地下閲覧室
夜八時を回ったころ、最後の利用者が出て行くのを確認してから、カレイドスコープのメンバー六人が正面入口ではなく、裏手の職員用入口から静かに建物に入った。
「本当に大丈夫なんですか、これ?」
泰河が心配そうに呟く。
「千沙先輩が図書館のアルバイトをしてるから、鍵を借りられたんだって」
陽菜乃が小声で答える。
先頭を歩く千沙が振り返った。
「でも、見つかったら問題になるから、できるだけ静かに。夜間の清掃員さんは三階から始めるから、地下にいる間は大丈夫。ただし、十一時までには必ず出ること。いいね?」
晴音は両手に重そうな機材バッグを抱えていた。
「録音機材一式、マイク、それからノイズキャンセラーも持ってきました。これで完璧です」
「機材オタクの本領発揮だな」
翔也が小さく笑った。
「オタクって言わないでください! 私は音響技術の研究家なんです」
晴音が頬を膨らませた。
その後ろを遼がメモを取りながら歩いている。
「地下閲覧室の構造を確認したけど、天井が低くて壁が厚いコンクリート造り。音響的には残響が起こりやすい環境だよ」
「でも都市伝説によると、録音機器にはなにも残らないんですよね? それって物理的におかしくないですか?」
陽菜乃が首をかしげて聞くと、晴音の目が輝いた。
「だからこそ調べる価値があるんですよ! もし本当に霊的現象なら、音響学の新たな分野が開けるかもしれません」
階段を下りて地下に向かうと、空気がひんやりと冷たくなった。昼間でも薄暗い地下閲覧室は、夜になると一層不気味な雰囲気を醸し出している。
泰河が思わず声を漏らした。
「うわ……なんか、嫌な感じがします」
地下閲覧室は想像以上に広く、古い木製の机と椅子が整然と並んでいた。壁際には古い学術書がぎっしりと詰まった書棚が天井まで立ち並び、まるで知識の墓場のような威圧感を放っている。
「すごい蔵書量だね。これらの本、最後に読まれたのはいつなんだろう」
遼が興味深そうに書棚を見上げる。
千沙が懐中電灯で室内を照らしながら説明する。
「この地下閲覧室、利用者がどんどん減ってるの。学生たちは上の階の明るい読書室ばかり使うから」
「そりゃそうだよ。この机、昭和の匂いがする。椅子もギシギシ音がしそうだ」
翔也が机を指差した。
晴音が部屋の中央に機材を設置し始める。
「でも、音響的には面白い環境です。この天井の低さと壁の厚さ、それに木製家具の配置……自然な残響が期待できます」
「それで、具体的にはどんな現象が起こるって言われてるの?」
陽菜乃が改めて確認すると、晴音が機材を調整しながら答える。
「一人で録音作業をしていると、自分の声が少し遅れて聞こえてくるそうです。でも、録音を再生しても、そのエコーは入っていない。つまり、録音機器を通さない音ということになります」
泰河が不安そうに呟く。
「それって、誰かが声を真似してるってことですよね?」
「そう考えるのが自然だね。問題は、その『誰か』の正体だ」
遼がノートに記録を始めた。
晴音は慣れた様子で録音機材を設置していく。デジタル録音機、高感度マイク、ノイズキャンセラー、それに環境音測定用の機器まで。
「すげぇな、本格的だ」
感心する翔也に晴音は誇らしげに答えた。
「これでも基本的な機材だけですよ」
陽菜乃が興味深そうに機材を見ている。
「この小さな機械で、そんなに細かい音まで拾えるんですか?」
「はい! この高感度マイクなら、人間の耳では聞こえない周波数の音まで録音できます。もし霊的現象があるなら、通常の可聴域外の音も記録されるかもしれません」
千沙が時計を確認する。
「今八時半。まずは環境音の測定から始めようか」
晴音が録音を開始すると、地下閲覧室の静寂が改めて際立った。かすかな空調音、時計の秒針の音、そして遠くから聞こえる交通音だけが、静かな空間を満たしている。
遼が温度計と湿度計をチェックしながら言う。
「予想以上に静かだね。これなら、小さな異常音でもはっきりわかる」
環境音の測定が終わると、いよいよ本格的な検証の時間だった。
「それじゃあ、まずワタシが一人で録音してみます」
志願する晴音の手を翔也が止めた。
「ちょっと待て。最初は短時間で様子を見よう。なにがあるか、わからないからな」
「うん、そのほうが良いね。まずは五分間だけ。なにか異常を感じたらすぐに中止すること」
千沙の言葉に晴音は頷いて、一人で机に座った。他のメンバーは少し離れた場所に移動し、晴音の様子を見守る。
「それでは、始めます」
晴音がマイクに向かって言った。
「これは、カレイドスコープの都市伝説調査、地下閲覧室の録音現象検証です。時刻は午後八時三十五分……」
最初の一分間は異常がなかった。晴音は落ち着いた声で、自分の研究テーマについて話し続けている。
「音響工学の観点から見ると、この地下閲覧室の構造は……」
二分目に入っても、特に変化はない。他のメンバーも安心したような表情を見せていた。
しかし、三分を過ぎたころだった。
「あれ……?」
晴音が突然録音を止めて振り返った。
「今、私の声が……遅れて聞こえました。でも、この部屋の残響では説明できない遅れかたでした」
困惑する晴音を見ていた泰河が急に青ざめた。
「宇田川さん、後ろに……」
「後ろに? なに?」
晴音が振り返ろうとしたとき、録音機器から晴音の声が流れた。けれど、微妙に違う。どこか歪んでいて、不自然な響きを持っている。
『音響工学の観点から見ると、この地下閲覧室の構造は……』
録音機器から流れる『晴音の声』は、彼女が三分前に話した内容を正確に再現している。ただ、今は晴音自身はなにも話していない。
「ワタシ、今、なにも話してません」
遼が機材を確認する。
「録音機器の再生機能は停止中だ。つまり、これは録音の再生ではない……」
陽菜乃の銀の鈴が、微かに鳴り始めた。前回の文学部棟での出来事ほど激しくはないが、明らかになにかに反応している。
「なにかいるみたい」
陽菜乃が鈴を握りしめる。
録音機器から流れる『偽の晴音の声』は、徐々に鮮明になっていく。
『この現象は、音響学的には説明できません』
機器から流れるその内容は、晴音が実際に話したことではなかった。
警戒した面持ちの翔也が呟く。
「ちょっと待って。今の言葉、晴音は言ってないよな?」
「言ってません。ワタシ、そんなこと一言も……」
晴音が首を振る。
「そこに、誰かいます。女の人が……でも、なにか変です」
「どう変なの?」
陽菜乃が尋ねると泰河が言いにくそうに答えた。
「口が……口がないんです。でも、必死になにかを伝えようとしています」
「録音機器が、なにかの媒体になっているんだ」
「つまり、その存在は自分の声を持たないから、晴音の声を借りて話そうとしている?」
千沙が冷静に状況を分析し、遼が仮説を立てる。
録音機器からの声は、さらに鮮明になっていく。『寂しい……誰も……気づいてくれない……』
晴音の声で語られる言葉は、明らかに別の人物の感情を表現していた。
陽菜乃が銀の鈴を握りしめる。
「この人、悪意はないみたい。ただ、とても寂しがっています」
泰河も頷く。
「そうです。怖いけど、悪い霊じゃないと思います。ただ、誰かに気づいてもらいたくて……」
録音機器からの声が、また変化する。『話したい……久しぶりに……誰かと……』
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