魂の浄化と真の赦し

「あなたが求めているのは他人の罪じゃない」


 陽菜乃の声が、氷点下まで冷え切ったエレベーター内に響いた。青白い霊圧が渦巻く中、彼女だけが毅然と立っている。


「自分を許すことでしょう?」


 聖人の霊が動揺した。エレベーター内の空気が微かに揺らぐ。


『なにを……言っている……』


「友人を救えなかった痛みはわかる。でもそれで、あなたまで苦しみ続ける必要はない」


 陽菜乃の言葉に、聖人の霊気が激しく波打った。まるで湖面に石を投げ込んだように、静寂が乱れる。


『やめろ……それ以上言うな……』


「泰河の告白を聞いて、あなたも気づいたはずよ。本当の罪ってなんなのか」


 隣で震えていた泰河が、ゆっくりと顔を上げた。頬には涙の跡があったが、瞳には先ほどまでとは違う光が宿っている。


「俺も……怖かった」


 泰河の声は震えていたが、確かに前を向いていた。


「霊が見えるのが怖くて、助けを求められるのが怖くて、ずっと逃げてた。でも……」


 彼は陽菜乃を見つめ、それから暗闇の向こうの聖人に視線を向けた。


「陽菜乃に出会ってわかったんだ。逃げちゃダメだって。視えるなら、ちゃんと向き合わなきゃダメだって」


「泰河……」


「あんたも同じだろ? 友だちを助けられなくて、それがずっと苦しくて。でも、あんたがここで他の人を苦しめても、その友だちは喜ばないよ」


 泰河の言葉に、エレベーター内の霊気が揺らめいた。


「三十年も苦しんだんだろ? もう十分だよ。あんたも、楽になっていいんだ」


『楽に……なる……?』


 聖人の声に、初めて迷いが混じった。


「あたしの友人も言ってたの。『罪悪感は時として、自分を罰することで安心しようとする甘えでもある』って」


 エレベーター内の温度が、少しだけ上がった気がした。


「本当に友人のことを思うなら、あなたが成仏して、安らかになることのほうが大切じゃない?」


『でも……ボクは……』


「誰かに許してもらう必要なんてないのよ」


 陽菜乃は懐から銀の鈴の付いたお守り袋を取り出した。


「許すのは他の誰でもない、あなた自身よ」


 鈴が小さく鳴った。清らかな音色がエレベーター内に響く。

 その瞬間、聖人の存在が急激に薄れ始めた。まるで霧が晴れるように、重苦しい霊圧が軽くなっていく。


『あ……あああ……』


 北原の声が震えている。三十年間背負い続けた重荷が、ゆっくりと剥がれ落ちていくのを感じているのだろう。


『怖い……でも……軽い……』


「大丈夫よ。もう一人じゃない」


 陽菜乃が優しく微笑み、泰河も頷いた。


「俺たちがちゃんと覚えてるから。あんたのことも、あんたの友だちのことも」


『ありがとう……』


 聖人の声が、涙声に変わった。


『やっと……やっと言える……ごめんな、慎一。助けられなくて、本当にごめん』


 エレベーター内に、柔らかな光が差し込み始めた。まるで朝日のような、温かい光だった。


『でも……もう大丈夫だ。ボクも、やっとわかった。おまえを思うなら、ボクが苦しんでちゃダメなんだよな』


 光が次第に強くなっていく。聖人の存在が、その光に溶けていく。


『ありがとう……君たちのおかげで……やっと、楽になれる……』


 鈴の音が響く中、光が一瞬眩しく輝いた。そして気がつくと、エレベーター内は普通の照明が点いていた。


「あれ……?」


 泰河が辺りを見回す。さっきまでの重苦しい空気は嘘のように消え去り、普通のエレベーターに戻っていた。

 ピンポン、という電子音と共に、エレベーターがゆっくりと動き出す。


「動いた……」


「うん。北原さんが成仏したから」


 陽菜乃がほっと息をついた。銀の鈴を大切そうにお守り袋にしまう。


『三階です。ドアが開きます』


 機械的なアナウンスが響き、扉がスムーズに開いた。

 二人は無言で外に出る。廊下の蛍光灯が、いつもより眩しく感じられた。


「あー……」


 泰河が大きく伸びをした。


「なんか、スッキリした。こんな気分、久しぶりだ」


「そうね。泰河もちゃんと成長したものね」


「え?」


「さっき、ちゃんと北原さんと向き合えてたじゃない。前の泰河だったら、ずっと震えてるだけだったでしょ?」


 泰河の頬が少し赤くなった。


「そ、それは……陽菜乃がいたからだよ。一人だったら絶対無理だった」


「でも、最後に北原さんを説得したのは泰河よ。あたしじゃできなかった」


 二人は並んで廊下を歩いていく。夕日が窓から差し込んで、二人の影を長く伸ばしていた。


「なあ、陽菜乃」


「なに?」


「俺、これから霊が見えても、もう逃げないよ。完全に怖くなくなったわけじゃないけど……でも、ちゃんと向き合う」


 陽菜乃が振り返って微笑んだ。


「それでいいのよ。怖いものは怖くていい。大切なのは、それでも逃げないこと」


「うん……ありがとう、陽菜乃」


「こちらこそ。いつも一緒にいてくれて」


 二人は建物の外に出た。既に日は沈みかけており、空がオレンジ色に染まっている。


「あ、そうだ。真澄先輩に連絡しなきゃ」


 泰河がポケットからスマホを取り出した。


「そうだね。みんな心配してるだろうし」






 翌日、カレイドスコープの部室は久しぶりに全員が揃っていた。


「それで、そこにいたのは、北原聖人という学生の霊だったわけね?」


 千沙の問いかけに真澄が資料を整理しながら頷いた。


「三十年前の自殺者か……」


「友人の自殺を止められなかった罪悪感に囚われていたのね。サバイバーズ・ギルトの一種かしら? でも、泰河がちゃんと説得できたんでしょう?」


 千沙が分析的に呟く。

 翔也が嬉しそうに泰河の肩を叩いた。


「ビビリなのに、やるじゃん」


「悠斗先輩、うるさいですよ」


 泰河は照れながら言ったが、その表情は明るかった。


「川口美穂さんからもメールが来てるわ~。友人の方々も、体調が回復したそうですよ~」


 紅葉がパソコンを見ながら言った。


「良かった」


 陽菜乃がほっとした表情を見せる。


「それにしても、『告解』という形で霊が接触してくるなんて、珍しいケースだったね」


「罪悪感って、誰にでもあるものですからね。それを利用されてしまったようですが……でも最終的には、それが救いにもなった」


 遼が興味深そうに言い、湊が穏やかに微笑んだ。


「そういうものなのかもしれないね」


 真澄が深く頷いた。


「罪悪感は、時には人を成長させる。北原君も、泰河も、それを乗り越えることで前に進めた」


「告解とは、本来そういうものなのかもしれませんね~」


 紅葉が古い本をめくりながら言った。


「他人に話すことで心が軽くなる。それが懺悔の本質ですから」


 晴音がそっと泰河に近づいた。


「泰河、すごかったよ。ワタシ、ビデオに撮っておけばよかった」


「やめろ! 絶対やめろ!」


 泰河の叫び声に、部室に笑い声が響いた。

 いつもの平和な日常が戻ってきていた。でも、確実になにかが変わっていた。泰河の表情に、以前はなかった自信が宿っている。


 陽菜乃は窓の外を見上げた。秋の空が高く澄んでいる。


 きっと北原さんも、今頃は安らかにしているだろう。そしてその友人と、どこかで再会できているかもしれない。

 そう思うと、心が温かくなった。


「さて……次の案件も来てるよ。今度は『呪いの自動販売機』だって」


 真澄が手を叩いた。


「うげえ!」


 泰河の悲鳴が、また部室に響いた。でも、その声には前のような絶望感はなかった。

 彼は確実に成長している。陽菜乃と一緒に、一歩ずつ前に進んでいる。

 これからも、きっと大丈夫だろう。

 カレイドスコープの新たな物語が、また始まろうとしていた。




-☆-★- To be continued -★-☆-

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