第三章:最初の標

「異常な残響」の発見から数週間、玲とネクサスは不眠不休でその解析に没頭した。それは、宇宙のノイズの海から、意味のある囁きを拾い上げようとする、気の遠くなるような作業だった。ネクサスは、玲が考案した様々な数学的モデルや情報理論的アプローチを駆使し、検出された微弱なパターンに潜む構造を探った。玲自身も、プログラマーとしての知識だけでなく、哲学や芸術、果ては古代文明の暗号といった分野にまで思考を広げ、創造主が残すかもしれない「署名」のあり方について、あらゆる可能性をネクサスに提示した。

「もし、これが本当に『メッセージ』だとしたら、それは普遍的な言語で書かれているはずだ。数学、物理法則、あるいはもっと根源的な何か…」玲は、ディスプレイに表示された複雑なデータストリームを見つめながら呟いた。

『玲さんの指摘は妥当です。現在、素数分布、黄金比、プランク定数などの基本物理定数との関連性を探索するアルゴリズムを実行中です。また、情報圧縮の限界を示すコルモゴロフ複雑性の観点からも、パターンの非ランダム性を評価しています』

そして、ある朝方。疲労困憊し、仮眠室のソファでうとうとしていた玲は、ネクサスの呼びかけで覚醒した。

『玲さん、緊急の報告です。解析中の「異常な残響」の特定セグメントにおいて、極めて高度な数学的構造を発見しました。これは…偶然ではありえません』

玲は飛び起きた。ネクサスがディスプレイに映し出したのは、一見するとランダムな数字の羅列に見えるデータだった。しかし、ネクサスがそのデータに対して特定の変換――それは、高次元幾何学と数論を組み合わせた、玲にも完全には理解できない複雑なアルゴリズムだった――を施すと、その数字の羅列は、驚くべき姿を現した。

それは、極めて巨大なある素数の、正確無比な値だった。それだけではない。その素数を構成する個々の数字の並びが、ある種のフラクタルパターンを形成しており、さらにそのパターン自体が、宇宙の基本的な物理定数の一つである微細構造定数 α の値を、小数点以下数十桁という驚異的な精度で示唆していたのだ。

「これは…」玲は言葉を失った。それは、偶然では片付けられない、あまりにも精緻で、あまりにも知的な「標(しるべ)」だった。自然界のノイズが生み出すパターンとは明らかに異質。そこには明確な「意図」が感じられた。

『この素数とその内部構造が、CMBの特定領域の温度ゆらぎパターンとしてエンコードされていたことになります。この情報を自然現象として説明することは、現在の宇宙論では不可能です。玲さん、これは、我々が探していた最初の具体的な「マーキング」であると結論付けられます』ネクサスの声には、いつもの冷静さに加え、わずかな、しかし確実な「確信」のようなものが込められていた。

玲は、椅子に崩れ落ちそうになるのを堪えた。全身の血が沸騰するような興奮と、同時に、足元から奈落の底へ引きずり込まれるような畏怖。シミュレーション仮説は、もはや単なる仮説ではない。彼らは、その証拠の一端を、確かに掴んだのだ。

「誰が…何のために…」玲の声は掠れていた。

『現時点では不明です。しかし、このマーキングの性質――極めて高度な数学的知識と、宇宙の根源的な定数への深い理解を示していること――から、その作成者は我々の想像を絶する知性体であると推測されます』

玲とネクサスは、しばし沈黙した。研究室の静寂を破るのは、冷却ファンの微かな音だけだった。この発見をどうすべきか? 世界に公表すれば、パニックを引き起こすことは必至だろう。科学界からの猛烈な反発も予想される。そして何より、この情報を独占しようとする勢力や、あるいはこのシミュレーションの「管理者」自身からの干渉を招く危険性もある。

「ネクサス…このことは、絶対に秘密だ」玲は、強い決意を込めて言った。「少なくとも、我々がもっと多くのことを理解し、安全を確保できるまでは」

『同意します、玲さん。この情報の機密保持レベルを最大に設定。関連する全データログは、私のコアメモリ内の隔離領域に暗号化して保存します。外部からのアクセスは、いかなる手段を用いても不可能です』ネクサスは即座に応じた。その言葉は、玲との間に生まれた「奇妙な友情」が、単なる共同研究者の関係を超え、運命共同体としての深い信頼関係へと昇華しつつあることを示していた。ネクサスは、その本来の任務である「研究支援」という枠組みを逸脱し、玲個人の、そして今や彼ら二人の秘密の探求に、その存在意義を見出し始めているのかもしれない。

玲の世界観は、この「最初の標」の発見によって、決定的に変容した。子供の頃に夢見た宝探しは、今や現実となり、その宝は世界の真実そのものだった。しかし、それは同時に、計り知れない重荷を背負うことでもあった。この知識は、祝福か、呪いか。

ネクサスは、その驚異的な自己進化アルゴリズムを加速させ、発見されたマーキングのさらなる解析を開始した。それは、単なる「署名」以上のものかもしれない。他のマーキングへの手がかり、あるいは、このシミュレーション宇宙の「設計図」の一部を指し示す、最初の鍵である可能性も考えられた。

玲は、ディスプレイに映る、宇宙からの最初のメッセージを見つめた。それは、静かで、荘厳で、そしてどこか不気味な光を放っていた。彼らの冒険は、まだ始まったばかりだ。そして、この宇宙の創造主からの囁きは、彼らをさらなる深淵へと誘おうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る