平成コギャルとパンチドランカー

柳屋玄吾

写ルンですと廃病院

足立区の廃病院。駅からも団地からも外れた、誰も寄りつかない場所。


コンクリートの外壁はところどころ崩れ落ち、鉄筋がむき出しになっている。落書きや貼り紙でベタベタにされ、もはや病院名すら読めない。

駐車場のアスファルトはひび割れ、草が伸び放題。

砕けた窓ガラス、自転車のフレーム、濁った水のバケツ、壊れたカラーコーンが夜の闇に埋もれている。


建物に近づくほど、体がどんより重くなる。

じっとり湿った空気が服にまとわりつき、車の音も遠い。

聞こえるのは、みんなの足音とどこかで鳴く猫の声だけ。

フェンスをくぐると、玄関は半開き。ガラスの破片を踏む音が静かに響く。


中に一歩踏み込むと、空気は外よりずっと冷たいのに、どうしようもなく重い。

埃、カビ、古い消毒液――そんな匂いが鼻を突く。

ロビーの天井は一部崩れ、蛍光灯は壊れたまま、真っ暗。

床には泥の跡、転がったカルテ、乾いた紙コップ。

壁には曲がったカーテンレールと、かすれた“面会時間”の文字。

それすら落書きで消されている。

どこかの部屋のドアがわずかに開いて、中から何かがじっとこちらを見ている気配。



カオリンは平気なふりで歩調を合わせるが、玄関をくぐった瞬間から、背筋に冷たいものが這っていた。


視線を感じる。


受付カウンターの奥――薄暗いその向こうに、真っ白な“女”が立っている。

顔はぼやけているのに、輪郭だけがやけに鮮明。

じっと、動かず、こちらを見ている。


足音、誰かの咳払い、缶コーヒーを開ける音。

全部が不自然に大きく響く。


奥の階段の手すりはねじれて折れ、誰も触れたがらない。

廊下は沈み、足音に何かが返事しそうな気がして、全員の口数が減っていく。


カオリンだけが知っている。

ここは昼間でも人が寄りつかない場所。

夜に来ていい場所じゃない。

――本当は、今すぐ帰りたかった。


でも、それを口にした瞬間、自分がこの輪から外れる気がして、カオリンは黙って前を見た。


「なあ、マジで入んのここ?おめえ先頭な」

一番声がデカい奴が、半笑いで背中を押してくる。

「なんでアタシ?さっきじゃんけん負けたやつっしょ」

ポニーテールの子が無理やり前に押し出されて抵抗する。

「ビビってんの?何も出ねーって」

一番体格のいいやつが、缶コーヒーをニヤニヤしながら煽る。


「つーかさ、霊とか見えたらどうすんよ」

ルーズソックスの女子が笑いながら言う。

「バーカ、いるわけねーだろ」

「てかこの前、ここで人消えたって話マジなん?」

「兄貴の友達の先輩の…誰だっけ、昔屋上から飛んだとか」

誰も目を合わせず、余裕ぶった声だけが空回る。


ひとりが天井を見上げて、「なんか、天井穴空いてんぞ」

「ほら早く進めよ」「お前が先行けって」「ビビってんのはそっちだろ」

缶コーヒーの空き缶が転がる。


「ちょっ待て、今、足音増えてね?」


一瞬だけ、全員黙る。

「気のせいだろ」

「……マジで帰りてぇ」


カオリンだけが、カウンターの向こうをちらっと見てしまう。

白い何かが、ゆっくり立ち上がったような気がした。

でも誰も、気づいていない。


「ったく、早く一番奥まで行って写真撮ってこいよ。そしたら帰ろうぜ」

「やだってば。あとで絶対お菓子奢れよ」

「やるしかねーだろ。”写ルンです”あるし」

「バカ、笑いごとじゃねえって。うわ、見ろよ床……これ血じゃね?」

「うっわ最悪」


カオリンの心臓だけが異常に速く鳴る。

誰にも聞こえていないはずなのに、“女”の呻き声が耳鳴りみたいに頭の中で渦巻いている。


「なあ、はやく行けよ」

「……お前が行けって」

「しょーがねーな、俺が行くわ。見てろよ」


ズシッ、ズシッと床が鳴る。

その足音に混じって、誰かの声じゃない何かが、カオリンの後ろからついてきていた。


「んだよ、ビビってんのかよ!」

一番イキってた短髪の男子が、みんなを置いてロビーの奥へ進む。

「おい、勝手に行くなって」「マジやめろって!」

止める声も無視し、ヘラヘラと手を振る。


「見ろよこれ!血の跡だって!」

床をガンガン蹴飛ばし、壁をコンコン叩く。

「何も出ねーって!お前らチキンすぎ」


その時、廊下の奥からカラン、とガラス瓶が転がる音。

「うお、マジびびった~」

男子はふざけて奥の診察室に入る。


「おい、冗談やめろって!」

「うっせーな、すぐ戻るって」


バタンと扉が閉まり、中から短い叫び声――ドン!と壁を叩く音。


みんなが固まる。

「……マジで、今の何?」


返事はない。

「なあ、冗談だろ?返事しろよ!」


女子の一人が泣きそうな声で叫ぶ。

「マジでヤバいって!帰ろうよ、やだって!」


次に別の男子が「うっせー!」とロビーを飛び出す。

「俺が見てくる、待ってろ」

闇に消え、遠くでドスン、という音。何度呼んでも返事はない。


残されたのはカオリンと女子二人。

「どうしよう、どうしよう……」

「やだ、絶対無理、帰る」

カオリンは、廊下の影から“あの白い女”がずっとこっちを見ているのを知っていた。


今度はポニーテールの女子が「ごめん、無理」と走り出す。

背中が闇に消える瞬間、床がバキッと沈み、「うわ、やめて!やだ――」

泣き叫ぶ声も、すぐに静かになる。


最後に残ったのはカオリンともう一人。

女子は泣きながらカオリンの袖を掴む。

「カオリン、マジでやばいって、何なのこれ……」


「ピロリン♪ ピロリン♪」


二人が息を潜めていた廊下に、突然、電子音が響いた。

カオリンのポケットで鳴っている。

“ピロリン♪”

震える指でベルを見ると、数字が並んでいる。


【10646】

(TELしろ)


「は?今そんな場合!?」

カオリンの声が裏返った。

もう一人が「なに、マジやめて……」と泣きそうな顔で距離を取る。

「カオリン、マジ無理、帰る!」

パニックになった友達が、ろくに足元も見ずに階段の方へ走り出す。


カオリンだけがその場に立ち尽くす。


背後で“カサ…カサ…”と乾いた音。

振り返ると、さっきまでは一体だった白い女が、

壁際、受付の奥、廊下の角、窓の外……

倍、三倍と増えている。

どれも顔は真っ白、髪は濡れていて、目だけが黒い穴みたいに口を開けていた。


カオリンははっきり見えてしまう。

その目が、手が、ゆっくり自分に向かって伸びてくる。


「いや、無理無理無理無理ッ!」


カオリンが叫んで、駆け出す。

階段を一気に降り、足を滑らせながらも、なんとか地下へ逃げ込む。

足元のコンクリはひんやり濡れて、ドアには“霊安室”とすり減った札がかかっていた。


逃げ道を探して振り返ると――

いつの間にか、さっきよりもさらに多くの霊が、

薄い病衣のまま、カオリンの周りをぐるりと取り囲んでいた。


恐怖で声も出ない。

動けない。

手足が冷たくなっていく。


そんなとき、

とんでもなく間の抜けた男の声が、

廊下の奥から響いた。


「おーい、カオリンおるかー?」


あまりにも現実感のない、

浮いたような声。

その瞬間、霊たちが一斉にカオリンから視線をそらした。


振り向くと、暗い階段の奥からのっそり現れたのはお姉ちゃんの彼氏――

酒屋のウーロンだった。


「うわ、ウーロン!助けて!」

カオリンが叫んでも、ウーロンはキョトンと首をかしげる。

「なんや、騒いどるなあ……こんなとこで何してん、蚊がうるさいだけやぞ」


ウーロンには霊がまるで見えていない。


「はよ帰ろうや。蚊ばっかで鬱陶しいわ」

ぶん、と手を振ったウーロンの甲が、女の霊の顔に当たる。


べちゃっ。

白い女の顔が、腐った柿を握り潰したみたいに弾ける。

目玉が飛び出し、頬から灰色の肉片と黄色い液体が飛び散る。

鼻の奥から赤黒い舌がぶら下がり、歯の生えた半分の顔がカオリンの足元に転がる。


ウーロンの目には何も映らない。

ただ鬱陶しそうに手を払うだけ。


すぐ隣、髪の長い女の霊が、ねっとりした笑みでウーロンににじり寄る。


「ウーロン横!危ない!」


ダルそうに振り返り、うっかり顔を下げるウーロン。

額が女の霊の側頭部にゴツンとぶつかる。


メリッ。

女の霊の頭蓋骨が正面からひび割れ、腐った脳みそがぶしゅりと飛び出す。

黒い脳漿のかたまりが天井まで跳ね、カオリンの目の前で壁にじわっと染みていく。


崩れた顔があり得ない向きでこちらを見ていた。

髪に絡んだ脳のかけらが、ぴちゃぴちゃと床に垂れる。

白濁した眼球がカオリンの足元でカタカタ転がった。


ウーロンは煙草を取り出す。

「なんやねん、何が危ないねん。危ないのはお前の頭や」

何事もなかったようにライターを鳴らす。


カオリンは全身の毛穴から汗が噴き出し、

口を開けて、ぐちゃぐちゃに壊された幽霊たちを見下ろしていた。


他の霊たちもウーロンの周囲をぐるりと取り囲み、明らかに一歩下がる。

誰もウーロンに近づこうとしない。


ウーロンは平然と、「はよ帰ろうや。腹減ってんねん」と

さっさと廊下を歩いていく。


カオリンだけが、この世のものじゃない惨劇を、

はっきりと目に焼き付けていた。


カオリンは涙目で叫んだ。


「ウーロン!シャドーボクシングして!今すぐ、頼む!」


ウーロンは呆れたようにカオリンを見下ろす。

まるで可哀想な子どもでも見るような目。

二人のあいだに沈黙が落ちる。

ただ、あちこちから霊たちの呻き声だけが、ぼんやり響いている。


「……はあ、とうとうお前、シンナーに手出したんか?」

「もう!ウーロンのアホ!姉ちゃんに言いつけるからね、

ウーロンがあたしのことエロい目で見てきたって!」

「誰がお前みたいなガキンチョ触るかボケ!もう帰るぞ、腹減った」


出口に向かおうとするウーロンの背中に、カオリンは食らいつく。


「わかった、あとで大好きな烏龍茶奢るから!」

「アホか、烏龍茶が好きなわけやない、昔殴られすぎてパンチドランカーやさかい、

ドクターストップで酒飲めんだけや」


「じゃあ今度、お姉ちゃんの高校の時の写真あげるから!

ね、ちょっとでいいから、シャドーボクシングしてよ!」


ウーロンの目が急に本気になる。

「……そうなると、話は変わるのう」


ふわりとファイティングポーズを取るウーロン。

カオリンのまわりを霊たちが囲む。


「今だ、正面!ワンツー、いって!」


ウーロンが気だるげに右ストレートを振る。

襲いかかってきた霊の顎にクリーンヒット。

顎の骨がバキバキに砕け、顔がぶっ飛び、

首の付け根からどろどろと血反吐が飛び散る。

歯や肉片、腐った舌が空中でぶら下がり、霊の体はそのまま消えていく。


「ウーロン、今度右向き!右フック!」

「なんや注文多いなぁ……」


ウーロンは面倒くさそうに右へフックを振る。

そこにいた霊の腹が裂け、黒ずんだ腸がぶちまけられ、床にびしゃびしゃと広がる。

腐った胃袋が露わになったまま、霊の残骸は煙みたいにゆっくり消えていく。


カオリンは戦慄しながらも叫ぶ。

「ウーロン、すごい! もっと!」


霊たちは悲鳴を上げて後ずさり、

ウーロンはカオリンの“奇妙な応援”を不審げに受け流しながら、

なんとなく戦い続けてしまう。


やがて、霊の数も、気づけば半分以下になっていた。

カオリンは肩で息をして、しゃがみこむ。

制服のシャツが汗で肌に張りつき、顔色は真っ青。

ウーロンはまだ軽くジャブを打ちながら、鼻歌まじり。


「……ウーロン、あんた、なんでそんな余裕なの?」

カオリンは震える声で尋ねた。


「んー? 現役の頃思い出すわ。

あのとき、ええのもらわんかったら今頃チャンプやったんやろなぁ……」


どこまでものほほんとした声で、ウーロンはシャドーボクシングを続けている。


「じゃあ、ウーロン、最後! 前に三歩、渾身のストレート!」


カオリンの号令に、ウーロンは「はいはい」と肩をすくめて歩き出す。


そのとき、廊下の奥から白衣姿の中年の霊――この病院の元院長だろうか――が、

無言でカオリンを睨みつけていた。


ウーロンが三歩で前に出る。

まるで誰もいない空間に向かって、軽くステップ。


「なんや、別に何もおらんけど……」


カオリンが必死に「そこ! ストレート!」と指さす。


「はいはい、もう帰るで……」


ウーロンが空中めがけて右のストレートを繰り出す。


――その瞬間、

カオリンの目には、ウーロンの拳が白衣の中年幽霊の顎を真上からぶち抜き、

頭蓋骨を砕きながら喉元まで拳が突き刺さるのがはっきり見えた。


幽霊の口が無理やり開き、ドロドロの内臓や腐った肺がずるずると胸の穴から零れ落ちる。

足元のコンクリートに血の池ができ、幽霊はのけぞりながら黒い息を吐き、ゆっくりと消えていった。


ウーロンは何事もなかったように腕を戻し、「これでええか?」と振り返る。


カオリンはへたり込み、ようやく息をついた。



夜の空気は湿っぽく、どこか埃臭い。

廃病院を抜けた二人は、裏手に放置されていたサビだらけのママチャリを無言でパクり、

当然のように二ケツして、ガタガタと家路を走り出す。


ハンドルを握るウーロンは、煙草をくわえたまま、ミラー越しにカオリンをちらりと見た。


「カオリン、お前、ダチと一緒だったんちゃうんか?」


カオリンはウーロンの背中に頭をコツンと寄せる。


「んー、まあ、悪そうな霊はウーロンが全部やっつけたし。大丈夫っしょ」

小さく笑う。


ウーロンは「なんか知らんが……ダチは大事にせえよ」と、

唐突に昔話モードに切り替わる。


「わしが高校のときはな、ダチ助けるために隣町の高校まで殴り込みに行ったこともあるんやぞ」


「あー、はいはい、おっさんの自慢話はもうええって。武勇伝は三回は聞いたから」

カオリンは心底うんざりした顔でため息。


しばらく二人でペダルを踏む音だけが続き、

カオリンがまた口を開く。


「今日、なんで助けに来てくれたの?」


ウーロンはめんどくさそうに煙を吐く。


「お前の帰りが遅いから迎えに行ってこいって言われてな。

廃病院で肝試ししてるってお前の姉ちゃんが言うから、まあ、しゃあなしや」


カオリンは小さく「さすが、お姉ちゃん……なんでもお見通じゃん」と呟く。


「ところでさ、ウーロン。お姉ちゃんとの結婚資金、貯めてんでしょ?」


「な、なんでお前がそれ知ってんねん!」

ウーロンは思わず後ろを振り返りそうになる。


「言ったでしょ?お姉ちゃんはなんでもお見通しなんだって」

カオリンはニヤリと笑う。


「かなわんなぁ……」


ウーロンはぼりぼりと頭をかく。その後ろで、カオリンがいたずらっぽく笑う。


「そこでさ、ウーロン――ちょっと、良い儲け話があるんだけど?」


月明かりの下、カオリンの笑顔だけがやたら鮮やかに、足立の夜道に浮かんでいた。

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