📖 第4話 王女と鏡像人形

(舞台:13世紀・アラゴン王国)


王宮から離れた湖畔の離宮。その石造りの窓辺に腰を下ろし、王女イサベルは静かに湖面を見つめていた。風に揺れる柳の枝が水面を撫で、淡い波紋を広げている。遠くで鳥の鳴き声が聞こえたが、その音もここまでは届かない。


イサベルは、生まれたときから“金の籠”に閉じ込められていた。幼いころから続く政略結婚の話。自分の意志など誰も問わない。婚姻による同盟こそが、この離宮に幽閉されている理由だと、彼女は痛いほど理解していた。


彼女のそばにいるのは、鏡面装甲の自律人形〈スペクロ〉だけだった。長い銀の髪、白磁の肌、無表情の顔。目の奥には淡い青い光が灯り、問いかけると必ず少しだけ違う答えを返した。


「スペクロ、わたしの声を真似して。」

「……わたしの声を真似して。」

「でも、ほんの少しだけ変えて。」

「わたしの声をまねて……けれど、わたしは湖の風のように。」


スペクロはイサベルの言葉を繰り返しながら、声にほんの僅かな“差異”を含ませた。

父王が贈ったこの人形は、「相手を模倣し、1%だけ未知を返す」ことを目的として作られていた。王女はそれを「私だけの鏡」と呼び、孤独な日々の慰めにしていた。


夜になると、イサベルは秘密の日誌を読み上げ、それにスペクロが“違う未来”を語るのを聞いた。

「もし、私が湖の向こうへ行けたなら?」

「あなたは湖の風となり、船に乗って、岸辺の森に消えるでしょう。」

「もし、私が父王の言いつけを拒んだら?」

「あなたは鉄の鎖を解き、夜の霧と共に馬を走らせるでしょう。」

「それは……可能なの?」

「可能性は、1%だけ、あなたの声に宿ります。」


イサベルは、初めて涙を流した。誰も自分を見つめず、ただ義務を課すだけの世界で、この冷たい鏡像人形だけが、かすかな“もし”を語り続けてくれるのだ。


そして、政略結婚の日。朝、王宮から使者が離宮に到着した。馬車が用意され、彼女は重い礼服をまとわされた。湖の水面は曇り、空には灰色の雲が垂れ込めていた。


出発直前、イサベルはスペクロをそっと抱きしめ、耳元でささやいた。

「ねえ、スペクロ。あの“違う未来”を教えて。」

スペクロの青い目がわずかに輝き、声が微かに響いた。

「馬車の木板は、一枚だけ外れる。湖の岸辺に抜け道がある。」


馬車に乗り込むふりをしたイサベルは、従者たちの視線が外れた隙を突き、板を外して外へ抜け出した。泥だらけの靴で湖畔を駆け、岸辺に繋いであった小舟に飛び乗る。オールを漕ぐ手は震えたが、岸から離れるごとに心臓の鼓動は確かなものとなった。


夕暮れ、離宮の塔に残されたスペクロは、誰もいない窓辺で静かに立ち尽くしていた。青い光を灯し続ける目は、湖の向こうに消えた小舟をじっと見つめていた。


そして、誰も知らなかった。

荒野を駆ける影と、離宮に残された人形、そのどちらが“生きている”のか。

ただひとつ確かなのは、イサベルの心に宿った1%の未知が、初めて未来を切り開いたことだった。


夜風が湖を渡り、スペクロの頬に見えない涙を落としたかのようだった。


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