春の邂逅

三月二十八日、木曜日。午後二時十五分。


青山の街は、春の訪れを静かに待っていた。

表参道の通りから一本外れた路地。

敷石の隙間には昨夜の雨の名残が残り、柔らかな日差しに小さな水たまりが反射している。

冬の名残がわずかに混じる冷たい風が通りを撫で、街路樹の枝先には膨らみ始めた桜のつぼみが揺れていた。


街はどこか静謐で、透明感を湛えている。

ブティックのショーウィンドウには、パステルカラーの春物が並ぶ。

ガラス越しの陽光が、リネンやシルクの質感をやわらかく浮かび上がらせていた。

マネキンが着るワンピースはフランス製、上質な素材のドレープが春の気配をひそやかに伝える。

値札には六桁の数字が控えめに添えられているが、この街の人々はそれを目で追うことさえしない。


交差点の向こう、カフェ「Azure」の前。

ガラス張りのファサードには、青山の午後の光と街路樹の緑、行き交う人々の影が淡く映り込む。

店内では、MacBookを開いた若者たちが、カタカタと控えめなリズムでキーボードを叩いていた。

カウンターからは焙煎したコーヒーの香りがかすかに漏れ、春の空気に溶けていく。


その入り口脇に、一人の青年が立っていた。


黒髪は柔らかく流れ、額にかかる前髪が彼の表情をどこか無防備に見せている。

身長は百八十センチをゆうに超え、アイボリーのスプリングコートはシルエットに一分の隙も許さない。

明らかにオーダーメイドで、肩のラインが滑らかに身体に沿い、袖も丈も計算し尽くされている。


襟元から覗く白いオックスフォードシャツには、上質な糊の香りがほのかに残っている。

ボタンダウンの襟が、コートの内側で静かに収まっていた。

黒のスラックスは細身ながら窮屈さはなく、体の動きに自然に沿っている。

足元は黒のレザーシューズ。マットな光沢が、手入れの良さと長年の愛用を物語っていた。

ブランドを主張しない、静かな高級感。ジョンロブかエドワードグリーンか、そんな問いすら無意味になるほど自然に馴染んでいる。


腕時計は、薄いケースの白文字盤。ブランドロゴは見えないが、そのシンプルなデザインとレザーベルトの柔らかさが、彼の装い全体と調和していた。


しかし、晴翔の立ち姿には、不思議な静けさがあった。

彼はスマートフォンを取り出すでもなく、ポケットに手を入れるでもなく、ただゆったりと街を眺めている。

道行く人々を特別に観察しているわけではないが、目の端で全てを受け止めているような静かな存在感が漂う。


カフェの扉が開き、数人の客が出てくるたび、

彼はほんの少し身体をずらし、自然に道を譲る。

その動作には、ごく幼い頃から身についた品格が滲み、どんな瞬間にも無駄な力みがない。


午後二時二十分。

約束の時間まで、あと十分。

街の光は徐々に角度を変え、通りの空気はさらに柔らかくなっていく。

人々の足取りも心なしか軽くなり、春の気配が静かに広がっていた。


「ちさ、もう着く?」


スマホから美結の明るい声が聞こえてくる。

千紗は急ぎ足で歩きながら、イヤホンのマイクに息を吹きかけるように答えた。


「うん、もうすぐ。表参道の駅出たところ」


駅の出口から外に出ると、春の空気が一気に肌を包み込む。

ほのかに甘い花の香りが鼻先をかすめ、白いスニーカーの靴底が石畳の冷たさを確かに伝えてくる。

細い路地に入ると、昨日の雨の残り香がほんのり漂う。

その匂いは、今日が新しい季節の入り口であることを静かに告げているようだった。


「で、緊張は?」


「してない」


「嘘でしょ」


「……めっちゃしてる」


美結の笑い声がイヤホン越しに響き、千紗も思わず苦笑いを浮かべる。

心の奥では、胸が落ち着かず波立っている。

普段は強がりな自分も、今日ばかりは素直になれそうもない。


白いスニーカーにライトブルーのデニム。

上は白いTシャツ、その上にベージュのカーディガンを羽織った。

「デート服じゃない」と美結には言われたけれど、

変に気合いを入れても、自分らしくなくなってしまいそうで、

結局“いつもの千紗”のままで来てしまった。


「あのさ、美結」


「ん?」


「なんでハーバードのあんな完璧超人が、日本でマッチングアプリなんてやってるんだろうね?」


「それは会って聞けばいいじゃん」


「いや、でも――」


千紗の言葉が途切れる。


カフェ「Azure」の看板が見えた。

ガラス張りのファサードの前に、約束の人影がある。


「ちさ?」


「……見えた」


「え、もう? どんな感じ?」


千紗は足を止め、建物の影からそっと様子を窺った。

相手からはまだ見えない位置。

通りの光と影の中で、アイボリーのコートが春の陽射しを反射している。

まっすぐ立つ姿が、どこか場違いなほど洗練されている。


「写真まんまだけど、なんか……雰囲気がすごい」


「雰囲気?」


「うまく言えないけど、こう、ちゃんとしてる感じ?」


「語彙力」


「うるさいなぁ」


言葉にはできない、でも確かに“ただ者じゃない”空気。

清潔感や品格、そういう言葉で済ませてしまいたくない、何か。


「とりあえず行ってくる」


「がんばって! あとで報告よろしく!」


通話を切り、千紗は大きく深呼吸した。

鼓動が耳に届くほど強くなっている。

よし、と心の中で小さく声を出す。


ただの顔合わせ。そう、ただ会って話すだけ。

美結に押し切られて始めたアプリだけど、

せっかく時間を作ってもらったんだから、失礼のないようにしないと――


千紗は建物の影から歩み出し、

カフェの前へ向かって一歩ずつ進み始めた。


場面は二週間前へ遡る。


三月十四日、ホワイトデー。

千紗の自宅マンション、午後の柔らかな光がリビングに差し込んでいる。

カーテン越しに射す光が、ガラステーブルに小さな虹色の反射をつくり、

ソファに座った千紗は、温かいココアを両手で包み込むように持っていた。


「結婚するの!」


その瞬間、千紗は思わず口元のココアを吹き出しそうになった。

美結の声は真剣そのものなのに、あまりにも突然で現実感がなかった。


「え、ちょっと、本当に?」


「うん! 来年の春挙式予定!」


美結の左手薬指には、小さなダイヤモンドの指輪が輝いている。

部屋の光に反射して、控えめなきらめきが天井にゆらゆらと映っていた。


「おめでとう! すごい、美結が一番早いなんて」


「でしょ? それでね、ちさ」


急に美結が真剣な表情になる。

千紗は嫌な予感がして、カップをテーブルに置いた。


「ちさも、そろそろ新しい恋、始めない?」


「は?」


「だってさ、湊くんのこと、もう二年だよ?」


胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

湊――幼馴染で、初恋の人。

今は親友の葵と付き合っている。

もう割り切ったつもりでも、たまに自分でも気づかないくらいに心の底が疼く瞬間がある。


「別に引きずってないよ」


「嘘。この前も葵ちゃんとのツーショット見て、複雑な顔してた」


「してない」


「してた」


美結の観察眼は昔から鋭い。

千紗は観念して、カップのココアを一口だけすすった。


「でもさ、恋愛とか、よくわかんないんだよね」


「え?」


「だって、湊とは幼馴染だったから自然にそうなっただけで。新しく誰かを好きになるって、どうやるの?」


美結が目を丸くして、しばらく千紗の顔を見つめていた。

次の瞬間、なぜか楽しそうに声を上げて笑う。


「ちさ、それ最高」


「何が」


「だって、それって伸びしろしかないってことじゃん!」


呆れつつも、笑い合う。

美結はソファからスマホを手に取り、画面を千紗に見せてくる。

アプリアイコンは、淡いピンク色。


「これ」


「マッチングアプリ?」


「そう! 私もこれで彼と出会ったの」


「え、そうだったの?」


千紗は驚いた。

大学のサークルで出会ったものだとばかり思っていた。


「うん。だから、ちさも――」


「いや、無理無理。そういうの向いてない」


「やってみなきゃわからないじゃん」


美結の押しの強さは高校時代から変わらない。

千紗は、結局その場でアプリをダウンロードさせられ、プロフィールまで作成することになった。


「写真撮るよ。はい、笑って」


「え、ちょっと――」


「ちさは笑顔が一番可愛いんだから。あ、これいい感じ」


スマホを向けられて、仕方なく作り笑い。

だが美結の手にかかれば、どんな写真も「盛れる」らしい。


美結は千紗のスマホを器用に操作しながら、プロフィール文も打ち込んでいく。


「趣味、バレーボール。好きなタイプは……優しくて誠実な人、と」


「なにそれ、普通すぎない?」


「普通がいいの。あとは、医学部です、これはマストね」


「学歴で判断されるの嫌だな」


「ちさ、それは違うよ。同じくらいの知的レベルの人と出会うためには必要な情報なの」


いつもの美結のロジックは、何だか説得力がある。

千紗は小さく溜息をつき、スマホ画面の自分の顔写真に苦笑いした。


翌日。


スマホが、ひっきりなしに通知音を鳴らしている。

目をこすりながら画面を見ると、マッチング希望が600件以上。

一晩で、想像もつかない数のメッセージが溢れていた。


「なにこれ……」


電話越しに、美結が歓声を上げる。


「そりゃそうよねー。だってちさ可愛いもん」


「でも、こんなにたくさん……どうすればいいの?」


「大丈夫、私が選別してあげる」


美結は千紗のスマホを奪い取ると、次々とプロフィールをチェックしていく。


「これは写真が怪しい。これは文章が軽い。これは……あ」


「どうしたの?」


「ちさ、これ見て」


スクリーンショットが送られてくる。

プロフィール名は「ichijo Haruto」。

写真は、たぶんボストン。赤レンガの建物を背景に、黒髪の青年がやわらかく微笑んでいる。

カメラ目線ではなく、斜めを向いた自然な表情。


学歴欄には「Harvard University」。


「ハーバード?」


「そう! しかもとんでもないイケメン!」


「でも、なんでそんな人が――」


「さあ? ほら、いいね数見て」


「……五千?」


「やばくない? でも、まだ登録してすぐだし、チャンスあるかも」


美結が、千紗の代わりに「スーパーいいね」を送ってしまう。

止める間もなく、画面が切り替わる。



一時間後。

通知音とともに、新着メッセージが届く。


『初めまして。チサさんのプロフィールを拝見し、メッセージを送らせていただきました。

バレーボールで全国準優勝、そして医学部での勉強。努力を続けられる方なのだと感じました。もしよろしければ、お話しできれば嬉しいです』


「きた!」


美結が叫ぶ。

千紗は画面をじっと見つめたまま、動けなくなる。


その後も、美結の“指導”の下、やりとりが始まった。


ハルからのメッセージは、いつも丁寧で、どこか温かみがある。

話題も多彩で、千紗の話を真剣に聞いてくれる。

バレーボールの話、医学部の話、将来の夢――

どんな話題も否定せず、自然に肯定し、的確な質問を返してくれる。


そして、

ついに「お会いできませんか」というメッセージが届いた。


千紗は、画面を見つめながら、胸の奥に新しい波紋が広がるのを感じていた。


千紗がカフェに近づくにつれ、胸の奥の緊張はじわじわと高まっていく。

自分の呼吸の速さや、手のひらの汗にすら気づいてしまう。

あたりは平日の午後らしく穏やかで、

通りには新生活を始めたばかりの大学生らしきグループや、おしゃれな買い物客がゆったりと歩いている。


カフェ「Azure」の前。

春の陽射しにコートが柔らかく映え、

青年が静かに街を眺めている。

遠くから見ていたときよりも、彼の存在感がはっきりと伝わってくる。

空間に自然に溶け込みながら、

どこか異質で――けれど、不思議と近寄り難さは感じない。


相手も、こちらに気づいたようだ。

ハルがゆっくりと顔を上げ、千紗の方を向く。


目が合った。


深い黒の瞳。

写真で見たときよりもずっとやわらかく、

思っていたよりも優しい印象だった。

千紗は、なぜか緊張よりも先に、胸の奥に安心感が湧くのを感じた。


歩幅を整えながら、距離を縮める。

五メートル、三メートル、一メートル。


「チサさんですか」


声も、想像していた通りだった。

低すぎず、高すぎず、響きの柔らかな声。

標準的な日本語、発音もきれいで、どこか抑揚に穏やかさがある。

けれど機械的ではなく、人間味を隠さない響きだった。


「あ、はい。橘千紗です」


自己紹介しながら、千紗は自然と軽く会釈をする。

ハルも、同じように会釈を返す。


「一条晴翔です。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ」


声に、ほんの少しだけ照れが混じる。

二人のあいだに、短い静寂が流れる。

でも、不思議と堅苦しい感じはしなかった。

互いに相手の言葉を選ぶ間すら、居心地の良い“間”に思えた。


「お店に入りましょうか」


「はい」


ハルがさりげなくドアを開けてくれる。

押しつけがましさのない、自然なレディーファースト。

千紗は少し照れながらも、軽く会釈して店内へ入る。


「Azure」の店内は、外から見て想像した以上に洗練されていた。


白を基調にした内装には、春の光がやわらかく差し込む。

大きな窓際には、艶やかな観葉植物が並び、

葉の緑が壁や床に小さな影を落としている。

高い天井からは、透明なガラスのペンダントライトが垂れ下がり、

午後の光に小さな虹色のプリズムがちらちらと揺れている。


カウンターからはエスプレッソマシンの低い音と、

ふわりと香るコーヒー豆の芳ばしさが空気に溶けていた。


店内の客たちは、みな思い思いに自分の時間を過ごしている。

ノートパソコンに集中する外国人、英字新聞を静かに読む初老の紳士、

斜め向かいでは、打ち合わせ中らしいスーツ姿のビジネスマンたちが、声を潜めて話している。


千紗は自分のカジュアルな服装が場違いに感じて、

無意識にカーディガンの裾を指先でつまむ。


「窓際の席はいかがですか」


ハルが優しく尋ねる。

千紗は「お願いします」と小さく頷く。


二人掛けのテーブル席。

白い大理石の天板、淡い木目の椅子。

ハルは千紗が席に座るのを確認してから、向かいに静かに腰を下ろした。


メニューが運ばれてくる。

革張りのカバーに収められた分厚いメニューブック。

ページをめくるたびに、焙煎珈琲と焼き菓子の香りが混じり合う。


「コーヒーはお好きですか」


「あ、はい。普通に飲みます」


つい「普通に」と言ってしまい、

千紗は内心少し恥ずかしくなる。

もう少し気の利いた言葉を選びたかったのに。


「ここのカフェラテがお勧めです。ミルクの泡がきめ細かくて」


「じゃあ、それで」


「僕もカフェラテにします」


ハルが店員を呼ぶ。

声の大きさも、所作も、まったく偉ぶったところがない。

注文を伝えるその手つきにも、細やかな所作の美しさが滲んでいる。


ふと、店内の空気がほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。


カフェラテが運ばれてきた。


白い陶器のカップには、ラテアートで描かれた葉っぱの模様が浮かぶ。

カップからはふんわりと湯気が立ち、コーヒーとミルクの香りが、二人の間にほのかに漂った。


「きれい…」


千紗は思わず声に出してしまった。

ハルは微笑む。「写真、撮りますか?」


「あ、いえ…大丈夫です」


カメラを向けるのが少し恥ずかしくて、千紗は小さく首を振った。


カップを両手で包み、一口飲む。

ふわりと広がるミルクの甘さ、コーヒーのほろ苦さ――

いつもとは違う特別な味がした。


「美味しいです」


「よかった」


ハルも自分のカップに口をつける。

その仕草は、カップの取っ手をやや斜めに持ち、無駄な動きが一つもない。

それなのに、堅苦しさは微塵もなく、自然な余裕が漂っていた。


テーブルの上には、会話のきっかけになるものがいくつも並んでいる。

窓の外には、少し傾いた午後の光が、

春の街とカフェの空間を淡い色で塗り替えている。


少しの静けさのあと、千紗が口を開いた。


「あの、どうして日本でマッチングアプリを?」


自分でも、唐突だったかなと思う。

けれどハルは、自然に微笑んだ。


「春休みで帰国していて、時間があったので」


「それだけ?」


「……あとは、そうですね、純粋に出会いがほしかったというか」


言葉の途中で、ハルが少し照れたような表情を見せる。

本音なのか、社交辞令なのか、その絶妙な“距離”がむしろ心地いい。


「ケンブリッジでは勉強ばかりで、気がついたら、そういう機会を逃していました」


「わかります」


千紗は心から頷いた。

「私も、高校時代はバレーばっかりで。大学入ってからは勉強で手一杯で」


「でも、充実していたのでは?」


「そうですね。楽しかったです」


千紗が微笑むと、ハルも少し目を細めて微笑み返した。


不思議な感覚だった。

初対面のはずなのに、会話を重ねるごとに緊張が解けていく。

まるで、前から知っている誰かと話しているような心地。


「バレーボールは、いつから?」


「小学三年生からです。最初は遊びみたいな感じでしたけど」


「それで全国準優勝まで」


「チームメイトに恵まれました」


千紗は心のなかで、陽菜や渚、そして仲間たちの笑顔を思い出す。

大事な場面で肩を叩いてくれた友達。

悩んでいる時にそばにいてくれたコーチ。

いろいろな思い出が、春の光とともに頭をよぎる。


「引退されたんですね」


「あ、はい。実は、高三の夏に、アキレス腱を…」


「それは…大変でしたね」


ハルの声に、同情よりもむしろ寄り添う温かさが込められていた。


「最初は、もう世界が終わったみたいに思いました。でも…」


千紗は、言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。


「リハビリしながら、スポーツ医学に興味を持って。自分みたいな選手を助けられる医者になりたいって」


「素晴らしい目標です」


その言い方には、誇張も飾りもなかった。

ただ真っ直ぐに、千紗の人生を肯定する響き。


千紗は、少しだけ心が軽くなった気がした。


「ハルさんは、どうして経済学を?」


今度は千紗が尋ねる番だ。

ハルは少しだけ考えるような顔になり、

窓の外の光を眺めてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「――“世界の仕組み”をもっと知りたくて。

経済って、人の気持ちや社会の流れが全部混ざってできてる。

難しいけど、面白いですよ」


「かっこいいですね」


千紗は、素直な感想を口にしていた。

ハルが苦笑する。「理想論ですけどね」


「でも、理想がなければ始まらないじゃないですか」


千紗の言葉に、ハルの目に驚きが浮かぶ。

その後、嬉しそうな笑みがこぼれた。


会話は自然に、好きな本や映画、音楽へと流れていく。

話題が途切れることもなく、どちらも「知っているふり」や「背伸び」をしない。

心の壁が、一枚ずつ剥がれていくような心地。


「最近読んだ本で面白かったのは?」


「村上春樹の『ノルウェイの森』を読み返しました」


「あ、私も好きです」


「本当ですか」


二人は、思わず小さく笑い合う。


医学部の友達とはどうしても勉強の話になり、高校時代の友人とは過去の思い出話になってしまう。

でも今は、「今の自分」が会話の中心にある。


「恋愛小説はお好きですか」


ハルの問いに、千紗は一瞬だけ言葉に詰まる。


「えっと、あんまり読まないかも」


「そうなんですか」


「恋愛って、よくわからなくて」


思いきって、本音を言ってしまう。

ハルが首を傾げる。


「でも、プロフィールには」


「あ、あれは友達が書いたんです」


千紗は慌てて説明する。「友達が?」


「はい。私、そういうの疎くて。友達に全部お任せしちゃって」


ハルが、珍しく声を上げて笑った。

彼が声を出して笑うのを、千紗は初めて見た気がした。


「すみません。でも、なんだか千紗さんらしいなと」


「らしい、ですか?」


「正直で、飾らない感じが」


その言葉に、どう返していいか分からない。

けれど不思議と嫌な気分にはならず、

むしろ、自分でも気づかない心の部分がじんわりとあたたまる。


その時、千紗のスマホが震えた。


「あ、すみません」


画面を見ると、湊からのメッセージ。

『千紗、元気? 今度、みんなで集まろうって…』


一瞬、胸がざわついた。でも――


「大丈夫ですか」


ハルの穏やかな声で現実に引き戻される。


「あ、はい。すみません」


千紗はスマホをそっとカバンにしまった。

いつもなら、湊の名前を見ただけで少しだけなんとも言い難い気持ちになるのに、

今は目の前の会話がずっと大切に思えた。


気がつけば、二時間半が経過していた。


カフェラテのカップはすっかり冷めて、

アイスティーの氷も溶けかけている。

窓の外には、春の午後の陽射しが少しずつ傾いていく。


「もうこんな時間」


千紗が時計を見ると、四時四十五分。


「本当だね。あっという間だった」


ハルも腕時計をちらりと見て、

シンプルな白い文字盤の上で短針が進んだことを確認する。


「今日は、ありがとう」


千紗が先に切り出す。

別れを惜しみながらも、初対面であまり長居するのも――

そう思っての一言だった。


「こちらこそ。すっごく楽しかったよ」


ハルが会計伝票を手に取る。

千紗は慌てて「割り勘で」と言いかけるが、


「いや、今日は僕に払わせて」


「でも…」


「初めて会えた記念だよ」


ハルの微笑みに、千紗は反論できなかった。


「じゃあ、次は私が…」


口にしてから、自分でも驚いた。

「次」という言葉が、ごく自然に出てきたのだ。


「次?」


ハルが少しだけ意外そうな顔を見せてから、

今度は本当に嬉しそうに微笑んだ。


「ぜひ、お願いします」



店を出ると、春の午後の空気が二人をやさしく包んだ。


青空には薄い雲がかかり、

通りには新しい季節の柔らかな風が流れている。

千紗のカーディガンの裾が、そよ風に揺れる。


「駅まで送るよ」


「え、大丈夫だよ」


「この辺り、少し分かりにくいから」


ハルの申し出に、千紗は素直に従った。


並んで歩き始めると、ハルは千紗の歩調に合わせてくれる。

身長差があるのに、彼が自然に速度を落としているのがわかる。


「東京は久しぶり?」


「半年ぶりくらい。冬休みは帰ってこなかったから」


「ボストンの冬は寒いんでしょう?」


「マイナス十度くらいかな」


「うわ、想像できない」


会話が途切れても、不思議と気まずくならない。

むしろ、沈黙が心地よい。


通りには、学校帰りの高校生たちが増えてきた。

女子高生たちが笑いながら、友達同士で連れ立って歩いている。


千紗は、自分の高校時代を思い出す。

部活帰りにみんなでコンビニに寄って、

陽菜や美結、湊たちとくだらないことで盛り上がった、春の帰り道。


「千紗さん」


ハルの声で、今に引き戻される。


「ん?」


「また、会えますか?」


真っ直ぐな問いかけ。

千紗は立ち止まり、ハルの顔を見上げる。


「うん、ぜひ」


即答だった。自分でも驚くくらい、迷いがなかった。


ハルの顔に、安堵の色が浮かぶ。


「よかった。また連絡します」


「うん」


駅の入り口が見えてくる。

交差点の信号が青に変わるのを待つ間、

二人はほんの短い時間だけ無言のままでいた。


「今日は本当に、ありがとうございました」


千紗が頭を下げる。


「楽しい時間でした」


ハルも軽く会釈を返す。


「それじゃあ…」


「うん、また」


千紗は手を振って、交差点を渡る。

信号待ちのあいだに振り返ると、ハルはまだ同じ場所に立っていた。

もう一度、そっと手を振る。

ハルも微笑んで、手を振り返してくれた。


地下鉄のホームで、千紗はベンチに腰かけたまま、さっきまでの午後を静かに反芻していた。


空気にはまだ春の冷たさが残っている。

薄暗い地下に降りてきたはずなのに、心のどこかは、カフェの大きな窓から差し込む光に照らされている気がした。


自分は緊張していたはずなのに、

どうしてあんなに自然に話せたんだろう。

初対面のはずなのに、昔からの知り合いみたいに感じた理由はなんだったのだろう。


駅のアナウンスと、電車のブレーキ音が遠くから響く。

自分の時間だけが、少し違うリズムで流れているような気がした。


何より、さっきの自分は

「湊」のことを、ほんの数分だけ忘れていた。

誰かと話すたび、比較してしまっていた自分が、

いまは「目の前の人」とだけ向き合えていた。


電車が到着し、千紗はゆっくりと乗り込む。

つり革につかまりながら、バッグの中のスマートフォンが小さく震えた。


画面を見ると、美結からのメッセージ。


『どうだった!? 報告待ってる!!』


千紗は思わず笑みを漏らし、

『今終わった。あとで電話する』とだけ短く返した。


『え〜、今すぐ教えて! 良かった? 悪かった?』


その勢いに押されながらも、千紗は

『良かった』

と、ただそれだけを送った。


その一言に、全部の気持ちが詰まっているような気がした。


『きゃー! 詳細求む!!』


美結の興奮が、画面越しにも伝わってくる。

千紗はスマホを握りしめ、目を閉じる。

電車が揺れ、遠くから春の夕方の光が窓の向こうに滲む。


もう一度ポケットでスマホが震える。

今度はハルからのメッセージだった。


『今日はありがとうございました。千紗さんとお話しできて、本当に楽しかったです。来週、桜を見に行きませんか?』


胸の奥が、じんわりと熱くなる。

桜――

そういえば、もうすぐ満開の季節だ。


千紗は、画面の入力欄をしばらく見つめた。

なんて返せばいいんだろう。

あまり軽い感じでもダメだし、堅すぎても、

この気持ちが伝わらない気がする。


結局、

『こちらこそ、ありがとうございました。来週、楽しみにしています!』

とだけ打ち込み、送信ボタンを押す。


そのシンプルさが、自分の素直さをすべて映している気がした。


すぐに既読がついて、ハートのスタンプがひとつ届く。


そのスタンプに、思わず声を出さずに笑った。

まさかハルがこういう絵文字を使うなんて。

静かな親しみと、小さなギャップ。

胸の中に、あたたかな光が差し込む。


電車は暗いトンネルを抜け、

窓の向こうに、夕暮れの青とピンクが混じる春の空が一瞬だけ見えた。


千紗を見送った後、ハルはその場にしばらく立ち尽くしていた。


春の風が、静かにコートの裾を揺らす。

青山の街は、午後の喧騒を少しずつ手放し、

夕暮れの気配と新しい静けさを迎えようとしていた。


ハルは歩き出す。

カフェ「Azure」の前を通り過ぎ、表通りから一つ奥へ。

裏通りには、陽が傾くにつれて影が長く伸びていた。

ギャラリーのショーウィンドウ、小さな花屋、どこか物憂げなカフェ――

青山の裏道が、知らない表情で静かに包み込んでくる。


ポケットの中でスマホが震える。

画面を見ると、イザベラからのメッセージ。


『彼女、どうだった?』


ハルは立ち止まり、

空を見上げる。

街路樹の梢の間から、雲の切れ間に淡い光が差し込んでいる。


『思ったより話しやすかったよ』


すぐに返事がくる。


『それだけ?』


『素直で、裏表がない。とても良い子だった』


『そう、じゃあ引き続き続けて』

『記録は忘れずに』


『了解』


『じゃあね、ハル』


『うん、イザベラ』


スマホをポケットにしまい、

春の空をもう一度見上げる。


この街が桜色に染まるまで、あと一週間もかからないだろう。

ハルは、来週の約束を胸の奥でそっと反芻しながら、

静かに青山の街を歩き始めた。


午後五時三十分、千紗は自宅マンションに帰り着いた。


玄関の扉を閉めて、リビングへ。

ソファに沈み込むと、天井の白さと春の光が目に沁みる。


今日一日が、本当にあったことなのか――

現実と夢のあいだに、身体が浮かんでいるような感覚。


ハルという人。

穏やかな声。さりげない仕草。

それでいて、なぜか初対面でも不思議と安心できたこと。


そして――

湊とは違う、苦しさも切なさもない。

胸の奥がふわりとあたたかくなるような、

静かな「好き」の予感。


千紗はそっと目を閉じる。

恋愛って、こんなものなのかな。

昔、湊に感じていたものとは違う。

あの時は、幼馴染で、気づけば苦しくて――

でも今日は、心が安らぎ、また会いたいと自然に思えた。


これが、新しい始まりなのかもしれない。

そう思ったとき、

窓の外には、春の夕暮れが、

ゆっくりと街を包み込み始めていた。


千紗は小さく微笑み、

そのまましばらく、

今日の余韻に身を委ねていた。

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