陽菜乃さんは霊が視えない! ~Kaleidoscope Activity Record~

釜瑪秋摩

声なき真実の扉(プロローグ編)

『銀鈴が鳴るとき』

出会いの春と鈴音

 夜の静寂に包まれた大学構内で、図書館の明かりだけが煌々と灯っていた。時刻は午後十時を回っている。多くの学生がとうに帰路についた時間帯だが、宮野陽菜乃みやのひなのは、まだ参考書とにらめっこを続けていた。


「うーん、この問題の解釈が微妙だな」


 陽菜乃は眉間に皺を寄せながら、ペンを唇に当てて考え込む。入学してまだ一カ月も経っていないが、その真面目さは既に周囲に知れ渡っていた。高校時代から変わらず、予習復習を怠らない模範的な学生。それが宮野陽菜乃という少女だった。


 長い黒髪、シンプルな白いブラウスに紺のカーディガンという清楚な装いの彼女は、一見すると普通の女子大生に見える。しかし、その首には少し変わったものがぶら下がっていた。服の下、胸元に収められているのは小さな布製のお守り袋で、そこには小さな銀の鈴が縫い付けられている。


 陽菜乃が身じろぎするたびに、その鈴が微かに「チリン」と音を立てる。図書館の静寂の中では、その小さな音さえもよく響いた。


「そろそろ帰らないと、寮の門限に間に合わなくなる」


 時計を見上げた陽菜乃は慌てて荷物をまとめ始めた。参考書を鞄に詰め込み、筆記用具を片付ける。最後にお守り袋の位置を確認する。理由は自分でもよくわからないが、このお守りがないと、なんとなく落ち着かないのだ。


 図書館を出ると、夜風が頬を撫でていく。四月の夜はまだ少し肌寒く、陽菜乃はカーディガンの前を合わせた。キャンパス内の街灯が足元を照らしているが、昼間とは違って人影は皆無だった。


「やっぱり夜の大学って静かだな」


 そんな当たり前のことを呟きながら、陽菜乃は寮に向かって歩き出した。最短ルートは文学部棟を通り抜けることだ。昼間なら多くの学生で賑わう建物も、今は電気が消えて暗い影を落としている。


 文学部棟の正面入り口は既に施錠されているため、陽菜乃は脇の階段を使って中庭へ抜けるルートを選んだ。その階段は十二段の石造りで、昼間はよく学生たちが腰掛けて談笑している場所だ。

 鞄を肩にかけ直した陽菜乃が階段を下り始めたとき、妙なことに気づいた。

 自分の足音が、なぜか一歩多く聞こえるのだ。


「トン、トン、トン、トン」


 確かに自分は四歩歩いたはずなのに、耳には五回の足音が響いている。陽菜乃は立ち止まり、首を傾げた。


「変だな。エコーかな?」


 再び歩き始める。今度は意識して歩数を数えながら。


「いち、に、さん、し、ご」


 やはり同じだった。五歩、歩いたのに、六回の足音。明らかにおかしい。


 陽菜乃は振り返って階段を見上げた。石造りの階段は薄暗い街灯の光に照らされて、いつもと変わらない姿を見せている。ただ、なぜか背筋に寒いものを感じた。


「気のせい、だよね」


 自分に言い聞かせるように呟いて、陽菜乃は再び階段を下り始めた。そのときだった。胸元のお守り袋の銀の鈴が、微かに音を立てたのだ。風もないのに、リーン、という清らかな音が夜の静寂に響く。

 陽菜乃は思わず胸元に手を当てた。鈴は確かに揺れている。まるでなにかに反応するように。


「なにこれ……?」


 困惑する陽菜乃の視線の先、階段の中ほどでなにかが動いた。いや、動いたというより、震えていた。


 よく見ると、それは人だった。同じような年頃の男子学生が、階段の途中でがたがたと震えながら立っている。


「あの、大丈夫ですか?」


 陽菜乃は急いで駆け寄った。近づいてみると、その学生は顔面蒼白で、まるで幽霊でも見たかのような表情をしている。短い茶髪に、少し童顔な顔立ち。背は陽菜乃より少し高いが、震えが激しくて頼りなく見えた。


「あ、あの……そこに……」


 男子学生は震える声で階段の上を指差した。陽菜乃が振り返っても、そこにはなにもない。ただの暗い階段があるだけだ。


「なにかあるんですか?」


「人が……黒い人が……」


 学生はまともに話すこともできないほど震えている。陽菜乃は彼の肩に手を置いた。


「あたしには、なにも見えませんけど、あなたは見えるんですね?」


 不思議と、陽菜乃は冷静だった。普通なら怖がるか、相手を疑うかするだろう。しかし、彼女には確信があった。この男子学生は嘘をついていない。そして、確かにがそこにいる。

 お守り袋の鈴が、先ほどより強く鳴っているのがその証拠だった。


「あなた、霊感があるんですね」


 陽菜乃の言葉に、男子学生は驚いて彼女を見た。


「え……あ、はい……でも、視たくないんです。怖くて……」


「わかります。あたし、宮野陽菜乃。文学部の一年生です」


「き、岸本泰河きしもとたいがです……同じく一年生……」


 泰河と名乗った学生は、まだ震えが止まらない。陽菜乃は優しく微笑みかけた。


「岸本くん、あたしには霊は視えません。でも、なにかがそこにいることは、わかります」


 陽菜乃は胸元から出したお守り袋の鈴を掲げた。泰河は不思議そうにその鈴を見つめる。


「この鈴が教えてくれるんです。そして……」


 陽菜乃は鈴を握りしめた。すると、不思議なことが起こった。泰河が見ていたが、少しずつ薄くなっていく。


「あ……薄く……なって……」


「やっぱり」


 陽菜乃は安堵の表情を浮かべた。


「あたし、霊は視えないけれど、霊感は強くて、こういうことはできるみたいなんです。除霊とか、浄霊とか……自分でもよくわからないんですけど」


 泰河の震えが徐々に収まってくる。黒い影がほぼ視えなくなったからだ。


「すごい……本当にいなくなった……」


「でも、まだ完全に消えてませんね。きっと、この階段になにか理由があって留まってるんだと思います」


 陽菜乃は改めて階段を見上げた。十二段の石の階段。しかし、足音は十三回響く。


「ねえ、岸本くん。この階段、何段か数えてみませんか?」


「え? あ、はい……」


 泰河は恐る恐る階段を数え始めた。


「いち、に、さん……十二段ですね」


「あたしも十二段に見えます。でも、歩くと足音が十三回響くんです」


 二人は顔を見合わせた。そして、なぜか同時に笑い出した。


「なんか、変な出会いかたをしちゃいましたね」


 陽菜乃が苦笑する。


「本当に。でも……ありがとうございました。一人だったら、きっとここで泣いてました」


 泰河も照れ笑いを浮かべる。


「あたしたち、良いコンビみたいですよね。あたしは視えないけど対処できて、岸本くんは視えるけど怖がり」


「それって、俺のほうが情けないってことじゃ……」


「そんなことないですよ。視えるって、とても大切なことだと思います」


 陽菜乃の言葉に、泰河は少し救われた気持ちになった。自分の霊感を呪わしく思っていたが、陽菜乃は違う価値観を示してくれる。


「宮野さん、もしよければ……今度一緒にランチでもどうですか?」


「はい、ぜひ。じゃあ、明日にでも学食で」


「はい。そうしましょう」


 こうして、見えない力を持つ少女と、視える心を持つ少年は出会った。


 階段のの謎は解けていないが、二人にはそれを解き明かす力があることを、まだ知らずに。

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