強すぎる男のマッチングアプリ攻略

@mryo1381

世界が動き出すとき

午前十時、成田空港第2ターミナル。

南ゲートの喧騒は、春の陽射しとともに揺れていた。


ガラス張りの天井は幾何学的な鉄骨で支えられ、朝の光が複雑な影絵となって大理石の床に落ちている。

その影は人々の足取りに合わせて絶えず形を変え、まるで生き物のように蠢いていた。磨き上げられた床は、鏡のように天井を映し出し、上下が反転した世界が足元に広がる。


免税店のショーウィンドウには、エルメスのバーキン、ルイ・ヴィトンのトランク、カルティエの時計が整然と並んでいる。

ガラスには指紋ひとつ残らず、LEDライトが計算し尽くされた角度で商品の輝きを演出していた。

その前を、キャリーケースを引いた中国人観光客の団体が通り過ぎる。ガイドの持つ旗に従い、統率の取れた動きで免税店へと吸い込まれていった。


別の一角では、ビジネスマンたちが足早に行き交う。

革靴が大理石の床を打つ音は、不規則でありながらも奇妙なリズムを刻む。紺やグレー、時折混じる黒のスーツ。ネクタイの結び目は端正で、スマートフォン片手に英語の電話会議が漏れ聞こえてくる。「Yes, I understand」「We need to discuss this matter」──断片的な言葉が、空間に浮かんでは消えていく。


カフェスタンドには長い列。エスプレッソマシンの蒸気音、ミルクを泡立てる金属音、紙コップの置かれる軽い音。

バリスタの「お待たせしました」は機械的でありながらどこか温かい。客の一人が小銭を落とし、コインが床を転がる澄んだ音が響く。誰かが拾い上げて「どうぞ」と手渡す──小さな親切が一瞬だけ人々の視線を集めて、すぐに日常へと溶けていった。


そんな雑踏の只中、ゆっくりと歩を進める一人の青年がいた。


黒髪は日本人特有の直毛で、不思議な艶を帯びている。耳が隠れるか隠れないかの長さ、自然に流れる前髪が額を柔らかく覆っていた。どこのサロンで切ったのか、あるいは美容院に通っているのか──そんな疑問すら無意味に思える、無作為でありながら乱れのない完璧さがそこにはある。


服装は徹底して「普通」だった。

白いコットンシャツは、ユニクロでもZARAでも、あるいは高級ブランドでも見分けがつかない。第二ボタンまで開け、袖は肘下まで無造作にまくり上げている。グレーのスラックスは体のラインに沿いながらも、タイトすぎず、ルーズすぎない。黒の革靴は、新品でもなく、履き潰されてもいない。ただ、歩くたびに床と立てる音だけが妙に澄んでいた。


持ち物は黒い革のパスポートケースひとつ。

それを右手に軽く握り、左手は自然に体側に下ろしている。バッグもなければスーツケースもない。まるで近所のコンビニへ行くかのような軽装で、国際線の到着ゲートを歩いていた。


人々の流れの中、彼は独特の存在感──いや、「非存在感」とでも呼ぶべきものを放っていた。

目立つわけでもなく、なぜか視界の端に残る。注目されないのに、すれ違った後でふと「今の人は誰だった?」と振り返りたくなるような、不思議な印象を周囲の無意識に刻みつけていく。


空港職員が彼とすれ違いざま、思わず立ち止まりかけるが、次の瞬間には首を振って業務へ戻る。免税店の店員もまた、思わず目で追いかけそうになり、慌てて客に視線を戻す。

誰もが一瞬だけ、説明のつかない違和感を覚え、そしてすぐに忘れていく。


ただひとり、幼い子供だけが、彼の姿をじっと見つめていた。


三歳ほどの男の子。大きな瞳には大人が失ってしまった純粋な好奇心が宿っている。青年が近づくと、子供は小さな手を伸ばし、何かを掴もうとするような仕草を見せた。母親も周囲の大人も気づかない。ただ子供だけが、青年の持つ「何か」を感じ取っている。


青年もまた、初めて歩みを緩める。子供の視線に気づき、一瞬だけ足を止めた。表情は変わらない。ただ、ゆっくりと一度だけ瞬きをする。それは挨拶のようでもあり、確認のようでもあり、あるいは単なる生理現象かもしれない。


「ママ、あの人、きれい」


子供の声が、雑踏の中で澄んだ音色を奏でた。

「きれい」という言葉は容姿を指しているのか、あるいは別の何かなのか。母親は振り返らず、「そうね」と適当に相槌を打ち、先を急ぐ。

子供は何度も振り返り、青年の姿が見えなくなるまで目で追い続けていた。


青年は再び歩き出す。歩調は変わらない。急ぐでもなく、ゆったりともしない。ただ自分のペースで、自分の行くべき場所へと向かっている。


到着ロビーへと続く自動ドアを抜けると、空気が変わる。外の喧騒が和らぎ、天井が高くなる。

「Welcome to Japan」の文字がデジタルサイネージで各国語に切り替わりながら表示される。花屋の店先には季節の花が並び、コンビニエンスストアからは冷房の涼しい風が漏れてきていた。


そして、一般ロビーから少し離れた場所に、別世界への入り口がある。


「VIP」とも「Special」とも書かれていない、ただ番号だけが記された扉。その前に、黒塗りの高級車が音もなく横付けされている。メルセデス・ベンツSクラスの最新モデル。漆黒のボディは一点の曇りもなく磨かれ、窓にはプライバシーフィルム。ナンバープレートは品川3ナンバー、数字は「・・・1」。


車の前には、二人の男が立っている。


運転席側に立つのは、六十代とおぼしき初老の男性。身長は170センチほど、白髪を七三に整えている。紺の制服は一見して運転手だが、生地や仕立ての良さ、ボタンの輝きが特注品であることを物語っていた。白い手袋をはめた手は体側にぴたりと添え、微動だにしない。


助手席側には、三十代前半の若い男。

180センチを超える長身で、肩幅も広い。同じ制服だが、下の筋肉の動きが「ただの運転手」以上の訓練を示唆している。表情はなく、サングラスで目元を隠しているが、周囲への警戒を怠っていないのは明らかだった。


青年が近づくと、若い男が一歩前に出て、音もなく後部座席のドアを開ける。動作は流麗で、ドアの開く角度も速度も、すべてが計算されているようだ。ドアが完全に開ききると、男は深く一礼した。言葉はない。ただ、完璧な角度での礼だけがそこにあった。


初老の男もまた、青年に一礼し、右手をそっと差し出す。パスポートケースを預かろうとする仕草だが、青年はわずかに首を横に振る。それは拒絶ではなく、「必要ない」という静かな意思表示。男はすぐに手を引き、もう一度礼をして元の位置に戻った。


三人の間に言葉は一切交わされない。

だがそこには、言葉を必要としない完璧な意思疎通があった。

まるで何度も繰り返されたルーティン、あるいは言葉を超えた関係性のように。


青年は車内へと乗り込む。


黒革のシートは、イタリア高級ブランド製だろう。触れた瞬間、体温に合わせてわずかに温度が変わる。シートの硬さも体型に合わせて微調整されているかのよう。足元には厚手のペルシャ絨毯、天井には星空を模したLEDライト。


アームレストにはクリスタルグラスに氷水が注がれている。氷は完璧な球体で、溶ける速度まで計算されているようだ。隣には未開封のエビアン、小さな銀のトレイには白い錠剤が一粒──おそらく機内での体調ケア用だろう。


青年はグラスにも錠剤にも手を付けず、ただシートに身を沈めた。初めて大きく息を吐く。

それは疲労でも安堵でもない。一つの空間から別の空間へ移行したことを、体が認識しただけの、ごく自然な呼吸。


運転席の初老の男がバックミラー越しに青年を確認する。アイコンタクトはない。ただ、青年がシートベルトを締めたのを確認すると、エンジンを始動させた。

V8エンジンの低い唸りがかすかに響くが、すぐに防音システムが作動し、外界の音は完全に遮断された。


車はゆっくりと動き出す。空港の誘導路を抜け、一般道へ。

窓の外では、空港で働く人々の姿。タクシーの列、バスの発着、一般車両の送迎──すべてが日常の風景として流れていく。


防音ガラス越しのその景色は、まるで音を消したテレビのようだ。

人々の口は動いているが声は聞こえず、クラクションも、飛行機のエンジン音も、すべてが無音の世界。青年はそれを見ているようで、どこも見ていない。

視線は前方に向けられているが、焦点はどこにも合っていない。


空港を出て首都高速へ向かう道すがら、青年は一度だけ振り返る。

後方に小さくなる空港ターミナル。ガラス張りの建物が、午前の光を反射して輝いていた。さっきまで自分がいた場所。今はここにいる。


その事実を確認するような一瞥ののち、青年は再び前を向いた。

東京の街が、静かに彼を迎え入れようとしていた。


首都高速を降りて一般道を十五分ほど走ると、景色は急激に変化していく。

雑多な商店街が、やがて整然とした住宅街に。さらに奥へ進めば、敷地の広い邸宅が点在するエリアへと入っていく。

一軒一軒の塀は高く、街の喧噪はすっかり遠ざかる。


その一角、ひときわ奥まった場所に目的地はあった。


門扉は鋳鉄製で、高さは三メートルを超える。

蔦のような装飾が絡みついているが、それは単なる美しさではなく、巧妙に防犯カメラや赤外線センサーが組み込まれている。門柱にインターホンすら見当たらない。訪れる者を無言で拒む、静かな威圧感が漂っていた。


だが、黒塗りのベンツが近づくと、門は音もなく開く。

センサーが車を認識したのか、それとも別の方法で到着を察知したのか。

車寄せの石畳をゆっくりと進めば、三階建ての邸宅が静かに姿を現した。


建物は現代建築でありながら、時代を超えた落ち着きを纏っている。

コンクリート打ち放しの外壁に大きなガラス窓──だが、そのガラスは外から内部をうかがわせない特殊なもの。

屋上には手入れされた松が配された小さな庭園。ミニマルでありながら、細部に日本の伝統美が息づいていた。


車が玄関前で停車すると、すでに重厚な木製の扉が開いていた。

誰が開けたのかも分からない。ただ、静かに青年を迎え入れるように口を開いている。


青年は車を降り、数段の石段を登る。振り返ることも、ためらうこともなく、

ただ当然のことのように建物の中へ入っていく。背後で車のエンジン音が静かに遠ざかっていく。


玄関ホールは、想像を超えるほど広い。


吹き抜けの天井は十メートルはあるだろうか。中央には現代的なシャンデリアが吊るされているが、今は灯りが消えている。壁面には間接照明が穏やかな光を落としていた。

床は黒御影石。磨き抜かれたその表面は、まるで湖面のように微かな光を反射している。青年の革靴の足音が、静かに反響する。


正面には幅広の白い大理石の階段。手すりは黒檀で、触れるとひんやりとした感触が伝わる。

踊り場には一枚の抽象画。巨匠の署名があるが、ここではただの装飾品に過ぎない。


青年は階段を上らず、左手の廊下へ進む。廊下の両側には複数の扉が並ぶが、どれも閉ざされている。

取っ手は真鍮で統一され、外からは用途も気配も一切わからない。


廊下の突き当たり、両開きのドアを押し開けると、リビングルームが広がる。


その広さは、一般的な家のワンフロア分はありそうだ。

天井高は四メートルを優に超え、南向きの壁は一面ガラス窓──しかし今は厚手のベルベットのカーテンが引かれ、外の光は布越しにぼんやりと漂うだけ。カーテンの色は深い紺。夜の海を思わせる静けさだ。


部屋の中央には、白いレザーのソファセットがL字に組まれている。

イタリアの高級家具メーカーのものだろう。触れれば、上質な革の感触とわずかな新品の匂いが漂う。だが、座面のかすかな凹みが、長い時間このソファが人を受け止めてきたことを語る。


ソファの前にはガラスの天板を持つローテーブル。磨き上げられたステンレスの脚は、天板を宙に浮かせているように見える。

その上には、すでに用意されているものがあった。


白磁のコーヒーカップとソーサー。中には琥珀色の液体。湯気は立たないが、手にすればほどよい温もり。

隣には今朝の新聞が数紙。日経、WSJ、FT、ル・モンド──一面を揃えてきちんと重ねられている。


さらにタブレット端末。画面には複数のウィンドウ。株価チャート、為替レート、世界各国のニュース。

どれも自動更新されているだけで、誰かが操作した形跡はない。


青年はソファに腰を下ろす。深く沈み込むクッションが、体を優しく受け止める。

彼はまず、コーヒーカップを手に取った。一口含み、かすかに眉を動かす。

美味いというよりも、何かを確認するような仕草。ただ、二口目は飲まず、カップを静かにソーサーに戻した。


壁一面の書架が、天井まで本で埋め尽くされていた。


経済学、哲学、心理学、脳科学、AI、量子物理学。文学全集、詩集、美術書、建築雑誌。

言語も日本語、英語はもとより、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、アラビア語まで。


配列は一見無秩序だが、よく見れば連想で繋がっている。経済学から心理学、行動経済学、そして脳科学へ──知識の地図が立体的に並んでいるかのようだ。


最上段、手の届かない場所には額装された証書や楯が無造作に置かれている。

summa cum laude、Phi Beta Kappa、学術賞や国際会議の表彰状──だが、それらは誇示のためではなく、ただ置き場に困って上げただけの風情だ。


書架の一角には、手書きの革装丁ノートが何十冊も並ぶ。背表紙には年号だけ。最古のものは十年以上前。中を開けばびっしりとした文字、数式、図表、詩的な走り書き──すべて同じ筆跡、青年自身の記録だ。


青年はポケットからスマートフォンを取り出した。


最新のiPhone。ケースも保護フィルムもつけていないのに、傷ひとつない完璧な状態。まるで今、箱から出したばかりのよう。


ロック画面には通知が溢れている。


マッチングアプリのアイコン。「99+」の表示は、その実数が遥かに上回っていることを示していた。


青年は無表情のまま、アプリを開く。


「新着いいね!」の文字とともに、プロフィール写真が滝のように流れていく。年齢、職業、一言メッセージ。

「はじめまして!プロフィール見て一目惚れしました♡」

「ハーバード大学すごいですね!私も留学経験があって、ぜひお話ししたいです」

「写真の雰囲気が素敵で…よければお茶でもしませんか?」

「こんな人を探してました!運命を感じます」

「年収とか気にしないので、あなたという人に興味があります」──


プロフィール写真も清楚系の女子大生、キャリアウーマン風のOL、モデル風、知的な雰囲気の女性…年齢も職業も多様。

だが青年は、アルゴリズムがデータを処理するように、ただ機械的にスクロールする。感情の起伏は一切見られない。時折熱烈なメッセージに目が止まっても、指の動きは止まらない。ただ情報として流れていく。


ふと、自分のプロフィール画面に切り替える。


写真は数枚。すべて学術誌や国際会議、表彰式など他者が撮影したものばかり。正面を向いたものはなく、自然体で写る姿。笑顔もあれば真剣な横顔も。加工の痕跡はない。


プロフィール欄は驚くほど簡素だった。


「Haruto Ichijō」

「21歳」

「Harvard University」

──それだけ。趣味欄は空白、自己紹介文もなし。年収や身長、体重、好きなタイプも、理想のデートも書かれていない。


通常なら、これでは「いいね」は来ない。

だが「Harvard University」という学歴と、唯一無二の容姿──それだけで溢れるほどの反響。


青年はアプリを閉じかけて、ふと別の通知に気づく。

メッセージアプリに新着が一件。送り主は「Isabella」。


『Did you arrive safely? ーハル、無事に着いた?』


短い問いかけ。絵文字も装飾もない。だが、その簡潔さの中に彼女の性格が表れている。無駄を嫌い、本質だけを求める。そして、相手もそれに応えることを前提にしている。


青年もまた、簡潔に返す。


『うん。何も変わってないよ。』


『それならよかった。』


その後、数回のやり取りが続く。互いに必要最小限の言葉で情報だけを交換する。

まるで暗号文のような、無駄のない会話。これがイザベラとハルの「普通」なのだ。


『ところで――』


話題が切り替わる前触れ。


『これが"最初の候補"。』


添付されてきたのは、マッチングアプリのプロフィール画面のスクリーンショット。

女性の写真が一枚。年齢は十九歳。


栗色のセミロングヘアが自然に肩へ流れ、清潔感のある美しさ。

メイクは薄く、ナチュラル。全体から「爽やかさ」と「誠実さ」が感じられる。


メッセージが更新される。


『始めなさい。記録は忘れずに。』


命令口調。だがそこに強制力はない。むしろ、共犯者同士の合図のような響き。


『了解。』


青年の返事は、それだけだった。


スマートフォンを見つめながら、青年の意識は数日前のハーバードへ遡る。


中庭の芝生は、何世紀にもわたり学生が議論し、思索し、恋をしてきた場所。その一角で二人は向かい合っていた。


午後。太陽は西に傾き、建物の影が長く伸びる。空気は静まり返り、遠く教会の鐘が時を告げる。


イザベラは白のニットとベージュのパンツ。

素材の質感と彼女の長身が相まって、どこか洗練された印象。

プラチナブロンドの髪は肩甲骨まで真っ直ぐ。風がなく、髪は彫刻のように動かない。


薄い青──いや、灰色に近い瞳が、真っ直ぐに青年を見据えている。


「ハル、あなたに頼みがあるの」


「二ヶ月で二十人の女の子と付き合ってきなさい」


爆弾発言。普通なら驚くか笑い飛ばすか問い詰めるだろう。だが青年は、眉一つ動かさない。


イザベラはその反応を見て続ける。


「ただし、条件がある」


一歩近づく。ヒールの音が石畳に響く。


「まず、キスは禁止」


奇妙な条件。付き合うのにキスはなし──関係として成立するのか。


「次に、相手から別れを切り出させること。あなたからは絶対に別れを告げない」


さらに奇妙。普通、関係の終わりはどちらかの意志で告げられる。それを相手に委ねるとは、コントロールを手放すということ。


「そして、すべてを記録すること。会話、行動、相手の反応、あなた自身の感情の変化──全部」


観察記録。まるで人間関係を実験として扱うかのよう。


青年はゆっくりと問いかける。


「理由は?」


なぜ二十人なのか、なぜキスは禁止なのか。

なぜイザベラがこんなことを要求するのか。


イザベラの唇がかすかに弧を描く。それは微笑とも、嘲笑ともつかない、不思議な表情。


「あなたが『普通の人間』になれるかどうか、試したいの」


普通の人間。その言葉が、二人の間に静かに横たわる。


青年は普通ではない。それは二人とも分かっている。

生まれも育ちも、能力も──「普通」から大きく逸脱している。だが、人間関係においては「普通」を演じられるのか。


「それと」


イザベラが続ける。


「あなたという存在が、どんな関係性も変質させてしまうのか。それを確認したい」


実験。やはりこれは実験なのだ。青年が他者との関係にどんな影響を及ぼすのか。二十人、二ヶ月という“サンプル”で、どんなパターンが現れるのか。


夕陽が二人を金色に染める。建物の窓はオレンジに輝き、影はさらに長くなり、やがて夜が訪れる。その境界の時間に、二人は向かい合っている。


「分かった」


青年の答えは短い。


イザベラは満足げに頷くと、踵を返し歩き出す。長い銀髪が夕陽に照らされ、まるで後光のように輝いている。


「ああ、それから」


数歩進んでから、振り返らずに言い添える。


「相手は私が選ぶ。あなたは与えられた候補者にアプローチするだけ。選ぶ自由はないから、そのつもりで」


さらなる制約。相手を選ぶことすら許されない。ただ与えられた相手と関係を築き、終わらせる──その繰り返し。


最後の言葉。


「あなたはただ、あなたでいればいい。その自然な在り方こそが、彼女たちにとって最も危険な毒になるのだから」


そして白い影は夕闇に消えた。あとには青年だけが中庭に残る。


彼は空を見上げた。最初の星が、夜空に瞬き始めていた。


現在、東京の邸宅。


青年は回想から静かに意識を戻し、もう一度スマートフォンの画面に視線を落とす。

「1番」のタグがつけられた女性のプロフィールが、ディスプレイの中で待っていた。


橘千紗、十九歳。京都大学医学部。


写真の中の彼女は、派手さこそないが、明るく知的な雰囲気をまとっている。

やや明るめの栗色のセミロングヘアが柔らかく肩に流れ、透明感のある肌と、澄んだ瞳が印象的だ。口元には自然な微笑み。作り物ではない、ほんのりとした寂しさを含むリアルな笑顔だった。

健康的な美しさと、医学部生らしい知的な空気。その両方が、見る者の目にすんなりと入り込んでくる。


青年は、プロフィールの詳細に目を通す。


「はじめまして。プロフィールをご覧いただき、ありがとうございます!


京都大学医学部1年生です。高校時代はバレーボールに青春を捧げていました。毎日朝練・放課後練・休日も練習漬けの日々で、今もスポーツと勉強はどちらも大切な『習慣』みたいになっています。


部活引退後は、医学部の勉強に打ち込む毎日ですが、最近は友人に勧められて“ちょっとだけ”恋愛にも前向きになってみようと思いました。恋愛経験はそんなに多くありませんが、素直で明るい性格は昔からだと友人によく言われます。


性格は、どちらかというと人見知りしないタイプで、話すのも聞くのも好きです。努力することや、人のがんばりを応援することが得意で、友人からはちょっと天然と言われることが多いです。友達や家族をとても大切にしています。


趣味はバレーボール、カフェ巡りや美味しいご飯探し、最近は読書や、友人に勧められて始めた映画鑑賞も楽しんでいます。


理想の相手は、お互いに気を遣わず、素直に話し合える関係が理想です。新しいことや楽しいことに一緒にチャレンジできる方で、何かに一生懸命な人に惹かれます。面白い話や日常の出来事も、色々シェアできたら嬉しいです!


最初はメッセージから、少しずつお互いのことを知っていければと思っています。どうぞよろしくお願いします!」


飾り気はないが、素直さと誠実さが伝わる自己紹介文。

計算されたアピールではなく、ありのままを綴った言葉が、かえって好感を呼ぶ。


「いいね」の数はすでに600を超えている。

登録したばかりの新規アカウントとしては驚異的な人気だが、

彼女の容姿とプロフィールから感じられる基礎スペックが、その理由を雄弁に物語っていた。


青年は、指先で「いいね」ボタンに触れた。

一瞬だけ、わずかな逡巡が指先に宿る──これから始まる「実験」への覚悟か、それとも別の感情か。


ボタンを押す。


瞬時に「マッチング成立!」の表示が画面に踊る。

相手もすでに彼に「いいね」を送っていたことを意味していた。これで、メッセージのやりとりが可能になる。


新しいメッセージ画面が開く。

真新しい白い入力欄が、青年の言葉をじっと待っている。


最初の一言は、いつも以上に重要だ。

この一手で、相手に与える印象が大きく変わる。

軽すぎても、重すぎてもいけない。

当たり障りのない挨拶では、心に残らない。

ただし、「普通なら」。


青年はしばし画面を見つめ、ゆっくりと指を動かし始める。


『初めまして。チサさんのプロフィールを拝見し、メッセージを送らせていただきました。バレーボールで全国準優勝、そして医学部での勉強。努力を続けられる方なのだと感じました。もしよろしければ、お話しできれば嬉しいです』


淡々としていながらも、相手に寄り添い、自然な会話の糸口を差し出す。

計算されているようで、それ以上に「素」の温度を感じさせる絶妙なバランス。


送信ボタンを押す。

小さなチェックマークが表示され、メッセージが相手に届いたことを示す。


青年は立ち上がり、静かな足取りで窓辺へ歩み寄る。

カーテンを少しだけ開けると、外は夕暮れに染まっていた。

オレンジ色の光が斜めに差し込み、部屋の空気が一層静けさを増す。


庭の木々が穏やかな風に揺れ、

遠くから車の走る音が、ほんのかすかに聞こえてくる。

どこかで犬が短く吠えた。


ただの夕暮れ、ありふれた一日。

だが、青年のスマートフォンの中では、小さな「実験」が静かに幕を開けていた。


──20人の女性、2ヶ月の期限、キス禁止。

そして、すべてを記録すること。


彼は、どのようにしてイザベラの命令を日本の地で遂行していくのか。

その「存在」は、関わるそのすべての関係を変質させてしまうのか──


答えは、まだ誰にもわからない。


青年はソファに戻り、スマートフォンを手に取る。

画面には、すでに既読マーク。

千紗がメッセージを読んだのだ。


そして、入力中を示す「…」の表示。


橘千紗が、返信を書いている。


第一の実験対象との接触が、今、始まろうとしている。


部屋の時計が、午後六時半を指している。

外では、街の灯りが一つ、また一つとともり始めていた。


通り沿いには、高くそびえる門構えを備えた邸宅が整然と立ち並んでいる。どの家も敷地は広く、手入れの行き届いた庭園は夕闇の中で静かな影を落としていた。レンガ造りの塀の上を、細く装飾された鉄柵が幾何学模様を描きながら連なり、そこに取り付けられた街灯が優しく淡い光を投げかけている。


生け垣は寸分の狂いもなく刈り揃えられ、葉の表面が光を反射して艶やかに輝く。点在する噴水は水を静かに吐き出し続け、その水音だけが夜の静けさに溶け込んでいる。どの家もまだカーテンが引かれておらず、大きな窓越しに漏れる暖かな光が、上質な調度品やシャンデリアのきらめきを微かに映し出している。


広く緩やかな道路には、一台二台と、静かに高級車が滑るように走り過ぎていった。遠くの邸宅からピアノの旋律が微かに響いてくる。それはまるで、慎ましやかな夜の幕開けを告げるような、控えめで美しい響きだった。


夕暮れの空はゆっくりと藍色へ深まりつつあり、遠く西の地平線に残る微かな橙色が消えるまでの短い時間だけ、世界は昼と夜のあわいに静かに佇んでいるのだった。

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