第19話 ハナさん

 寝室に案内された弥生は、クローゼットの中を漁っている悠里の母親に声を掛けた。


「おばさん……」

「なぁに?」

「……ごめんなさい」


 悠里の母親は漁る手を止め、振り向いた。


「あなたが謝る事じゃないわよ。弥生ちゃん。だったわね? 遠慮しなくていいから。ね? そうだ、私のことも名前で呼んでもらおうかな」


 悠里の母親はニッコリと微笑む。


「ハナって言うの。咲くに菜の花の


 花菜はなは無邪気な笑顔で言う。


「うちは男ばかりだから。女の子が家にいると何だか嬉しい」


 花菜は再びクローゼットに向き、パジャマを見つけ出すと「ちょっとおばさんぽいけど」と言って弥生に手渡す。


「下着は……買ったばかりのものがあるから、それでいいかしら? 大丈夫、おばさんぽくないの出してあげるから」


 と笑い、弥生の肩をぽんぽんと優しく叩く。


「あの、ハナさん……」

「なぁに?」

「ありがとうございます」


 花菜は微笑みながら頷き、弥生を風呂場へ案内した。


 浴槽には既に湯が張ってあり、手をつけてみれば、ちょうど良い温度だ。

 膝の傷にしみないように気をつけながら身体を洗い、湯船につかれば全身が温かくなり、不安で怖かった気持ちも少しずつ解れていく。


 弥生は風呂から出て、花菜に声をかけた。


「悠里に声掛けてあげて」

「はい……」

「おやすみ、弥生ちゃん」

「おやすみなさい」


 弥生は二階に上がって、教えられた悠里の部屋のドアをノックする。

 くぐもった声が聞こえ、そっとドアを開けて中を覗き見れば、ベッドに横になって本を読んでいる悠里と目が合う。

 弥生は恥ずかしさから、思わず視線を逸らし、俯く。


「お風呂、あいたよ。先にごめんね。ありがとう」

「うん。冷めないうちに早く寝ろよ」

「うん。おやすみなさい」

「おやすみ」


 弥生は自分に与えられた部屋へ行き、用意されていた布団の中にもぐる。


 知らない家の、畳の匂い。


 落ち着かない気持ちのまま、電気を消そうと思ったが、暗くなるのが怖くて全部は消せなかった。

 弥生は、オレンジ色の光に染まった部屋の天井を、じっと見つめる。


(目を閉じるのが怖い……)


 先ほど起こった出来事が脳裏に焼き付いていて、目を閉じると犯人が覆い被さって来る。


 どのくらいの時間、天井を見ていたか。

 誰かが階段を上る音が聞こえた。

 その音は悠里の部屋の前で止まり、静かにドアが閉まる。

 弥生は、しばらく周りの音に耳を澄ませていた。

 一階からも何の音もしなくなり、自分が一人になったと感じた途端、再び恐怖が襲ってきた。


 弥生は自分の身体をさすり、布団の中にもぐる。震えは止まるどころか増すばかりで、奥歯がカチカチと音が立つ。


 弥生は起き上がり、部屋を出た。

 悠里の部屋の前に立ち、ノックをしようか一瞬迷ったが、それでも震える手でドアをノックする。その音は、掠れる様な小さな音だ。

 弥生は、やはり部屋へ戻ろうと背を向けると同時に、部屋のドアが開かれた。


 足を止め、部屋の主を見上げる。

 悠里は小刻みに震えている弥生を見て「眠れないのか?」と訊ねた。


 弥生は俯いて、何も答えない。悠里は小さく息を吐くと「入って」と招き入れた。


「その辺に座ってろ」


 部屋を出て行き、しばらくすると、弥生がさっきまで寝ていた布団を一式、一気に抱えて持ってきた。


「藤崎はベッド使って良いから。俺は床で寝る。それなら怖くないだろ?」

「でも……」

「安心しろ、襲わないから」

「そんなこと……!」


 瞬時に顔を赤くした弥生に、悠里はクスリと笑う。


「電気、しばらく点けてていいか?」

「うん」


 悠里は布団を敷き、枕だけ交換すると、布団の上で本を読み始めた。

 弥生は悠里のベッドに入り、壁側を向く。

 布団から、不思議と安心する香りが漂う。

 悠里の香りだと気付くと、妙に恥ずかしくなる。


 弥生は寝る向きを変えて、悠里を見た。

 悠里は本を読むことに集中して、弥生が見ている事に気が付いていない。

 まだ完全に乾ききっていない髪を、後ろに流し、いつもは前髪で隠れてしまっている顔が、はっきりと見て取れる。

 すっきりと整った横顔は、やはり旧校舎の図書室で会った【高橋】と似ている。


「雨宮」


 呼び声に、悠里は本から目を離し、弥生に視線を向けた。


「なに?」

「少し、話してもいい?」


 悠里は本を閉じると、布団に入り身体を横に向け、片腕を枕にして「どうぞ」と言った。


「何読んでるの?」


 悠里の枕元に置かれた本を指さす。悠里は本を取り、弥生に手渡した。


「トールキンだよ。イギリスの児童文学。指輪物語って知ってる?」

「うん。読んだことはないけど、映画は観たよ」

「中学の頃、日本語で読んだんだ。英語でも読んでみたくなって、第二図書室で借りた」

「英語、得意なんだね」

「いや、そうでもないよ。分からない単語はまだ沢山ある。たまに面倒で辞書引かないで読むから、間違った解釈とかあってさ。あんま成長がないよ」


 一つしか違わないのに、普段は大人びた印象のある悠里だが、笑いながら話すその顔は、同年代の男子そのものだ。


「すごいなぁ。私、英語全然だめだから。桜周おうしゅう高校に入るのも、知子が居なかったら受からなかった」

「そう言えば、あの人、英語上手いよな。帰国子女?」

「違うよ。知子の家は、なんていうか。お金持ちで。英才教育? っていうのかな。子供の頃から習ってたんだって」

「ふうん」


 悠里は興味がないのか、それ以上は言わず頷くだけだった。


「私、得意なことがないの。だから、雨宮や知子が羨ましい」


 弥生は布団を引っ張り顔を半分隠す。


「そんなことはないだろう。藤崎にだって、

凄いところはあると思う。それを自分で気がついていないだけだ。俺だって、英語は決して得意なわけじゃない。自分よりも得意そうに見えるってだけで、本人からしたら、それらは得意でも何でもないかもしれない。藤崎はきっと、理想が高すぎるんだよ。俺から見たら出来ていることでも、目標が高すぎるから、自分は何も出来ないって思っているだけなんじゃないのか?」


 弥生は逸らしていた視線を、悠里に向けた。悠里は真顔で弥生を見ている。弥生は恥ずかしさから、再び逸らした。


「……大好きなことがあった。それなら誰にも負けないって自信があったのに、自分よりそれが上手くできる人を見て、落ち込んで……」

「嫌いになった?」


 弥生は頷いた。


「私は全然だめだって。そこからもっと上手くなるように努力すれば良かったんだけど、投げ出しちゃった。私には無理だって」

「それは、何から?」


 悠里の問に弥生は黙り、しばらく沈黙が流れた。


「私ね、兄がいてね。皐月さつきって言うんだけど。皐月は絵が本当に上手なの」


 唐突に始まった話しに、悠里は不思議そうに弥生を見たが、すぐに気がついた。


「藤崎が好きだった事って、絵を描くことなのか?」


 そう訊ねるも、弥生はそれには答えず、ぽつりぽつりと呟くように、話しを続ける。


「でも、きっと。皐月だって、雨宮には敵わない。雨宮の絵の中には、時間が流れているから……」

「時間?」


 悠里はどういう意味か聞こうとしたが、弥生は静かに寝息を立て始めていた。


 規則正しいリズムで聞こえてくるその音に、悠里は机の上の電気を点け、天井の電気を消したのだった。



 翌朝、弥生が目を覚ますと、悠里は部屋にいなかった。

 悠里が寝ていた布団は綺麗に畳まれ、部屋の隅に置かれている。


 弥生はベッドから出ると、ちょうど花菜が部屋へ入ってきた。


「あら、目が覚めた? おはよう」


 花菜は、弥生の着替えを手に持っていた。


「おはよう、ございます……」


 弥生は複雑な気分だった。

 不安だったとはいえ、息子の部屋で、しかも、息子のベッドで寝ていたのにも関わらず、花菜は嫌な顔一つせず、昨日と変わらない笑顔で弥生に接する。

 弥生は、花菜にどういう顔で挨拶をすればいいのか分からず、思わず謝罪した。


「あの……ごめんなさい」


 花菜は小首を傾げたが、状況から弥生が何を言わんとしているのか理解すると、声を立てて笑う。


「うちの息子、キスくらいした?」


 と、茶目っ気たっぷりに言うその顔が、少女のように可愛らしく、弥生は拍子抜けした顔で花菜を見た。


「これ、着替えね。私ので悪いんだけど。制服は、さっき急ぎでクリーニングに出したから。明日には出来るって。着替えたら下に降りてらっしゃい。ご飯食べて、病院へ行きましょう」


 花菜が出て行くと、弥生は用意された服を着た。シンプルな白シャツに、ベージュのフレアパンツだ。フレアパンツは少し大きめだったが、用意されていたベルトを締めれば、ちょうど良かった。上からカーディガンを羽織り、一階へ向かう。

 洗面所で顔を洗おうと鏡を見れば、その顔は少し浮腫んでいた。


 居間に入ると、細身の男性がソファーに座って新聞を読んでいた。弥生に気がつき、新聞を畳み、ニッコリと笑う。


「よく眠れましたか?」


 柔らかな笑顔とゆったりとした口調は、悠里の兄である【高橋】を思い起こさせる。二人の父親だろうと分かり、すぐに頭を下げた。


「はじめまして、藤崎弥生ふじさき やよいです。突然お邪魔してしまって、すみません」


 悠里の父親は微笑みながら頷いた。


「いいんですよ、うちは。自分の家と同じように過ごしてください」

「あ……ありがとうございます」


 弥生は花菜に促され、朝食を食べ始める。

 雨宮家の朝は和食らしく、テーブルの上には白ご飯に、豆腐の味噌汁、のり、焼き鮭や卵焼き、漬け物に納豆が用意されていた。


「悠里、あなたまた納豆食べなかったでしょう」


 花菜は、テーブルの上にある納豆の容器を見て言った。


「栄養が偏ってるんだから食べなさい」

「いらない」


 悠里はそう言うと、そそくさと二階に逃げた。

 弥生は二人の遣り取りに笑みを浮かべ、朝食を食べた。

 学校ではクールで騒ぐことのない悠里が、家では母親と言い合いをし、学校では見せることない表情を、いくつも見せている。

 素の悠里は、弥生と何ら変わりのない、普通の高校生だ。


 食事を済ませ、弥生と悠里は花菜の運転する車で病院へ向かった。


「遠回りして」

「わかってるわよ」


 花菜は公園の方角とは逆の道に車を走らせる。

 弥生は、二人が気を遣って公園前を通らないようにしてくれたことに気がつき、その気遣いに胸が熱くなった。


「弥生ちゃん、今の時間、お家の人達は居る?」


 花菜は真っ直ぐ前を向いたまま、後部座席に座る弥生に声をかける。


 弥生はスマホの時計をちらりと見れば、八時を少し過ぎたところだ。

 祖父母は毎日欠かさず散歩をしており、弥生の知る限りでは、散歩は朝八時から十時にかけてだ。


「今は、散歩に出掛けてます。十時頃まで留守かと……」

「そう。なら、ちょうど良いわね。ちょっとお家寄るわね。印鑑が必要なの。あと、保険証と着替えもね」


 顔合わせると心配させちゃうでしょ、と花菜が言ったことで、何故不在の方がいいのか、弥生は納得した。



 祖父母の家に着くと、やはり二人は不在だった。

 弥生は鍵を開け家に入り、足音をしのばせ、自室へ向かう。

 足音を忍ばせなくても、家の静けさから、誰もいないことが分かっていたが、なんとなくそうしていた。

 弥生は引き出しから保険証と印鑑を取り、花菜の言う通り、二日分の着替えを用意した。


 車に戻ると、花菜はまず病院へ向かった。

 医者は怪我の理由を色々聞いてきたが、花菜がフォローし、診断書を受け取ると、車に戻る。

 車の中で待機していた悠里は、読んでいた本から顔を上げた。


「どうだった?」

「うん。診断書もらってきた。怪我の治療もしてもらった。頭の方も少しコブが出来てるけど異常はないって」

「そうか」


 警察署に到着すると、今度は悠里と一緒に署内に入る。

 目撃証言として、悠里も書類の確認をしなくてはいけなかったからだ。


 昨日、悠里の家に来た森田の元へ案内され、二人は書類の内容を森田と確認をし、判子を押す。


「では、犯人が捕まり次第、ご連絡します」


 森田の言葉に、二人は「よろしくお願いします」と頭を下げ、警察署を出た。


 花菜の待つ車に戻れば、「ご苦労様」と言って、ペットボトルの温かいお茶を手渡たしてきた。


「ちょっとドライブしようか」


 花菜は、弥生の知らない道を一時間ほど走らせた。


 辿り着いた場所は、海岸だった。


 花菜は弥生に靴を脱いで波打ち際に行こうと誘い、二人は波打ち際で海水に足を濡らした。


 悠里は二人には混ざらずシーグラスを拾い、帰り際、それを黙って弥生に手渡した。


 再び雨宮家に戻れば、家の中はしんと静まりかえっていて、人の気配がなかった。


「おじさん、出かけたのかな」

「仕事だろ」

「そっか……」


 弥生は小さく頷いた。

 

 風呂場を借りて足を洗い、自分に与えられた部屋で荷物を開ける。

 久しぶりに行った海は、嫌なことを全部洗い流してくれたようで、心が元気になってきたのが分かる。

 弥生を元気づけようとしてくれる花菜。そして嫌な顔をせず付き添ってくれる悠里に、弥生はの心は更に温かい気持ちになった。


「どうやって、お礼をしようかな……」


 悠里から貰ったシーグラスを掌に乗せ、そっと呟いたのだった。

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