第37話 敗北の後で

 冬休みが明けた学園に、放課後のチャイムが鳴り響く。

 生徒たちは一斉に教室から飛び出し、カフェテリアへ、屋上へ、あるいは部活動の支度に向かって足早に廊下を渡っていく。薄く差し込む冬の陽光に照らされたガラス窓の向こうでは、グラウンドでサッカー部が掛け声を上げ、ベンチにはパンと牛乳を手にした生徒たちの笑い声が広がっていた。それは、まぎれもなく「日常」と呼ばれる光景だった。

 だが――。その日常の中に立ち尽くす琴葉と隼人、そして陸斗の姿は、どこか異質だった。彼らだけが、ひとつの時間軸からこぼれ落ちたような静けさに包まれていた。

「……なにも変わってないのね」琴葉がつぶやいたその声は、誰にも届かないほど小さかった。だが、隣に立つ隼人はそれを確かに受け止め、腕を組んで低く答える。

「変わってないどころか、そもそも何も“起きてない”みたいだ。横浜のホテル襲撃も、ニュースどころかSNSの小さな記事にも一切出てこない。俺なんか、ダミーのプロジェクトに付き合わされて、ただの往復だったしな……」

「まるで、最初から存在しなかったみたい」

 窓の外では、陽射しを浴びたユニフォームの背番号が飛び跳ねていた。歓声が上がり、笛の音が響く。それはきっと、何も知らない者たちにとって、清々しい青春の象徴だろう。だが、琴葉たちの眼には、その一つひとつが遠い世界の残像のようにしか見えなかった。「……怖いね」琴葉がぽつりとこぼす。

「……ああ」陸斗は短く応じた。

 EXODUSと特務局の間で交わされた密約。無音で施された“世界の書き換え”。それは、現実を呑み込んだまま、何もなかったことにしてしまうほどの力を持っていた。報道もない。警察も動かない。生徒たちは笑い、教師たちは授業の準備を進めている。唯一、違ってしまったのは、自分たちだけだった。

 琴葉たちとの会話を終えた陸斗は、生徒会室にも寄らず自室に戻った。カーテンを閉め切った部屋の中。灯りもつけず、彼はベッドの端に座り、頭を垂れたまま、あの夜の記憶を何度も巻き戻していた。

――天花の、あの声。陸斗、陸斗、と呼んだ彼女の震える声音が、今も耳の奥で反響している。

 嘘だったのか。それとも本心だったのか。その問いは、何度反芻しても答えが出なかった。天花は特務局の手で作られ、スパイとして“仕組まれた存在”だった。けれど、彼女の目は、声は、震えは――人間そのものだった。


 そんなある日の昼休み、琴葉がふいに思い出したような話題を切り出す。

「ねえ、陸斗。アラン・チューリングって知ってる?」問いかけに、陸斗は首を傾げた。

「AIの父って呼ばれてる人だよね。暗号解読の……」

「そう。その彼が提唱した“チューリング・テスト”っていうのがあるの。AIが人間らしい会話をして、それを聞いた第三者が『これは人間と話している』と思えば、そのAIは“知性を持っている”と見なされる。言葉の中身より“そう感じさせるかどうか”が鍵なの」

 琴葉は、まるで昔話のように淡々と語ったが、その瞳の奥には、確かな問いが宿っていた。

「もし、天花がチューリング・テストを受けたら……」言いかけて、琴葉は唇を引き結ぶ。  陸斗も言葉を飲み込み、少し間をおいて答えた。

「……きっと、通ると思う。俺たちの誰よりも、あの夜の天花は“人間らしかった”」

「でも、テストに通るってことは、それで“人間”と認定されるってことよね?」

「うん……ただ、“人間らしい”ってだけで、心があるとは限らないんだよな」

「皮肉だよね。本当に心があるかじゃなく、“そう見えるか”で判断されるなんて」

 二人はしばし黙った。

「……ねえ陸斗、シンギュラリティが来るより前に、人間にAIが組み込まれる時代が来る気がする。どっちが先に来るのかな」

「俺も、それ考えた。でも……どっちも怖いよな。AIが感情を持つのも、人間が機械になるのも」

「うん。どちらも“心”が置き去りにされる気がして」

 その言葉が、妙に重く響いた。

「もし天花が、あの夜の涙や声を“演じて”いただけだとしても……それを俺が信じたなら、それはもう“本物”なんだと思う」

「“信じる”って、AIにはできない行為かもしれないね」

「……でも、俺は信じたい。あの天花を。あの夜、震えていた彼女を」

 陸斗は、あの夜の天花の震え、涙、叫び声、すがるような手の動きを何度も思い返す。それらは、AIが記録から抽出したデータではなかった。もっと未整理で、未完成で、だからこそ“人間らしい”。

 そして、また自問する。

――チューリングテストを行う“審判役”には、人間の感受性があるのだろうか。

 相手の心を見抜く力を、人間自身が持っているのだろうか。

 禅問答のような思考に迷い込みながらも、陸斗は最後にたったひとつの結論だけを掴んだ。

「天花は――嘘をついてなかった」

 彼女はスパイだったかもしれない。だが、あの夜の瞬間は、“彼女”だった。誰の命令でもなく、誰のアルゴリズムでもなく、ただ――彼女自身だったのだと。

 それを信じることが、いま自分にできる、唯一の希望だった。

「なら、俺が確かめ証明するしかない」

 陸斗は、机の上に置かれた古びたノートを手に取った。表紙の端はわずかに擦り切れ、中には、夏休みの終わりに天花が残していった走り書きがあった。ページの隅に丸めて描かれた落書き、クセのある筆跡、何気ない語尾の揺らぎ――それらは、確かに“彼女自身”が存在していた証に思えた。

 天花は、かつて上海の学校に通っていたという。ならば、そこへ行けば、彼女の過去の足跡が見つかるかもしれない。彼女が何を見て、何を思い、どんなふうに過ごしてきたのか――知ることができれば、彼はもっと彼女の“本当”に近づける気がした。

「俺は……行くべきだ」その思いは、もはや一時の衝動ではなく、胸の奥底に沈み込んだ確信となっていた。


「上海に行きたいんだ」夕食の席、湯気の立つ味噌汁と焼き魚の香りに包まれながら、陸斗は静かに切り出した。

 一瞬、箸の動きが止まる。父が箸を置き、母はやわらかい表情のまま少しだけ目を見開いた。年の離れた兄が水を飲みかけた手を止め、食卓に沈黙が広がる。

「……ふざけて言ってるわけじゃ、ないよな?」と、父。

 その口調に怒気はなかった。低く穏やかながら、真意を見極めようとする眼差しが、じっと陸斗に注がれていた。

「うん。本気だよ。俺は……行かなきゃいけないと思ってる」

「何のために?」

 問いは端的だった。

「天花のことを、確かめたい。彼女の過去を、自分の目で見たいんだ」

 その名前を出した瞬間、母の眉がわずかに動いた。

「天花ちゃんって……この前まで、よく話に出ていた……」

「でも……もう会えない子なんでしょ?」母の声は、どこか不安げだった。

 陸斗はゆっくり首を振った。

「まだ終わってないと思ってる。彼女がどうだったのか、何を考えていたのか、俺には知る責任があると思うんだ」

 兄が、箸で小鉢の豆をつつきながら口を開いた。

「……危なくないか? 一人で行って、何が起きても……」

「大丈夫だよ。無茶はしない。でも、行かずに後悔するのは嫌なんだ」

 父は黙って陸斗を見つめていた。その目には、感情を読み取るのが難しいほどの静けさが宿っていた。そして、ゆっくりと口を開く。

「……分かった。ただし、条件がある」

「条件?」

「帰ってきたら、学校にきちんと戻ること。……それが飲めないなら許さない」

 思わぬ返答に、陸斗は目を見開いた。否定される覚悟をしていたのだ。

「お前が行きたいと思うなら、それは止めない。でもな、どれだけ“今”を大切に思っても、帰ってくる場所まで捨ててはいけない。……分かるな?」

 父の声は、厳しくもあたたかかった。母がその言葉にそっと頷き、兄は苦笑しながら肩をすくめた。

「ま、どうせ行くって言ったら止まらないだろ、こいつは。昔からそうだ」

 母は柔らかな声で添えた。

「あなたが行きたいなら、私たちは信じて待ってる。ただ、無理はしないでね。ちゃんと帰ってくるって約束して」

 陸斗は、一度ぎゅっと唇を噛みしめ、うなずいた。

「……ありがとう。絶対、無事に帰ってくる」

 その夜、陸斗の部屋には再び静寂が戻ってきた。けれど、その静けさは、もう恐れでも迷いでもなかった。行くべき道は、確かに見えていた。

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