『七限目の授業』

時空の異常

 十月中旬の午後、大学の古い建物の一角にある都市伝説研究サークル『カレイドスコープ』の部室は、いつものように賑やかな雰囲気に包まれていた。


「うわあああああ! なにこの化け物!」


 突然響いた絶叫に、部室にいた全員が振り返る。声の主は一年生の岸本泰河きしもとたいがで、三年生の三好紅葉みよしもみじが持参した古い民俗学の本を覗き込んで、派手に後ずさりしていた。


「泰河、また大袈裟なリアクションしてる」


 同じく一年生の宮野陽菜乃みやのひなのが、呆れたような表情で机の上の機材を整理しながら呟く。彼女の首元から、銀の鈴がかすかに音を立てた。


「大袈裟って言うけど、見ろよこの絵! 鬼の顔が三つもあるんだぞ! しかも血まみれの牙が――」


「それは三面鬼王という室町時代の伝承よ」


 紅葉が落ち着いた声で説明すると、泰河はさらに青ざめて震え上がった。


「室町時代から続く化け物って、もしかして今でも——」


「いるわけないでしょ」


 陽菜乃がきっぱりと否定すると、部室の奥から穏やかな笑い声が聞こえてきた。


「でも、否定しきれないのが都市伝説の面白いところだよね」


 声の主は四年生の市倉真澄いちくらますみ、サークルの代表だった。彼は温和な笑みを浮かべながら、ノートパソコンの前から立ち上がる。


「真澄先輩、またなにかか面白い情報があるんですか?」


 一年生の宇田川晴音うだがわはるねが、カメラの手入れをしながら興味深そうに尋ねた。人見知りな彼女だが、こういった話題になると途端に積極的になる。


「うん、実は今朝、興味深いメールが届いてね」


 真澄は部室の中央にあるテーブルに歩み寄り、ノートパソコンの画面を皆に見えるよう向けた。


「読んでみるよ。『都市伝説研究サークル カレイドスコープ 御中。経済学部二年の山津恵子やまづけいこと申します。突然のご連絡で申し訳ありませんが、友人のことでご相談があります』」


 泰河が恐々とした様子で近づいてくる。陽菜乃も手を止めて真澄の方を向いた。


「『友人の古市麻衣ふるいちまいなのですが、一週間前から様子がおかしくて困っています。毎朝「今日は十月十五日だ」と言い続けているんです。カレンダーを見せても、スマホの日付を確認させても、「そんなの間違ってる」の一点張りで』」


「精神的な問題じゃないの?」


 晴音が首をかしげると、真澄は続きを読み上げた。


「『そして毎日夕方になると、「七限目の授業に出なきゃ」と言って講義棟の三〇二教室に向かうんです。でも、うちの大学に七限目なんてありません。友人を止めようとしても、まるで私が見えていないみたいで』」


「七限目?」


 陽菜乃が眉をひそめる。確かに彼らの大学は六限目までしかない。


「『初めは単なる勘違いだと思っていました。でも昨日、こっそり後をつけてみたんです。すると三〇二教室に明かりが灯って、中で本当に授業が行われていたんです。見たことのない老人の教授が、黒板に向かってなにかを書いていて』」


「うそ!」


 泰河が声を裏返らせた。


「『怖くなってその場を離れましたが、一時間後に戻ってみると教室は真っ暗でした。友人は「今日も良い授業だった」と満足そうでした。どうか、友人を助けてください』」


 真澄がメールを読み終えると、部室は静寂に包まれた。


「これは……」


 二年生の高見遼たかみりょうが、普段の冷静さを保ったまま呟く。


「時間認識の異常と、存在しないはずの授業。興味深い現象ですね」


「興味深いって、遼先輩、これヤバくない?」


 泰河がガタガタと震えながら言うと、遼は眼鏡を押し上げた。


「時間認識の歪みは、精神的な影響だけでなく、なんらかの超常現象が関与している可能性もある」


「超常現象って」


 陽菜乃が首元のお守り袋に手を触れる。銀の鈴が小さく鳴った。


「時間の流れが歪む場所というのは、各地で報告されているわ~」


 紅葉が本を閉じながら言った。


「特に、強い感情や未練を持った霊が関与する場合、時空に異常をきたすことがある。『永劫回帰の呪い』や『時の番人』といった伝承も、そうした現象を説明するものよ~」


「時の番人……」


 真澄が興味深そうに呟く。


「都市伝説として扱うには、あまりに具体的すぎる情報だね。調査する価値がありそうだ」


「ちょっと待てよ!」


 泰河が慌てて手を振った。


「時間がおかしくなる場所に行くなんて、危険すぎるって! もし俺たちも同じようになったらどうするんだよ!」


「でも、困ってる人がいるんでしょ? それに、もし本当に超常現象なら、あたしの力で何とかできるかもしれない」


 彼女の言葉に、部室の空気が少し引き締まった。陽菜乃の持つ浄霊能力は、サークルメンバーも知るところだった。


「そうだね」


 遼が頷く。


「真澄先輩、まずは現地調査から始めましょう。科学的なアプローチで検証すれば、真相が見えてくるはずです」


「泰河の霊感も、現場では重要な判断材料になる」


 真澄が泰河の肩に手を置くと、泰河は情けない顔をした。


「俺の霊感なんて、ただ怖いものが視えるだけだよ……」


「それでも大切な能力よ」


 晴音がカメラを持ち上げながら言った。


「あたしも記録係として同行する。きっと面白い映像が撮れるはず」


「面白いって、晴音は怖くないのかよ?」


「怖いけど、それ以上に興味が勝つのよね」


 晴音が苦笑いを浮かべると、陽菜乃も小さく笑った。


「じゃあ決まりだ。調査チームは陽菜乃、泰河、晴音の一年生組と、分析担当で遼が同行」


 真澄が指を折りながら確認する。


「今日は木曜日だから、明日の夕方に現地に向かおう。メールの内容が事実なら、明日も七限目の授業が行われるはずだ」


「うう……」


 泰河が情けない声を上げたが、誰も止めようとはしなかった。


「ねえ泰河」


 陽菜乃が振り返る。


「時間がおかしくなるなんて、タイムマシンみたいでちょっとカッコよくない?」


「カッコいいわけないだろ! 時間が止まったら、俺、永遠に今の年齢のままじゃん! 就職もできないし、結婚もできないし――」


「そんな心配する前に、まずは彼女、作ったらどう?」


「ひ、ひどい!」


 陽菜乃と泰河の掛け合いに、部室に久しぶりの笑い声が響いた。ただ、真澄だけは窓の外を見つめながら、微かに眉をひそめていた。

 夕日が大学の建物を赤く染める中、講義棟の三〇二教室がある方角に、なにか不穏な影がゆらめいているような気がしてならなかった。



*****



 翌日の夕方、調査チームは講義棟の前に集合した。既に多くの学生が帰宅したあとで、建物は静寂に包まれている。


「空気が重いね」


 遼が冷静に観察する。


「やっぱりヤバい場所だよ!」


 泰河が早速震え上がる。


「まだ、なにも起きてないでしょ」


「でも、でも、なにかがいる! 俺の霊感がビンビン反応してる!」


 泰河の言葉に、一同の表情が引き締まった。彼の霊感は、時として科学機器よりも正確だということを皆知っていた。


「とりあえず、中に入りましょう」


 遼が先頭に立って講義棟の入り口に向かう。夜間でも一部の入り口は開放されているため、侵入に問題はない。

 薄暗い廊下を歩いていると、突然、泰河が立ち止まった。


「ちょっと待って……足音がする」


 一同が耳を澄ませると、確かに上の階から足音らしき音が聞こえてきた。しかし、それは普通の足音ではない。まるで時間がゆっくりと流れているかのような、不自然にゆったりとしたリズムだった。


 そして、講義棟の三階、三〇二教室の窓に、突然明かりが灯った。

 調査が、今始まろうとしていた。

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