第32話 横浜
ビルの谷間をすり抜ける風は、冬の匂いを含んでいた。東京の街は年の瀬の喧騒にきらめきながらも、光の下にはどこか言葉にできない緊張が潜んでいるようだった。学園では期末試験が終わり、生徒たちは冬休みの計画を語り合っていたが、民部陸斗の歩みだけは浮かれた空気から浮いていた。足取りが沈んでいるのは、ただ疲れているせいではない……そう、自分に言い聞かせながら、彼は放課後の生徒会室へと向かっていた。
「……ちょっと、二人だけで話せる?」
桜井琴葉の声は静かで、曇りがなかった。隼人と翔平をやんわりと部屋の外へ促すと、琴葉は扉を閉め、スマホを手にしたまま言った。
「EXODUSから連絡が来た。……天花ちゃんが横浜に移されるかもしれないって」
その瞬間、陸斗の中で何かが軋んだ。
「横浜……移送って、それは……」
「“一時的な拘留”という名目らしい。榊原さんの見立てでは、相手も何か仕掛けてきてる。でも……逆に言えば、次の一手を打てるタイミングかもしれないって」
琴葉の声には抑えた緊迫感があった。氷のように冷たく、しかし焦りを押し殺す強さが宿っている。陸斗は、その声の奥に伏せられた何かに気づいていたが、問いただすことはしなかった。
「行くよ。……天花ちゃんのところへ」
「隼人くんと翔平くんには、詳細は伏せる。今回の作戦は情報統制が鍵になる。……信頼してないわけじゃない。ただ、それぞれの役割があるってこと」
陸斗は頷いた。胸の奥に、再び“線”が引かれる感覚があった。かつて仲間と信じた相手と、立つ場所が少しずつ違っていく。その事実に、言葉にはならない痛みがあった。
その夜、EXODUSの地下作戦室。鉄と光に閉ざされた無機質な空間に、榊原の落ち着いた声が響いた。
「特務局は政府の黙認を背景に、独自の行動を拡大してきた。今回の移送情報は、恐らくは陽動だ。だが、彼らが焦っているのも事実だ。こちらも仕掛けるなら、今がその時だ」
緻密な線が張り巡らされた地図の上に、静かに視線が集まる。目標は“インペリアルベイホテル”。港湾部にそびえる高層施設、その深夜2時。警備交代の隙を突く。
「君たちは替え玉を使って別行動をとる。家族への連絡も遮断した。申し訳ないが、偽装にはそれが必要だ。翔平と隼人には偽の任務を伝えた。……彼らが合流する車両は、陽動のための“囮”だ」
榊原の口調は平坦だったが、その裏に、何かを削りながら指揮を執っているような重さがあった。陸斗の胸に、静かな鼓動が打ち始めていた。
そのまま、指定の倉庫へと移動。薄暗い空間の中に設けられた金属製のシャワーブースに、榊原が無言で手を差し伸べる。
「ここで全身を洗浄してもらう。端末は破棄済みだが、体内に残るナノセンサーやVOCs発生体を除去する必要がある。髪の先、爪の裏まで、痕跡を消し、偽装するんだ」
スイッチを入れると、LEDが静かに灯り、蒸気の白が立ち昇る。金属の匂いと水音が混じり合うその空間は、どこか儀式めいていて、ただの準備とは思えなかった。陸斗と琴葉は、無言のままブースに入り、髪を濡らし、指先を擦る。その一動作ごとに、今の自分が“別の何か”へと変わっていく気がした。
洗浄を終えた二人は無言のまま倉庫を出て、待機していたワンボックスカーへ向かう。冷たい風が頬を撫でる中、琴葉の横顔は凛と冴え、どこか触れてはいけないような孤高を湛えていた。その表情には、これまで見たことのない“強さ”があった。
スライドドアが開くと、車内にはすでに二人の先発メンバーがいた。
一人は長身で、黒いジャケットの袖を丁寧に直している男――羽柴。必要最小限しか存在を主張しないナイフのような静けさをまとい、その目には、ただ鋭いだけでなく、経験から影を抱えた者の雰囲気が揺れていた。作戦待機中も周囲の気配を絶やさず察知し、時折指で眉間を押さえる癖があった。
もう一人は、ショートカットで細身の女性――常盤。機械めいた正確さを思わせる所作と、感情の揺らぎを見せない冷静さがあった。タブレット端末を指先で滑らせるその動きには、計算された緻密さと、粘り強い集中力を保っているような気配があった。言葉少なだが論理的で、皮肉を交えることもある。彼女にとって感情は、作戦遂行のノイズでしかないのかもしれない。
琴葉もまた、どこか別の時間を生きているように感じられた。だが陸斗は、この場所に身を置く自分が、確信犯であると感じていた。もう、ただの高校生ではない。
「ホテルの警備は交代制。深夜二時、ちょうど交代直後……そこに、穴がある」
羽柴が手元のタブレットを見ながら低く呟く。その声には、冷静というよりも慎重さがあった。彼は経験から知っている。隙を突くということは、同時に“突かせる罠”である可能性も孕むことを。
「突入から撤収まで長くて5分、目標は3分だ。そこで仕留めきれなければ……」
「即時中断、全員撤収」榊原が淡々と答える。
「敵の増援到着までに、10分も余裕はないが、それでも全作戦期間を通じて、こんな余裕のあるチャンスはそうそうない。我々が針先から餌をかすめ取るのは、この一瞬だけだ……」
重く、だが明晰な指令が空気に落ちる。まもなく囮のリムジンが音もなく出発。入れ替わりに、榊原の運転するワンボックスがゆっくりと動き出した。
夜の街は白い息とイルミネーションに彩られていた。道路沿いの樹木が宝石のように輝き、通行人たちは笑い合いながら歩いていく。だがその裏で、ひとつの作戦が、静かに幕を開けようとしていた。
陸斗は窓の外をぼんやりと眺めていた。自分が今どこにいるのかを確かめるように、呼吸を整える。隣の琴葉もまた、組んだ指をほどかず、沈黙を守っている。
やがて車は高架下へと滑り込み、光を失ったトンネルのような道へと入った。その闇の中で、陸斗の中の何かが確かに、変わり始めていた。
午前一時半を過ぎた頃、ワンボックスは横浜沿岸部の外れに到着した。深夜の湾岸道路は不自然なほど静かで、倉庫街とオフィスビルが織りなす灰色の迷路の中を、車は迷いなく滑るように進んでいく。
やがて、古びたビジネスビルの地下駐車場へと潜り込み、コンクリートに閉ざされた静寂の空間に身を隠した。湿った空気と油の匂いが鼻腔をくすぐり、わずかに排気音がこだまする。
榊原がエンジンを切ると、車内に立ち込めていた緊張感が、今度は音のない圧力となって乗員たちの背中にのしかかった。常盤が手早く降車し、腕の小型タブレットを起動。彼女の手元には、夜景を模した“時計仕掛けの地図”が立ち上がり、無数の点滅が連なっていく。
「……敵の巡回は今、反対側のブロックに集中してる。こちらのラインは盲点ね」
淡々とした口調が、停滞する空気を切り裂いた。羽柴が短くうなずき、後部座席から身を起こす。
「じゃあ、ここで最終確認だ」
四人が車の影に集まり、自然と肩を寄せた。駐車場の空気は生ぬるく、金属の微かな軋みが地下に響いていた。
「午前二時、警備交代と同時に動く。常盤と桜井がフロントと監視カメラを制圧。羽柴はエレベーター制御を。私は民部とともに513号室へ突入する」
「警備は二人、交代の一分間が唯一の突破口。無音で済ませる。遅れれば終了だ」 榊原の声は冷静で、だが張り詰めていた。
「……陸斗、突入中は一切声を出すな。天花に接触できるのは最終段階。まずは目視で確認し、回収へ移行。説得に使える時間は、最大30秒だ」
陸斗は唇を噛み、深くうなずいた。胸の奥で、鼓動がいつもと違うリズムを刻んでいるのがわかる。琴葉がその横顔をちらと見たが、何も言わなかった。
「天花がそこにいる保証はない。特務局が情報を逆流させ、こちらを誘き寄せている可能性もある。想定外と判断したら、即時撤収だ」
榊原の言葉を引き取るように、羽柴が低く告げる。
「これは……俺たちが、未来に何を信じるかという“問い”なんだ」
常盤が最後に一言、「感情は……後でいい」と呟き、タブレットの画面を閉じる。
誰も言葉を継がなかった。だが、それぞれの覚悟は、言葉を超えて結ばれていた。
その瞬間、古びたシャッターの向こうで風が鳴った。夜の潮風がわずかに鉄の匂いを運び、倉庫街の彼方から微かな汽笛が響いてくる。
無数の街灯が消えた夜の海辺。どこまでも透明な冷気の中、影のように現れるインペリアルベイホテルの黒い輪郭。その奥に、あの少女――神崎天花が、いるかもしれない。
保証はない。だが、進むほかにない。
陸斗は無言で拳を握った。その感覚が、かつての自分と断絶した“今の自分”を確かめるための唯一の手がかりのように思えた。
その隣に、琴葉が立っていた。羽柴の動きが後方をカバーし、常盤の視線が周囲を走る。 すべてが静かに動き出す。
深夜の横浜。音もなく、運命の扉が、いま開かれようとしていた――。
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