虫の棲む棚

 その時だった。書庫の奥から、微かなすすり泣きのような音が聞こえてきた。


「あ……」


 晴音のカメラが捉えた影の方向から、その声は響いている。陽菜乃は首に提げた銀の鈴を握りしめると、深く息を吸い、書庫の奥へと歩いていく。


「陽菜乃ちゃん、危険よ!」


 紅葉が制止しようとしたが、陽菜乃は振り返って小さく首を振った。


「大丈夫です。この人は……きっと、あたしたちを傷つけたいわけじゃない」


 書庫の一番奥、古い木製の書架に寄りかかるように、一人の女性が立っていた。四十代ほどの、品のある顔立ちをした女性。薄い青色のカーディガンを羽織り、髪を後ろでまとめている。生前の司書の姿そのままだった。

 女性の霊は、陽菜乃たちを見ると、悲しそうに微笑んだ。


『この書庫の本たち。みんな捨てられる予定だった。何百年も前から、たくさんの人が心を込めて書いた、読んだ、大切にしてきた記録たち。それなのに、古いからって、場所を取るからって……』


 泰河の様子が、また少し変わった。記憶が曖昧になっているせいか、恐怖よりも純粋な疑問が顔に浮かんでいる。


「あの……なんで俺の記憶を……?」


『ごめんなさい。私、最初は本当にこの子たちを守るだけのつもりだったの。でも、いつの間にか……人の記憶まで集めるようになってしまって』


 司書の霊は、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。


「記憶を集める?」


 陽菜乃が首をかしげる。


『本には、読んだ人の記憶が宿るのよ。感動したこと、驚いたこと、学んだこと……それが本当の『生きた記録』になる。私は、それを失いたくなくて』


「あなたのお気持ち、よくわかります」


『え……?』


「あたしも、大切なものを失うのは怖い。でも、記憶って、奪って集めるものじゃないと思うんです。本当に大切なのは、記憶を生かし続けることじゃないですか?」


 陽菜乃の声に、静かな強さが込められた。

 記憶綴を見つめながらさらに続ける。


「この本に集められた記憶たちも、きっと本当は自由になりたがってる。誰かと共有されて、新しい感動や学びを生み出したがってる」


『でも……でも、そうしたら、みんな忘れられてしまう……』


「忘れられません」


 陽菜乃の声は確信に満ちていた。


「本当に大切な記憶は、人から人へと受け継がれていく。形は変わっても、心は残り続ける。それが、本当の『生きた記録』なんじゃないでしょうか」


 司書の霊の目から、一筋の涙が流れ落ちた。


『私……私は間違っていたの?』


 紅葉が、そっと前に出てきた。


「司書さん。あなたの想いは、きっと無駄になりませんよ~。私たち、これからもこの書庫のことを調べて、記録として残します~。あなたが守ろうとしたものの価値を、もっとたくさんの人に伝えます~」


 司書の霊は、三人の顔を順番に見つめた。そして、最後に陽菜乃を見ると、穏やかに微笑んだ。


『ありがとう……あなたたちのような人がいるなら、きっと大丈夫ね』


 記憶綴を持つ手が、ゆっくりと陽菜乃の方へ差し出された。


『この子も、お返しします。本当の記憶は、奪うものじゃなく、分かち合うものですものね』


 陽菜乃が記憶綴を受け取ると、本は温かく光った。そして、ページをめくってみると、そこにはなにも書かれていない真っ白な紙が広がっていた。


 同時に、紙魚たちが光の粒となって宙に舞い上がる。それは恐ろしい虫ではなく、まるで祝福するかのような美しい光景だった。


「うわぁ……きれい……」


 記憶が戻りつつある泰河が、素直に感嘆の声を上げる。


「あ、俺、思い出した! 陽菜乃、俺すげー怖い目に遭ったんだ! でも、陽菜乃がいてくれて……」


「もう大丈夫よ、泰河」


 陽菜乃は安堵の笑顔を浮かべた。そして司書の霊を振り返ると、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。あなたのおかげで、大切なことを学べました」


 司書の霊は、最後に書庫全体を見回した。愛おしそうに、それでいて名残惜しそうに。

 陽菜乃の銀の鈴が美しい音色を響かせた。司書の霊は、安らかな表情で光に包まれ、静かに消えていった。


 書庫に、再び静寂が戻る。今度は重苦しい静寂ではなく、穏やかで温かな静けさだった。


「終わった……のかな?」


 泰河が、まだ少しふらつきながら呟く。


「うん、終わった」


 陽菜乃は、手の中の記憶綴を見つめた。今はただの空白のノートだが、なぜか大切なもののような気がした。陽菜乃は少し考えてから、書庫の一角にある小さな書架にそっと置いた。


「ここに置いておきましょう。きっと、いつか必要な人が現れるかもしれない」


 四人は書庫を後にし、階段を上がって地上へと向かった。


「ありがとうございました~」


 管理人の村本に紅葉は鍵を返した。


「もう大丈夫だと思います~。変な現象は起こらないはずですよ~」


「そうかい、ありがとう。最近本当におかしなことばかりでねぇ」


 村本は安堵の表情を浮かべた。


「あ、そうそう。つい今しがた、休学してた学生さんたちから連絡があったよ。『悪夢が止まった』って」


「よかった……」


 四人は顔を見合わせて微笑んだ。


 帰り道、陽菜乃と泰河は少し遅れて歩いていた。


「なあ、陽菜乃」


「なに?」


「記憶って、すげー大切なもんなんだな」


 泰河の言葉に、陽菜乃は振り返る。


「一時的にでも失いそうになって、初めてわかった。俺の記憶がなくなったら、陽菜乃との出会いも、みんなとの時間も、全部なくなっちゃうんだもんな」


「泰河……」


「だから、これからも忘れないよ。今日のことも、みんなとの時間も、ぜーんぶ」


 前を歩く紅葉が振り返る。


「お疲れさま、二人とも。今回は本当にいい勉強になったわ。今度は『本の怪異』について、もっと詳しく調べてみましょう」


「え……まだやるんですか!?」


 晴音の驚きの声に、全員が笑い出した。

 夕日に照らされた四人の笑い声が、秋の空に響いていく。



 *****



 翌日、カレイドスコープの部室では、陽菜乃が事件の報告書をまとめていた。


「『紙魚の棲む書庫』事件、無事解決」


 タイピングしながら呟く陽菜乃の隣で、泰河がお茶を飲んでいる。


「でも、司書さんの気持ち、すごくわかるよな」


「うん。大切なものを守りたいって気持ちは、みんな一緒だものね」


 そこに紅葉が資料を抱えて入ってきた。


「お疲れさま~。調べてみたら、やっぱり全国に似たような話があるのね~。『記憶を食べる虫』の伝承」


「へー、すげー」


「でも今回みたいに、対話で解決できた例は珍しいみたいよ~。陽菜乃の成長の証ね」


 褒められて、陽菜乃は少し照れた。


「あたしもまだまだです。でも、一つずつ学んでいけたらいいな」


 晴音も、編集した映像を持ってやってきた。


「記録用の動画、できました。司書さんの最後の表情、本当に安らかでした」


 四人でその映像を見ながら、改めて昨日の出来事を振り返る。


「記憶は分かち合うもの、かぁ」


 泰河がしみじみと呟く。


「そうね。そして、新しい記憶も作り続けるもの」


 陽菜乃が付け加える。


 窓の外では、大学のキャンパスに学生たちの笑い声が響いている。平穏な日常が戻ってきた証拠だった。


「さて、次はどんな依頼が来るかしらね」


 紅葉が楽しそうに言う。


「あ、そういえば昨日新しいメールが……」


 晴音がパソコンを確認する。


「マジで!? 俺、まだ昨日の疲れが……」


「大丈夫よ、泰河。今度も、みんなで一緒に解決していきましょう」


「そうですね~。記憶は分かち合うもの。体験も、分かち合うものですものね~」


 部室に、四人の明るい笑い声が響いた。

 秋の午後の陽だまりの中で、カレイドスコープのメンバーたちは、また新しい日常を紡いでいく。記憶を大切にしながら、新しい体験を重ねながら。


 そして地下書庫の片隅では、真っ白な記憶綴が静かに眠っている。いつか、本当にそれを必要とする人が現れるその日まで。




-☆-★- To be continued -★-☆-

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