第19話「意欲の死」




1


洸が病院の外に出ると、街の様子に異変を感じた。


いつもなら活気に満ちた商店街が、妙に静まり返っている。人は歩いているが、その表情は皆一様に無感情だった。


「おかしい...」


洸が近くの書店に入ると、店主が椅子に座ったまま虚ろな目で天井を見つめていた。


「すみません」洸が声をかける。


店主がゆっくりと洸を見たが、その目には生気がなかった。


「何か...」店主が機械的に答える。「ご用でしょうか」


「大丈夫ですか?体調でも悪いんですか?」


「体調...」店主が考え込む。「別に...何も感じません」


洸は不安になった。これは明らかに異常だった。


街を歩き続けると、同じような光景がいたるところで見られた。レストランのウェイターは注文を取ることすら面倒そうにし、子供たちは公園で遊ぶことをやめて、ただぼんやりと座っている。


洸のスマートフォンにニュース速報が流れた。


「謎の現象で全国的に無気力症状が拡大。専門家は原因調査を急ぐ」


ニュースによると、3日前から全国で同様の症状を訴える人が急増しているという。患者は意識ははっきりしているが、あらゆることに対する意欲を失い、感情表現も極端に乏しくなっているとのことだった。


「これって...」


洸は Dream Dweller との関連を疑った。古き契約者たちがシステムを停止したことで、何らかの副作用が起きているのかもしれない。




2


洸は大学の心理学部を訪れた。橋本教授の後任として着任した新しい教授、山崎博士に話を聞くためだった。


研究室に入ると、山崎博士は机に向かって何かの資料を整理していた。


「先生、街の異常現象について聞きたいことが」洸が話しかける。


山崎博士が振り返った。50代の男性で、鋭い眼光の持ち主だったが、その目にも他の人々と同じ虚ろさがあった。


「ああ、君は...」山崎博士が無感情に答える。「確か橋本教授の研究に関わっていた学生だね」


「はい。今回の無気力症状の原因について、何か分かっていることはありますか?」


「原因?」山崎博士が考え込む。「私が開発したDDS(Dream Deletion System)の効果だよ」


洸は驚いた。


「先生が原因を?」


「そうだ」山崎博士が事務的に説明する。「Dream Dweller現象を根絶するために開発したウイルスプログラムだ」


山崎博士の説明によると、DDSは人間の脳から夢を見る機能を完全に削除するシステムだという。夢を見ることができなくなれば、Dream Dwellerとの接触も不可能になるという理論だった。


「でも、副作用で人々の意欲も失われているようですが」洸が指摘する。


「副作用?」山崎博士が首をかしげる。「これが正常な状態だ。夢という幻想から解放された、理性的な人間の姿だよ」


洸は戦慄した。山崎博士は自分の研究の副作用で、感情を失っていることに気づいていない。


「でも、人生に喜びがなくなってしまいます」


「喜び?」山崎博士が考え込む。「そんなものは幻想だ。夢なき世界が正常なのだよ」


洸は議論を諦めた。山崎博士との会話から、重要な事実が分かった。DDSウイルスは夢だけでなく、人間の感情や意欲の根源も破壊してしまうのだ。





3


病院に戻ると、ひかりがミナのベッドサイドで泣いていた。


「ひかりさん」洸が声をかける。


「洸くん...」ひかりが涙を拭く。「もうミナは戻ってこないのかも」


ひかりの表情にも、わずかに無気力の兆候が見えた。DDSウイルスの影響は、徐々に広がっているようだ。


「諦めないでください」洸が励ます。


「でも、もう3週間よ」ひかりが絶望的に言う。「お医者さんも、もう期待しない方がいいって」


その時、田口が病室に入ってきた。彼の表情も以前ほど活気がなかった。


「洸、大変だ」田口が平坦な口調で言う。「街中の人間がおかしくなってる」


「俺も気づいた」洸が答える。「原因も分かった」


洸は田口とひかりに、DDSウイルスについて説明した。


「つまり、夢を削除するウイルスが、人間の意欲も削除してしまったってことか」田口が理解する。


「そういうことです」洸が頷く。


「じゃあ、俺たちも感染する前に逃げよう」田口が提案する。「このままここにいても、みんなゾンビみたいになってしまう」


しかし、洸は首を振った。


「ミナを置いていけない」


「でも」ひかりが心配する。「あなたまで感染したら、誰がミナを救うの?」


洸は迷った。確かに理性的に考えれば、田口の提案が正しい。しかし、ミナを見捨てることはできなかった。


その時、洸の心に懐かしい声が響いた。


*「人間から夢を奪うなど愚行だ」*


それは消滅したはずの古き契約者、アインシュタインの声だった。





4


洸が意識を集中すると、薄っすらと古き契約者たちの姿が見えた。


彼らは完全には消滅しておらず、わずかな意識を残して洸に語りかけてきた。


*「夢こそが人間の本質なのに」*ダ・ヴィンチの声が響く。


*「夢のない人間など、機械と同じだ」*ベートーヴェンが憤慨する。


洸は複雑な心境になった。Dream Dwellerは確かに敵だった。しかし、この件に関しては彼らが正しいように思える。


夢を完全に奪われた人間は、確かに生きる意欲を失っていた。喜びも悲しみも感じられず、ただ存在しているだけの状態だった。


「でも、夢は人を狂わせもする」洸が心の中で反論する。


*「それでも夢は必要だ」*漱石の声が答える。*「希望も絶望も、すべて夢から生まれる」*


洸は考え込んだ。確かに夢には危険性がある。しかし、夢のない世界は更に恐ろしい廃墟だった。


その時、洸自身にもDDSウイルスの影響が現れ始めた。


街の無気力な人々を見ても、以前ほど強い感情を抱かなくなっている。ミナへの愛情すら、徐々に薄れているように感じられた。


「やばい...」


洸は恐怖した。このままでは自分も感情を失ってしまう。





5


その夜、洸は最後の力を振り絞って夢の世界に入ろうとした。


しかし、DDSウイルスの影響で、夢を見ることが困難になっていた。意識がぼんやりとして、夢と現実の境界が曖昧になる。


何とか夢の世界にたどり着くと、そこは荒廃した風景だった。


以前の美しい夢の世界は消え失せ、灰色の荒野が広がっている。空も曇り、生命の気配が全く感じられない。


「ミナ...どこにいる」


洸は荒野をさまよい歩いた。しかし、どこを探してもミナの気配がない。


DDSウイルスの影響で、夢の世界自体が崩壊し始めているのかもしれない。


洸の感情も、現実と同じように薄れていく。ミナを救いたいという気持ちが、まるで遠い記憶のように感じられる。


「俺は...何をしてたんだっけ」


洸は混乱した。自分が何のためにここにいるのか、だんだん分からなくなってくる。


夢も現実も、等しく色褪せて見えた。すべてがどうでもよく感じられ、行動する意味を見出せない。


洸は初めて、完全な絶望を味わった。


これまでどんなに苦しい状況でも、ミナを救うという希望があった。しかし今は、その希望さえも失われようとしている。


「もう...どうでもいいか」


洸がその場に座り込もうとした時、かすかに歌声が聞こえた。


美しい女性の歌声。どこか聞き覚えがある、温かい声だった。





6


歌声に引かれて歩いていくと、荒野の中に小さな光の点が見えた。


近づいてみると、そこにミナが座っていた。


彼女は一人で歌を歌っており、その歌声が荒廃した夢の世界に唯一の美しさをもたらしていた。


「ミナ...」


洸がミナの名前を呼ぶと、彼女が振り返った。


「洸くん」ミナが微笑む。「やっと来てくれたのね」


洸はミナの前にひざまずいた。彼女の存在が、失いかけていた感情を蘇らせてくれた。


「君を救いに来たんだ」洸が言う。


「私は大丈夫よ」ミナが答える。「ここで歌を歌っていれば、夢の世界が完全に消えることはないから」


ミナの説明によると、彼女はDDSウイルスが夢の世界を破壊し始めた時、最後の砦としてここに残ったという。彼女の歌が、夢の世界の最後の生命を支えていたのだった。


「でも、もう限界」ミナが疲労した表情を見せる。「DDSウイルスはとても強力で、私一人では支えきれない」


洸は決意した。


「一緒に歌おう」洸がミナの手を取る。「二人で夢の世界を守ろう」


ミナが嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


二人は手を取り合い、荒廃した夢の世界に向かって歌い始めた。


歌声が響くと、灰色の荒野に少しずつ色が戻ってきた。


しかし、DDSウイルスの力は強大で、二人の歌だけでは完全に対抗することはできない。


現実世界では、人々の無気力化が進行し続けていた。


洸とミナの歌声が、人類最後の希望だった。


しかし、その希望も風前の灯火だった。


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