

よく乾いたタオルの匂い。

季節の移ろいに、わずかに揺れるカーテンの音。


それだけで、いいと思える日が、少しずつ増えてきた。


それでも時々、「これでいいのか?」という声が内側から聞こえてくる。

もしかして、このまま何にも興味が持てず、心が固まっていくのか。

もう二度と、何かに熱中できないのか。


そう思う夜は、ほんの少し、怖い。


けれど最近は、「それでもいいかもしれない」とも思う。


何もないことは、恐れることじゃない。

何かを手放していくことは、無価値になることじゃない。


むしろ、必要ないものを一つずつ削いで、ようやく見えてくるものがある。

無理に新しい趣味を見つけなくても、風の匂いが変わったことに気づけるなら、それで十分だ。


私は、少しずつ「子ども」に戻っていってるのかもしれない。

外の世界を駆け回るよりも、目の前のものをじっと見つめるような、そんなふうに。


明日も同じお茶を飲んで、同じ服を着るだろう。

でも、少しだけ空が澄んで見えるかもしれない。


それなら、それでいいと思うのだ。

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