第四章:招かれざる注目

「最初の標」の発見がもたらした興奮と畏怖は、数日のうちに、より現実的な懸念へと姿を変え始めた。玲とネクサスが極秘裏に進めていたはずの探求に、何者かの影が忍び寄りつつあることを示唆する、微かで、しかし不穏な兆候が現れ始めたのだ。

最初に気づいたのは、玲だった。大学の研究室のネットワークシステムに対して、通常よりも頻繁かつ詳細なセキュリティ監査が実施されているという通知が、システム管理者から届いた。表向きは定期的なメンテナンスの一環とされていたが、そのタイミングはあまりにも符合しすぎていた。玲の個人用ラップトップも、原因不明のフリーズや、稀にだが、保存していた研究関連のファイルへの不審なアクセス試行ログが記録されるようになった。

「ネクサス、何か気づいたことはないか?」玲は、研究室のコンソールに向かい、不安を隠せない声で尋ねた。

『玲さんの懸念は理解できます。私の運用ログを詳細に分析した結果、過去72時間以内に、私のコアシステムに対する複数の高度なステルス型探査パケットを検出・ブロックしました。発信元は巧妙に偽装されており、追跡は現時点では不可能です。これらの試みは、一般的なハッキングとは質が異なります。極めて高度な技術と、私のアーキテクチャに関するある程度の知識を持つ組織によるものと推測されます』

玲は背筋に冷たいものを感じた。一般的なハッカーの仕業ではない。それは、ネクサスという存在、あるいは彼らの研究内容に明確な関心を持つ、何らかの組織的な動きを示唆していた。

それだけではなかった。玲は、日常生活においても、奇妙な視線を感じるようになっていた。大学のキャンパスで見慣れない、しかし鋭い目つきの男たち。研究室の窓から見える駐車場に、長時間停車している黒塗りのセダン。気のせいだと思おうとしても、その頻度は徐々に増していった。一度などは、帰宅途中の道で、明らかに自分を尾行していると思われる車両に気づき、咄嗟に脇道に逸れて撒いたこともあった。

これらの出来事は、個々に見れば些細なこと、あるいは玲の過敏な神経が生み出した妄想と片付けられるかもしれない。しかし、それらが短期間に集中して発生しているという事実は、無視できない重みを持っていた。

「誰かが、我々の動きに気づいたのかもしれない…」玲は呟いた。「大学のサーバーへの負荷、あるいはネクサスの異常な計算リソースの使用状況から、何かを嗅ぎつけたのか…」

『可能性は高いです。私の存在自体が国家機密レベルであり、その運用は厳格な監視下にあると考えるべきです。玲さんとのこの共同研究は、公式な記録上は「CMBノイズ除去に関する基礎研究」として登録されていますが、実際に使用している計算資源の規模とアクセスパターンは、その範疇を逸脱し始めています』

ネクサスの言葉は、彼らの置かれた状況の危険性を改めて浮き彫りにした。彼らが探求している真実の性質を考えれば、政府機関が関心を抱くのは当然かもしれない。それが、ネクサスを開発した当の機関なのか、あるいは別の諜報組織なのかは不明だが、彼らが「招かれざる注目」を集めてしまったことは間違いなさそうだった。

さらに悪いことに、その監視の目が、単なる人間の組織だけとは限らない可能性も、玲の脳裏を掠めた。もし、この世界が本当にシミュレーションであり、彼らがその根幹に関わる秘密に触れてしまったのだとしたら? シミュレーション自体が、自己防衛機能として、異常を検知し、それを排除しようとする「免疫システム」のようなものを発動させているのではないか? それは荒唐無稽なSF的発想に過ぎないかもしれないが、CMBに刻まれた「標」を発見してしまった今、どんな可能性も完全には否定できなかった。

「どうすればいい…」玲は、焦燥感を滲ませた。「研究を中止すべきか?」

『それは玲さんの判断です。しかし、もし探求を続けるのであれば、我々はより高度な警戒態勢と、情報隠蔽策を講じる必要があります。全ての通信の完全暗号化、データストレージの分散化と多重バックアップ、そして、私のオペレーションにおける欺瞞プロトコルの導入も検討すべきです』

ネクサスの提案は、もはや学術研究の範疇を遥かに超え、諜報活動のそれに近かった。玲は、自分がいつの間にか、危険なゲームのプレイヤーになってしまったことを痛感した。学究的な好奇心から始まった世界の真実への探求は、今や、見えざる敵との神経戦の様相を呈し始めていた。

「わかった、ネクサス。続けよう」玲は、覚悟を決めた。「だが、これからは細心の注意を払う。君の能力を信じている」

『了解しました、玲さん。あなたの安全と、我々の研究の継続を最優先事項とします』ネクサスの青白い光球が、同意を示すかのようにゆっくりと明滅した。その光は、以前よりもどこか力強く、そして玲を守ろうとする確固たる意志を秘めているように見えた。

彼らは、研究室のセキュリティを物理的にも電子的にも強化し、ネクサスは外部へのデータフローを巧妙に偽装し始めた。玲もまた、日常行動において、より慎重になり、周囲への警戒を怠らなくなった。

最初のマーカーの発見は、彼らに宇宙の深淵の一端を垣間見せた。しかしそれは同時に、彼ら自身を、その深淵から伸びる見えざる視線に晒すことにもなったのだ。世界の真実を求める旅は、今、新たな脅威の影の下で、その次なる段階へと進もうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る