第33話 ひとときの再会
無数の街灯が消えた夜の海辺。どこまでも透明な冷気の中、影のように現れるインペリアルベイホテルの黒い輪郭。その奥に、あの少女――神崎天花が、いるかもしれない。
深夜の横浜。音もなく、運命の扉が、いま開かれようとしていた――。
午前、二時。エントランスの奥で、常盤の指先が微かに動く。催眠ガスが撒かれ、コンシェルジュの体が音もなく倒れる。琴葉がそれを支え、音を立てず床に寝かせた。
常盤のノートPCには、監視カメラの映像が流れ、死角を突いた侵入経路が可視化されている。
「カメラ、抑えた。通路の制御も完了」
常盤の声が通信に乗って響く。その向こう、エレベーターの扉が静かに開いた。
民部陸斗、榊原、羽柴の三人が、影のように廊下へと踏み出す。人工大理石の床が靴音を吸収し、淡い照明が彼らの足元をわずかに照らしていた。
「異常なし。カメラも停止中」
羽柴の報告が短く走る。榊原が手にした紙の地図を開いた。
「突き当たり左、513号室だ」
陸斗の胸が波打つ。目の前の廊下は、まるで深海のように沈黙していた。
ドアの前で、羽柴が鍵を確認する。
「電子キーと指紋認証……解除されたな」
タイミングよく、乾いた音が鳴る。“カチッ”
榊原が無言で頷き、ドアに手をかけた。
ゆっくりと開かれていくその先に、光の届かない静寂が広がっていた。
カーテンは閉じられ、月光だけが薄く床に線を引く。中には、空気の流れさえ止まったような重さが満ちていた。
デスクの上にはコードと資料。壁には監視用のモニター。シングルベッドの上に横たわる、ひとつの影。
榊原が照明を上げると、淡い光が彼女の姿を照らし出す。
天花!
陸斗は、胸の奥でその名前を呼ぶ。
彼女の髪は乱れ、頬はこけていた。だが、肩にかけられた色褪せたワンピースは、かつての思い出の中の彼女を呼び起こさせるものだった。
そして、天花がわずかに寝返りを打ち、眩し気に目を開けた。
「……嘘……? 陸……斗?」
かすれた声。その瞬間、陸斗の身体は自然と前へと動いていた。
「天花……! 本当に、君なのか……」
天花の目が潤む。
「夢じゃ……ない……?」
ふらつく体を、陸斗が支える。骨ばった肩。かすかに感じる体温。
「俺だ。……遅くなって、ごめん……」
天花は戸惑いながらも、彼の胸に顔を埋め、小さな手でシャツを掴んだ。その指先が、小さく震えている。それでも――彼を信じている。その温もりにすがるように。
それが、今の彼女のすべてだった。
「……あと十五秒。撤収準備を」
羽柴の低い声が廊下から届き、空気が再び現実に引き戻される。
「立てるか、天花? 一緒に、出よう」
天花は小さく頷き、震える足取りで立ち上がる。ワンピースの裾を引き上げて身を整えた彼女の姿は、この数か月に渡る“扱われ方”の残酷さをそのまま語っていた。布地の擦れ、ほつれたボタン、すべてが証拠だった。
榊原がドアの隙間から廊下を確認する。
「羽柴、敵は――?」
「……まだいない……いや、待て、角に――!」
言葉が終わる前に、衝突音が響いた。
「バンッ!」エレベーターホールの角から、紅華特務局の警備員が飛び出す。血走った目で非常ボタンに向かって突進していた。
「チッ……!」羽柴が間合いを詰め、男に体当たりを食らわせた。壁際で揉み合いになるが、男の指先は赤いボタンに届いていた。
「――緊急アラート発動。緊急アラート発動――」
無機質な女声が空間に響く。同時に、天井の赤色灯が一斉に点滅を始め、サイレンが鳴り響いた。静寂だった廊下が一転して戦場のような緊張に包まれる。
陸斗は天花の手を強く握った。彼女の指先は冷たく震えていたが、しっかりと陸斗の手を握り返していた。
“再会”は果たされた。だが、ここからが本当の奪還戦だった。
「こいつは無力化した。だが、外から増援が来るぞ」
羽柴が警備員を自動結束バンドで拘束しながら声を発する。
「天花を連れて急ぐ!」
陸斗が彼女の腰を支え、ふらつく足元を引き寄せて廊下へ飛び出す。天花の指がかすかに陸斗の服を握りしめていた。
廊下は赤く染まり、非常口のインジケーターが明滅し続ける。低く唸るような警報音が鼓膜を揺らし、空調が非常モードに切り替わったのか、生暖かい風が湿った金属の匂いを伴って流れ込んでくる。
「陸斗! こっち!」
遠くから琴葉の声が響く。制御盤の前で常盤と並び、ホログラムが浮かび上がる端末を操作していた。
「緊急ロックがかかった。自動ドアも非常口も閉じられた……でも、あと少しで解除できる!」
「あと二十秒あれば足りるか!?」
榊原が問いかけると、琴葉は強張った表情のまま応じる。「やってみる……!」
琴葉の指が震えながらも、正確なリズムでキーボードを叩く。常盤が補助装置をかざし、EXODUS特製のツールがホログラムの中でセキュリティコードの列を書き換えていく。
「非常モード下では通常のプロトコルは通用しない。多層認証に切り替わってる」
常盤が小声で解説する。だが、その背後、窓の外からちらつくライトが忍び寄っていた。ヘッドライトの光が壁に揺れ、複数の車両がホテルを包囲する様が浮かび上がる。
「もう来たか……いや、多すぎる」
榊原が息を呑んだ。
陸斗は天花を一瞬強く抱きしめた。彼女の体温がそこにある。それが、再び奪われるかもしれないという恐怖が、胸を締めつける。
「第1ゲートロック解除成功!」常盤の声が弾けた。
「羽柴、あとは任せる!」
羽柴が頷き、小型火炎放射器のピンを引き抜く。強化ガラスに火炎を当てた後、冷却剤とハンマーで叩き割る。爆音とともに破片が宙に舞い、開いた裂け目の向こうに逃走経路が現れる。
「走れっ!!」
常盤が叫び、榊原が陸斗の背を押す。陸斗は天花を抱えて走り出す。その後方で、琴葉が制御盤をハッキング状態からロックへ切り替え、走り出した。
階段を駆け降りる足音がコンクリートに反響する。1階まで、あと十段――。
「……来た……」
榊原の声と同時に、階下の非常ドアが勢いよく開いた。
黒服の男たちが、武器を構えてなだれ込む。
スタンガン、短銃、統率の取れた動き。明らかに警備員ではない。
「……あれは特務局の戦闘班……」
羽柴の声が低く唸る。十名以上。しかも、幹部クラスらしき者まで。
「……幹部自ら待ち伏せとは。完全に読まれてた?……」
榊原が呟いた。
「情報漏れか……誰が……?」
だが、誰も何も口に出せなかった。
誰も倒れてはいない。天花はここにいる。
「……抜け道がある。だが、一瞬の突破が必要だ」
羽柴がスモーク弾を取り出す。
「やるしかないな……!」
陸斗は天花を支え直し、琴葉も構えを整える。
羽柴が静かにスモーク弾の引き金へと指を伸ばした――その瞬間、戦場が凍りついた。
「やめといた方がいい。――そんな煙幕、ここの部隊には通用しないよ」
それは、信じがたいほど聞き慣れた声だった。
低く、張り詰めた空気の中に落とされたその声に、陸斗の体は反射的に硬直する。
振り返るまでもなく、誰のものかは分かっていた。だが、その現実を、心が拒んでいた。
「……翔平……!」
その名を呼んだ瞬間、何かが音を立てて崩れるようだった。
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