第38話 上海

 冷え切った冬の気流が、成田で見送ってくれた仲間の手の温度をさらっていった。その風を追うように飛び立った機体は、五時間の空路を経て、春節の灯りに染まり始めた上海浦東国際空港へ滑り込む。到着は夕刻──赤錆びた太陽が誘い込むようにガラス壁を茜色へ浸し、ロビーには多言語のざわめきとキャスターのこすれる音が交錯していた。

 天井から吊られた連橋のような赤提灯には、まだ灯が入っていない。それでも紙を透ける光がほのかに朱を帯び、祝祭の脈動を仄めかす。陽気に手を振り合う家族連れの向こう、スーツケースに貼られたステッカーが陽光を跳ね返すたび、陸斗の胸にはひとつの名が浮かんでは消えた。

──ここが、天花が暮らしていた街。

 人並みの熱気を浴びながらも、心の中心は静まり返っている。まるで濃密な空気のバリアが、彼だけを別の時間軸に封じ込めているかのようだった。それでも胸の奥では、小さな灯火が確かに燃えていた。彼女の足跡へ続く航路を、いま自分が歩きはじめたという、淡い温もりの灯。

 タクシー乗り場へと歩みを進めると、白い息がスロープに漂い、春節民謡のシンセサウンドが車列の隙間から零れ聞こえた。陸斗が荷物をトランクへ放り込むと、運転手が上海語混じりの中国語で「春節は初めてか?」と笑う。曖昧に頷き、深く椅子へ沈むと、車体は旧市街へ向けて滑り出した。

 街路樹の黒い枝先には赤い切り紙細工が揺れ、屋台の湯気が焼き栗と麻辣湯の香りをまとって車窓をくぐる。爆竹の灰が夜気に溶け、ビルの輪郭を霞ませてゆく。子どもたちの金と朱の衣装が視界をよぎり、その残像がレンズフレアのように網膜に残った。

──天花は、この空気を吸い、この音を聞き、この匂いの中で呼吸していた。

 その事実だけで、雑多な色彩の街並みが、懐かしいアルバムの一頁のように胸へ収まる。陸斗の記憶にないはずの景色なのに、心は穏やかに熱を帯び、彼女の残り香をひとつずつ拾い集めて歩く旅の始まりを告げていた。

 やがてタクシーは旧市街を抜け、整然と区画された住宅街へ差しかかる。冬枯れの並木道の奥、灰色コンクリートに紺のラインが凛として走る校門が見えた。プレートには『上海日本教育振興学院』の銀文字。夕陽を呑む鈍い光が、異国の中の“日本”を静かに主張する。

 翌朝訪れた学院は春節休暇で生徒の姿はなく、校庭には遠い街の喧噪だけが漂っていた。陸斗は門前に立ち、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。冷気が身体の奥まで届き、血の巡りを確かめるように脈打つ。

──ここに、天花は通っていた。

 その一文が胸で反響すると、鉄柵越しの校舎が、単なる建築物以上の存在感を帯びた。天花が駆け抜けた廊下、笑った中庭、俯いた図書室──想像の断片が静止画のように浮かび、無人の校内へ立体感を与える。

 門脇のインターホンを押すと、機械越しの日本語が応えた。事情を伝えると、校務のため出勤している教職員が応対すると言う。金属扉が軋んで開き、風がコートの裾をはためかせた。

 案内された職員棟は蛍光灯の白と書棚の埃っぽい匂いが東京の学校と瓜二つだったが、掲示物の日本語と中国語の併記が、この場所が“境界線上”にあることを思い出させた。窓の外には灰瓦の屋根の列と、高層マンションが層を成し、過去と未来が重なり合うようにそびえている。

 職員室の奥で、ひとりの女性が書類を抱えたまま立ち上がった。長い黒髪を低い位置で束ねたその人は、歩み寄るたびにヒールの音を控えめに響かせる。

「あなたが……民部陸斗君?」

 藤林麻子──天花のかつての担任。柔らかな笑みの下で、瞳だけが慎重な色を帯びていた。陸斗は深く頭を下げる。

「天花のことを知りたくて、ここに来ました。彼女がどんな生徒だったのかを、できるだけ……」

 藤林は一瞬だけ視線を泳がせたが、やがて小さく頷いた。

「……少し場所を変えましょう。あの子が好きだった席があるの」

 二人が向かったのは、陽の傾きかけた図書室だった。冬の日差しが斜めに射し込み、机の上に長い影が伸びる。窓際、隅の席──そこが天花のお気に入りだったと藤林は語る。

「静かだけれど、決して閉じこもる場所ではなかったのよ」

 藤林は懐かしむように目を細め、語り始めた。

 小学生の情操教育で飼われていたウサギの件──天花は中学生でありながら、一枚の当番表を自作し、小学生に交じってケージを掃除しはじめた。『命を軽んじないための最低限のスペースが必要です』と静かに訴えたその声は、怒りではなく願いだった。結果、学年も国籍も違う生徒たちが自然に列を成し、当番表は笑い声で埋まった。

 文化の違いで孤立した転校生の件──誰もが彼を“見えない存在”にしはじめたとき、体育の授業で意図的に転ばされた彼へ、天花は迷わず手を差し伸べた。『同じ人を傷つけて、何が楽しいの?』その問いは小さく、けれど抜け落ちていた痛点を突くには十分だった。クラスの空気が一拍止まり、誰もが自分の心の鏡を覗き込むように俯いた。

 林間学校での夜──食物アレルギーで倒れた生徒がいたとき、教師より早く異変に気づき、闇の中で道を迷わず助けを呼んだ。翌朝には『食物アレルギーの管理と社会の責任』と題したノートを開き、改善策を箇条書きにしていた。

──そして、文集のエッセイ。

『看護師になりたい。誰かの痛みを和らげることができたら、それが私の“存在理由”かもしれない。たとえ、その日が小さな一日であっても』

 コピー用紙に残るインクの匂いすら新鮮に感じるほど、その言葉は真っ直ぐだった。

「彼女には、人を動かす強さがあった。でも、それは“強制”じゃなく“共鳴”だったの」  藤林の声は、図書室の静寂に溶けるように穏やかだ。しかし最後の一節だけは、かすかに震えていた。


「紅華特務局に引き取られたとき、私は何もできなかった。今でも、それを悔やんでいるの……」

 陸斗は視線を落とし、拳をそっと握りしめた。ページの間から漂う紙の匂いに交じって、彼女の後悔が胸へ染み込んでくる。

 ──AIじゃない。あの子は、人間だった。

 新宿で交わした会話の欠片が、上海の夕光に重なってゆく。天花が語った言葉、笑ったときの小さな息遣い──それらは誰かが仕組んだプログラムではなく、痛みを抱いて世界へ伸ばされた一本の手だった。

 図書室の窓の外、夜の帳が下りはじめ、街の灯が遠くに瞬き始める。その光を見つめながら、陸斗は胸の奥で静かに誓った。

 天花の記憶を、人形のシナリオにすり替えさせはしない。誰かを救おうとした“人”の歩みを、鏡写しのように継いでみせる。

──だから、待っていてくれ。必ず真実を掴み取り、君の未来を“人間の手”で取り戻す。

 上海の残響は、いつか再会するその瞬間まで、胸の奥で静かに鳴り続けていた。

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