第3話「境界の崩壊」


1


その日の朝、洸は鏡の前で歯を磨いていたとき、ふと違和感を覚えた。


鏡の向こうに、誰かがいるような気がしたのだ。


振り返ってみても、当然誰もいない。狭いワンルームアパートに、洸以外の人間がいるはずもなかった。


「寝不足かな」


洸は首を振って、身支度を整えた。最近、夢での学習に夢中で、睡眠の質が悪くなっているのかもしれない。


大学への電車の中でも、洸は奇妙な感覚に襲われていた。車内で誰かが自分を見ているような気がするのだ。振り返ってみると、乗客たちは皆、スマートフォンを見たり、眠ったりしている。誰も洸を見ていない。


「気のせいだ」


洸は自分に言い聞かせた。しかし、不安は消えなかった。




2


一限目の日本史の授業中、異常が起きた。


「では、明治維新の背景について説明してください。新田君」


教授に指名された洸は立ち上がった。いつものように答えようとしたとき、突然頭の中に声が響いた。


『Les changements sociaux au Japon...』


フランス語だった。夢の中で出会ったフランス人の老紳士の声だ。洸は混乱した。


「新田君?」


教授が心配そうに声をかける。洸は慌てて答えようとした。


「えーと、明治維新は...Les bouleversements politiques ont été causés par...」


洸の口から、日本語とフランス語が混在した奇妙な答えが飛び出した。教室がざわめく。


「新田君、どうしましたか?」


教授が驚いて立ち上がる。洸は自分が何を言ったのか、よく分からなかった。頭の中で、フランス人の老紳士が微笑んでいるのが見えた。


「す、すみません。体調が悪くて」


洸は慌てて席に座った。周りの学生たちが、困惑した表情で洸を見つめている。


「大丈夫ですか?保健室に行きますか?」


教授の優しい言葉に、洸は首を振った。


「大丈夫です」


しかし洸の心は、大丈夫ではなかった。なぜあんなことが起きたのか、全く理解できなかった。





3


授業後、田口が洸に近づいてきた。


「おい、さっきの授業、どうしたんだよ」


田口の表情は深刻だった。


「ちょっと寝不足で」


「寝不足であんな風になるか?お前、急にフランス語で喋り出したぞ」


田口の指摘に、洸は動揺した。自分でも何が起きたのか分からない。


「最近のお前、本当におかしいよ」田口が続ける。「語学が急にできるようになったり、ピアノ弾けるようになったり。それは嬉しいことだと思うけど、なんか不自然すぎる」


「不自然って何だよ」


洸は少しイライラした。友人の心配は分かるが、今の洸には重荷に感じられた。


「昨日なんて、廊下で一人で中国語で独り言言ってたぞ。『謝謝、謝謝』って何度も」


洸は愕然とした。そんな記憶はない。無意識のうちに中国語を話していたというのか。


「そんなことしてないよ」


「嘘つくなよ。俺が見たんだから」田口の声に、心配と苛立ちが混じっている。「お前、本当に大丈夫か?病院行った方がいいんじゃないか?」


「大丈夫だって言ってるだろ!」


洸は声を荒げてしまった。周りの学生たちが振り返る。田口は驚いた表情を浮かべた。


「ごめん」洸は慌てて謝る。「最近ちょっと疲れてて」


「洸...」田口は心配そうに洸を見つめる。「何か困ったことがあったら、遠慮しないで相談しろよ。俺たち友達だろ?」


田口の優しさが、逆に洸を苦しめた。友達に心配をかけている自分が情けなかった。





4


昼休み、洸は音楽室でピアノを弾いていた。混乱した気持ちを落ち着かせるためだった。


ショパンの「雨だれの前奏曲」を弾いていると、心が少し軽くなった。この才能だけは確実に自分のものだという実感があった。


「洸くん」


後ろから優しい声がかかった。振り返ると、ミナが立っていた。


「先輩」


「いつ聞いても、素敵な演奏ね」ミナは微笑んでいるが、どこか心配そうだった。「でも、大丈夫?最近とても疲れて見えるけど」


ミナの優しさに、洸は安堵した。少なくとも彼女は、洸を変な目で見ていない。


「大丈夫です。ちょっと寝不足で」


「無理しちゃダメよ。才能があるのは素晴らしいことだけど、健康を害しては意味がないわ」


ミナが洸の隣に座る。彼女の存在が、洸の心を温かくした。


「先輩と話していると、気持ちが落ち着きます」


「私も洸くんと話していると、不思議と心が安らぐの」ミナが優しく笑う。「でも最近、なんだか遠い世界にいるみたい。大丈夫?」


ミナの観察力に、洸は少し驚いた。確かに自分でも感じている。現実と夢の境界が曖昧になってきているような感覚があった。


「心配かけてすみません。もう少ししたら落ち着くと思います」


「無理しないでね。私、洸くんのことが心配だから」


ミナの言葉に、洸の胸は高鳴った。彼女が自分のことを心配してくれている。それだけで、すべての苦しみが報われるような気がした。


「ありがとうございます」





5


その夜、洸は異常な体験をした。


夜中に目が覚めると、自分が知らない言語で独り言を言っていることに気づいたのだ。


「ሰላም ነህ? እንዴት ነህ?」


口から出ている言葉の意味が分からない。洸は慌てて口を押さえた。


「何だ、これは」


洸はスマートフォンで翻訳アプリを開いた。録音機能を使って、もう一度同じ言葉を口にしてみる。


アプリが分析した結果、それはアムハラ語だった。エチオピアの公用語だ。


「なんで俺がアムハラ語を?」


洸は混乱した。アムハラ語など、名前を聞いたことがあるかどうかも怪しい。夢の中で学んだ記憶もない。


なのになぜ、無意識にそんな言語を話しているのか。


洸は部屋の中を見回した。誰もいない。しかし、誰かがいるような気配を感じた。


「気のせいだ」


洸は自分に言い聞かせたが、その時、部屋の隅に人影が見えた気がした。


振り返ると、何もない。


しかし確かに、誰かがいたような気がした。夢の中で出会った人々のような。





6


翌日の授業中、洸はさらに奇妙な体験をした。


経済学の講義を聞いていると、突然教室に別の人物が現れた。


夢の中で出会った中国人の教授だった。


彼は教壇の横に立ち、洸にだけ聞こえる声で中国語で話しかけてきた。


『你好,我的学生。今天的课程很有趣吗?』


洸は驚いて周りを見回したが、他の学生たちは何も気づいていない。中国人教授は洸にだけ見えているようだった。


『回答我』(答えろ)


中国人教授が催促する。洸は混乱した。これは幻覚なのか、それとも現実なのか。


「新田君、どうしましたか?」


現実の経済学教授が心配そうに声をかける。洸は我に返った。


「あ、すみません」


洸が答えると、中国人教授の姿は消えた。しかし、その存在感は確実に感じていた。


夢の中の人物が、現実の世界に現れ始めている。


洸は恐怖を感じた。これは明らかに異常だった。





7


その日の夜、洸は夢日記アプリを開いた。最近の異常な体験について記録しようかと迷ったが、結局書けなかった。


代わりに、Dream Dwellerにメッセージを送った。


「最近、変なことが起きています。夢で出会った人が現実に現れたり、知らない言語を無意識に話したり」


すぐに返事が来た。


「それは才能の開花の兆候だ。恐れることはない」


「でも、不安なんです」


「君は特別な存在になりつつある。普通の人間とは違う能力を身につけているのだ」


「普通の人間じゃなくなるということですか?」


「そうだ。君はもっと高次の存在になる。それは素晴らしいことではないか」


Dream Dwellerの言葉に、洸は複雑な気持ちになった。確かに特別な能力は魅力的だが、このまま異常が進行していくのは恐ろしかった。


「でも、これ以上おかしくなったら」


「おかしくなるのではない。進化しているのだ」


「進化?」


「君は人間の限界を超えようとしている。それには痛みも伴うが、最終的には素晴らしい結果が待っている」


洸は迷った。Dream Dwellerの言葉を信じるべきなのか。それとも、田口の忠告を聞くべきなのか。


しかし、ミナとの関係や、これまで得た才能を考えると、後戻りはしたくなかった。


「分かりました。続けます」


洸は決断した。


「賢い選択だ。君の未来は輝かしいものになる」


Dream Dwellerのメッセージを読んで、洸は少し安心した。


しかし、その夜も洸は知らない言語で寝言を言い続けた。


そして夢の中で出会った人々が、現実の世界に現れ続けた。


洸の精神は、夢と現実の境界を失い始めていた。


もう元には戻れない変化が、洸の中で進行していた。


Dream Dwellerは満足げに洸の変化を見守っていた。


計画は順調に進んでいる。


もう少しで、洸は完全に夢の世界の住人になる。


そのとき初めて、洸は真実を知ることになる。


しかし、その時にはもう手遅れだった。


甘い才能の代償は、洸が想像していたよりもはるかに大きかった。


現実を失うことの恐ろしさを、洸はまだ理解していなかった。


境界の崩壊は、始まったばかりだった。


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