雪に消える影
陽菜乃の頬を涙が伝った。除霊の光が強くなればなるほど、悪霊たちの苦痛の表情がはっきりと視えてくる。彼女には霊は視えないが、その声は確実に聞こえていた。
『たすけて……』
『しにたくない……』
『ひとりは……いやだ……』
最初は他人を巻き込もうとしていた悪霊たちが、今は純粋に恐怖に震えている。その声に、陽菜乃の心は激しく痛んだ。
除霊の詠唱を続けながら、陽菜乃は涙声で謝り続けた。この人たちもかつては普通の人間だった。誰かの父親や母親で、誰かの夫や妻で、誰かの息子や娘だった。それが孤独の中で死に、怨念となって彷徨うことになった。
「でも……これ以上苦しまないで……」
銀の光がさらに強くなる。部屋の温度が上がり始め、氷点下だった室内が急速に暖かくなっていく。悪霊たちの力が弱くなっているのがわかる。
『もう……つかれた……』
『やすみたい……』
『ひとりでも……いい……』
悪霊たちの声が変わった。恐怖から諦めに、そして最後には安堵に似た感情が混じっている。
陽菜乃はその変化を感じ取った。
「そうです……もう十分苦しみました……ゆっくり休んでください……」
除霊の詠唱が最終段階に入った。銀の光が爆発的に強くなり、部屋全体が眩い光に包まれ、黒い影が塵のように弾けて霧散した。
そして――。
『ありがとう……』
最後に聞こえた声は、怨念ではなく、安らかな感謝の言葉だった。
光が収まると、部屋は完全な静寂に包まれた。石油ランプの炎がふっと消え、部屋が暗闇に戻る。
その暗闇はもう恐ろしいものではなかった。重苦しい空気は消え去り、代わりに静かで穏やかな雰囲気が部屋を満たしている。
「終わった……」
陽菜乃が力なくつぶやいた。
除霊の反動で、彼女の体から力が抜けていく。お守り袋を握る手も震えていた。閉ざされていたドアが、音もなく開いた。外の廊下から冷たい風が流れ込み、部屋の空気を入れ替えていく。
泰河が崩れるように座り込んだ。
「お、終わったのか? 本当に?」
首筋の痣は完全に消えており、呼吸も正常に戻っている。
翔也が部屋を見回しながら答えた。
「ああ、もうなにも感じない。完全に消滅した」
湊がビデオカメラを確認した。
「温度も正常に戻ってるよ。録画も正常に動作してる」
壁に浮かんでいた血文字も消え去り、ただの薄汚れた壁に戻っていた。まるでさっきまでの出来事が夢だったかのように。
しかし、陽菜乃の心には重いものが残っていた。
「あたし……初めて霊を消滅させた……」
膝をついて座り込む陽菜乃に、泰河が心配そうに近づいた。
「陽菜乃……大丈夫?」
「救えなかった……あたしは……」
陽菜乃の目から涙がこぼれ落ちる。今回は浄霊ではなく除霊を選んだ。魂を救済することではなく、消滅させることを選んでしまった。
泰河が優しく彼女の肩を抱いた。
「そんなことない。陽菜乃のおかげで、みんな助かったんだ」
翔也と湊も陽菜乃の前にしゃがみ込んだ。
「泰河の言う通りだ。あいつらはもう救済の対象じゃなかった。陽菜乃が下した決断は正しい」
「うん。あの人たちも、最後は安らかだった。それは陽菜乃が正しい選択をしたから。あのままだったら、彼らはもっと酷い状態になっていたと思うよ」
みんなの言葉が陽菜乃の心をほんの少し明るく照らしてくれた。
*****
翌日の午後、大学病院の個室。
真澄はベッドに起き上がり、四人の報告を静かに聞いていた。顔色も良くなり、左腕の包帯も軽いものに変わっている。
「そうか……キミたちのおかげだったのか……」
真澄の表情に安堵が浮かんだ。
「実は昨夜から、ずっと頭の中で聞こえていた声が完全に消えたんだ。『一緒にいよう』という、あの声が」
陽菜乃が申し訳なさそうに言った。
「真澄先輩を襲った悪霊……消滅させてしまいました。救済することができなくて……」
真澄は穏やかに微笑んだ。
「陽菜乃は間違ったことはしていない。僕もあの声に引きずられそうになった。あのまま放置していたら、もっと多くの人が犠牲になっていただろう」
翔也が頷く。
「そうだな。あいつらの目的は『仲間作り』だった。真澄を襲ったのも、同じ境遇に落とすためだった」
泰河が震えながら言った。
「俺たちも危なかった……首を締められたとき、本当に死ぬかと思った」
湊が録画した映像を確認しながら報告した。
「異常な低温、石油ランプの異常燃焼、壁に浮かんだ血文字……すべて記録できました。これは貴重な資料になりますよ」
真澄が真剣な表情になった。
「孤独死……現代社会の大きな問題だね。あの団地だけでなく、全国でこうした悲劇が起きている」
「みんな、本当は寂しかっただけなのに……」
「だからこそ、僕たちがこうした事件を記録し、伝えていく意味がある。都市伝説は『声なき真実』の集合体だから」
真澄の言葉に、四人は静かに頷いた。今回の事件で、都市伝説研究サークルとしての使命をより深く理解した気がした。
*****
一週間後の夕方、カレイドスコープの部室。
夕陽が差し込む部室で、いつもの怪談朗読会が開かれていた。朗読者はもちろん、湊だった。
「今日お話しするのは、『雪の影、灯の声』という怪談です」
湊が普段とは違う、しっとりとした声で語り始める。
「ある冬の夜、廃団地に灯る小さな明かり。その光を見た者は、必ずなにかを持ち帰ると言われていました……」
物語は陽菜乃たちが体験した事件をベースにしながらも、より深い人間ドラマとして紡がれていく。孤独死の恐怖と悲しみ、現代社会が抱える問題、そして最後の小さな救いまで。
「……最後に聞こえたのは、怨念の声ではありませんでした。それは長い苦しみから解放された、安らかな感謝の言葉だったのです」
湊の朗読が終わると、部室は静寂に包まれた。
泰河が目を潤ませながら言った。
「やっぱり怖いよ! でも……なんか、すごく悲しい話だな」
陽菜乃の目からも涙がこぼれ、泰河が優しく陽菜乃の背中を叩いた。
「陽菜乃のせいじゃないよ。最後はあの人たちも感謝してたじゃないか」
翔也が窓の外を見ながら言った。
「そういえば、あの廃団地の取り壊しが決まったそうだ」
「え?」
「跡地は公園になる予定らしい。子どもたちが遊ぶ、明るい場所になるんだ」
「それなら……良かった」
夕陽に照らされた大学のキャンパスが美しく見える。お守り袋の中で、銀の鈴が優しく鳴った。まるで陽菜乃の心に寄り添うように。
-☆-★- To be continued -★-☆-
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