『四限後のトンネル』

噂の発端

「うっわ、マジで暑すぎる……」


 岸本泰河きしもとたいがが部室のドアを開けるなり、げんなりとした声を上げた。七月中旬の午後三時過ぎ、人文学部棟の四階にあるカレイドスコープの部室は、まるでサウナのような蒸し暑さに包まれている。古いエアコンはブーンという不穏な音を立てながらも、焼け石に水程度の涼しさしか提供してくれない。


「お疲れさま」


 宮野陽菜乃みやのひなのは資料を整理しながら、振り返ることなく挨拶を返した。陽菜乃の胸元では、いつものように小さな銀の鈴がついたお守り袋が、微かに揺れている。


「陽菜乃は涼しい顔してるけど、暑くないの?」


「別に。慣れたし」


 実際のところ、陽菜乃も相当暑いのだが、汗だくで入ってきた泰河を見ていると、なんとなく涼しいふりをしたくなってしまう。陽菜乃なりの意地なのかもしれない。


「あー、もう無理。死ぬ」


 泰河は机に突っ伏すと、大げさに息を荒らげた。彼の額には汗が浮かび、前髪が湿って額に貼り付いている。四限目の民俗学概論から直行してきたのだが、教室から部室まで歩くだけでこの有様である。


「死なないから大丈夫」


「根拠は?」


「今まで死んでないから」


「それ根拠になってないでしょ」


 いつものような他愛もない掛け合いが始まったとき、部室のドアが再び開いた。


「お疲れさまでーす」


 晴音が顔を出す。晴音もまた汗ばんでいるが、泰河ほど派手ではない。手には大きなペットボトルと、コンビニの袋を抱えている。


「晴音、なに買ってきたの?」


「アイス。みんなのぶんも」


「晴音は天使か」


 泰河も顔を上げ、感動的な表情を浮かべた。


「天使じゃないけど……でも、喜んでもらえて良かった」


 三人がアイスを分け合っていると、またしてもドアが開く音がした。今度は上級生たちだった。


「よっ、お疲れさま!」


 香月悠斗かげつゆうとが元気よく入ってくる。続いて瀬尾千沙せおちさ高見遼たかみりょう有村湊ありむらみなと、そして最後に市倉真澄いちくらますみが現れた。部室は一気に賑やかになる。


「あ、アイス食べてる。ずるい」


 悠斗がすかさず晴音に詰め寄る。


「す、すみません。先輩のは……」


「冗談だって。でも一口ちょうだい」


「はい!」


 晴音は慌てたように自分のアイスを悠斗に差し出した。その様子を見て、陽菜乃は小さく笑みを浮かべる。晴音の人見知りも、最近はだいぶ改善されてきている。


「それにしても、今日は特に暑いな」


 真澄がハンカチで額の汗を拭いながら言う。


「マジで。四限の教室、地獄だったんですよ……B棟の二階。あそこのエアコン、完全に死んでますね」


「あー、あの辺りね。確かにあそこは暑い。でも、B棟って地下に涼しい通路があるじゃない? あそこ通れば少しはマシなのに」


「Bトンネル?」


 湊が首をかしげる。


「そうそう。B棟と図書館を繋いでる地下通路。夏場は結構重宝するのよ」


「あー、あのトンネル。でも最近、あそこで変な噂があるらしいよ」


 遼が眼鏡を直しながら言った。


「変な噂?」


 陽菜乃が振り返る。


「なんでも、四限が終わって、四時過ぎにあのトンネルを通った学生が、そのまま行方不明になるっていう話」


「行方不明って……まさか」


 陽菜乃の表情が少し真剣になった。


「学食で隣の席にいた人たちが話してた。なんでも、友だちの友だちが実際に行方不明になったとか」


「友だちの友だちねえ。典型的な都市伝説のパターンじゃん」


 悠斗が苦笑いを浮かべる。


「でも、一応調べてみる価値はあるんじゃないですか?」


「調べるって、なにを?」


「実際に失踪者がいるのか、とか。噂の出所とか」


「陽菜乃らしいね。確かに、我々のサークルとしては見過ごせない案件かもしれない」


 提案する陽菜乃に、真澄が微笑む。


「えー、でも暑いし面倒くさいですよ」


「泰河は来なくて良いよ」


不満たらたらな泰河に、陽菜乃があっさりと言い放つ。


「ちょっと待てよ。なんで俺だけ仲間はずれなんだよ」


「怖がるから」


「怖がらないし」


「嘘つき」


「嘘じゃない!」


 泰河の声が裏返る。その様子を見て、部室にいた全員が笑い出した。


「でも本当に調べるなら、ちゃんとした情報収集からじゃないですか?」


 晴音が控えめに口を開く。


「そうだね。まずは事実確認から。実際に失踪者がいるのかどうか、それを確かめないと始まらない」


 真澄がそう答えると、千沙が頷いた。


「アタシに任せて」


「え?」


「学生相談室に知り合いがいるの。そこで聞けば、もし本当に行方不明者が出てるなら、なんらかの情報があるはず」


「おお、さすが千沙」


 悠斗が手を叩く。


「でも、個人情報とかで教えてもらえないんじゃ……」


 湊が心配そうに言う。


「大丈夫。その辺は上手くやるから」


 千沙は既にスマホを取り出していた。


「今から?」


「思い立ったら吉日よ」


 千沙は手際よく電話をかけ始める。部室は一瞬静かになり、千沙の電話の声だけが響いた。


「……そうですか。ありがとうございます。また後でお邪魔します」


 千沙が電話を切る。部室の全員が彼女を見つめた。


「どうだった?」


 真澄が尋ねる。


「……実際にいるって」


 千沙の表情が急に深刻になった。


「え?」


「行方不明者。過去一ヶ月で二人」


 部室の空気が一変した。さっきまでの和やかな雰囲気が消え、緊張感が漂い始める。


「マジで?」


 悠斗の声も、いつもより低い。


「詳しい話は直接聞かないとダメだけど、確実に二人の学生が、Bトンネル周辺で最後に目撃された後、行方不明になってる。ただ、警察は『家出』として処理してるらしい。特に事件性は認めていないって」


「でも、二人とも同じ場所で、同じ時間帯に消えてるんだろ? 普通に考えて、偶然じゃないよね」


 遼が冷静に分析する。


「じゃあ、やっぱり調べる?」


 泰河が恐る恐る尋ねる。


「そうだね。これは正式なサークル活動として取り組もう。ただし、いつものように安全第一で」


 真澄が立ち上がる。


「賛成」


 千沙が手を挙げると、遼、湊、悠斗も次々と手を挙げた。


「じゃあ、決まりですね」


 陽菜乃が微笑む。


「ちょっと待てよ! 俺の意見は?」


 泰河が慌てたように立ち上がる。


「どうせ反対でしょ?」


「そりゃそうだけど……でも、陽菜乃が行くなら俺も行く」


「無理しなくて良いって」


「無理じゃない! 陽菜乃一人じゃ心配だし、それに……俺も、この大学の学生だから。他人事じゃないし」


 陽菜乃は少し驚いたような顔をしたあと、にっこりと笑った。


「ありがと、泰河」


「べ、別に礼を言われるようなことじゃ……」


「ワタシも一緒に行きます」


 晴音が手を挙げる。


「晴音も?」


「記録係として。カメラとか、録音機器とか、ワタシが一番詳しいですし」


「そうね。心強い」


 千沙がうなずく。


「じゃあ、調査チームは陽菜乃、泰河、晴音の三人で決まりだね? 僕たちは情報収集とサポートに回るよ」


 真澄がそう言ってくれたことも心強い。


「もし少しでも危険を感じたら、すぐに撤退するように」


「わかりました」


 パン、と手を打った千沙が立ちあがった。


「それじゃあ、明日から本格的に調査開始ね。まず学生相談室で詳しい話を聞いて、それから現場確認」


「はい」


 陽菜乃がうなずく。彼女の首元で、銀の鈴が小さく光って見えた。今回の件は、前の都市伝説とは明らかに性質が違う。実際に人が消えている。それも、リアルタイムで。

 陽菜乃の首元で、銀の鈴がひっそりと揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る