第109話:再生
――世界が燃えていた。
瓦礫と油と尿の臭いが、肺の奥まで染み込んでいる。
市外第十二区、通称:《廃棄区画》。
移民ですらない。人間の数にも入らず、統計にも記録にも残らない、棄てられた人間たちの吹き溜まり。
彼はそこで生まれた。いや、棄てられた。
――何も持っていなかった。
ちぎれた靴の片方と、手に入れた錆びた缶。
握ることしかできないそれを、食うでもなく舐めるでもなく、ただ肌の熱で温めていた。
トタンの間から差し込む日光は熱く、皮膚を焼いた。だがその熱がなければ、夜は死んでいた。
親などいなかった。いたのかもしれないが、飢えと寒さに負けてとっくに死んでいたのか、それとも最初から一人だったのか、その差すら思い出せなかった。
名前を呼ばれたこともなければ、返事をしたこともなかった。言葉を覚えるより先に、物盗りを覚えた。
震える手で袋を奪い、保存食を引き抜き、死体の服を剥ぎ、残飯の中で生肉と腐肉を嗅ぎ分けた。
それが日常だった。
ある日、空が落ちてきた。
音もなく、先に空気が歪んだ。
高く飛ぶ鳥のように、黒い影が空を裂き、落ちた。
灰色の巨躯。重々しい金属の体が回転しながら、音速で降下する――それは、ドローン兵器だった。
戦闘か、事故か、それとも標的がこの区画だったのか――幼い彼に分かるはずもない。ただ、何かが空から落ちてきたという記憶だけが、焼け焦げた皮膚の中に染み込んでいた。
爆音と共に、世界が燃えた。
廃棄区画の中央に、白熱の柱が突き刺さる。火と爆風。
彼はただ立ちすくみ、焼ける空気の中で嗅覚を失った。トタンが飛び、瓦礫が崩れ、骨と肉が弾けた。
逃げる者も、叫ぶ者も、みな死んでいった。
幼い彼は、ドラム缶の影に滑り込んだ。
口を塞ぎ、息を殺し、死んだふりをした。
煙が肺を焦がし、目が潰れそうになった。咳をこらえ、頭を抱えて身を縮めた。
助けを求めたことはなかった。
なぜなら――自分が死ぬことを、誰も悲しまないと知っていたからだ。
どれほど時間が経っただろう。
炎がやみ、風が吹いた。焼けた肉の臭いが、風に乗って運ばれてきた。
そのときだった。外から、重い足音が近づいた。
――誰かが来る。
軍人のような装備。迷彩服、防火マスク、装甲ブーツ。
けれど、どこか違っていた。白いラインが入った奇妙なジャケット。
肩には見慣れないマーク。銃は携えていたが、戦う者の目ではなかった。
彼は恐怖で動けなかった。
目が合った。マスク越しのその瞳に、彼は死を見た。
だが――銃声は鳴らなかった。
「……生きてるぞ」
無機質な声だった。乾いた空気を割るような、無感情な報告。言葉の意味も分からなかった。
次の瞬間、熱い腕が伸び、彼の手首を掴んだ。
焼けた皮膚が剥がれるように痛んだ。
声を上げたかったが、喉が潰れていた。
それでも彼は、生まれて初めて「自分に触れた他人」のぬくもりを感じた。
それが、救いだったのか――処分のためだったのか、分からなかった。
*
何処に連れていかれたか、今でも知らない。
施設は無機質で、灰色で、無言だった。
名前を訊かれたが答えられなかった。言葉が出てこなかった。
白衣を着た人間たちは何かを話していたが、意味は分からなかった。
身体中にセンサーを貼られ、無数のデータを取られ、何かの選別が行われていた。
気づいた時には、番号を与えられていた。
「識別番号D-02」
名前は、最初から奪われていた。
その代わりに与えられたのは、数字と、規律と、痛み。
「D-02。起立」
「D-02。応答」
「D-02。殺せ」
呼ばれるたび、何かを失っていった。
最初は「誰かの名」を思い出せていた気がする。どこかで聞いた声も、あったはずだ。
だが、数字で命じられ、数字で応じる日々の中で、それらは徐々に削ぎ落とされた。
水は許可がなければ飲めなかった。
食事は完遂の後に、投げつけられる残飯。
走る、這う、潜る、そして殴られる――すべては耐えた者から順に、生き残る。
腕立て伏せ千回、声が枯れるまで号令を繰り返し、眠れば殴られ、逆らえば指が折られる。
他人の痛みは、笑って見ろと命じられた。
味方の死体は、踏み越えて進めと教えられた。
「おまえらは、殺す道具だ」
そう言った教官の顔を、彼は今でも忘れていない。
歯が全部金属だった。
銃声の中でもカチカチ響く、異様な音。深夜、遠くで鳴るその音に怯え、眠れぬ夜が幾度もあった。
仲間が死んだ。
自殺した者もいた。
脱走して射殺された者は、鎖で逆さ吊りにされ、基地中央に晒された。
腐った匂いが鼻腔に染みつき、誰もが嗚咽したが、誰一人、泣くことは許されなかった。
D-02は、生き延びた。
なぜかは分からなかった。
ただ、死ぬのは許されていないと、本能が叫んでいた。
そのうち、他より動けることに気づいた。
殺す時、躊躇がない。
指示を覚えるのが早い。
罵倒されても瞬き一つせず、殴られても喉を鳴らすだけで、悲鳴をあげない。
だから残った。
「おまえは、素材がいい」
それが褒め言葉だと、知った。
それ以降、D-02は選ばれる側になった。
新しい訓練、戦闘の実地配属、夜襲任務。
殺せば褒美が出た。
殺し損ねれば、誰かが死んだ。
そうしてD-02は、数ある番号付きの兵童の中で最も冷たく、最も汚れ、最も忠実な殺す道具として完成された。
その頃には、誰も彼を人間と呼ばなかった。
──それでも。
あの時、火の中から自分を引きずり出した誰かの腕だけは、どこかで焼き付いていた。
その人間が誰かなど、思い出せない。
見上げても、顔は影になって見えなかった。
言葉も、聞こえなかった。
けれど、その腕は、確かに自分を拾い上げた。
瓦礫の山から。
死体の中から。
燃えさしの屑ではなく、生きているものとして。
それは救助ではなかった。
運命でも、奇跡でもない。
――あれは、回収だった。
それが、医療部隊だったのかどうかなど、今も知らない。
それでも。
その腕の熱は、いまだに忘れられない。
幻だったとしてもいい。
罠でもいい。
命令でも、実験でも。
あの瞬間、誰かの腕がなければ、自分は死体のままだった。
それを思い出すと、心臓の奥が、奇妙に疼いた。
名を知らぬ誰かの、あの腕だけが、いまの自分を繋ぎ止めている気がする。
だから、D-02は戦場で遅れた仲間を拾いに行った。
「撤退ルート確保。北東の瓦礫帯に敵機――」
「おい、待てD-02! てめぇ、なんで戻る! 命令違反だ!」
命令違反だと分かっていた。
評価が下がると分かっていた。
それでも足が動いた。
あの時の熱い腕の記憶が、無意識に彼を動かした。
だが、待っていたのは上層部からの「自己判断による行動違反」の処罰、そして仲間からの私刑だった。
それからだ。
世界の音が、一層遠くなったのは。
人は彼を「死神」と呼ぶようになった。
自分の命は常に無視され、命令通りの殺戮だけを繰り返した。
誰かを救えば否定され、黙って従えば使い潰される。
どちらに転んでも「人間」にはなれなかった。
*
――その日も、誰かが来た。
見えない熱が地面を焼いている。
瓦礫、硝煙、血の臭い、飛び交う声。
耳鳴りのように、誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。
けれど、少年にはそれが誰の名か、わからなかった。
胸が焦げている。
腹が空っぽで、手だけが熱い。
細い掌に握られていたのは、刃。
泥に汚れた刃渡り十センチのナイフ。
それだけが、命をつなぐ道具だった。
瓦礫の山の陰で、少年は伏せていた。
死体のふりをして。
呼吸を殺し、瞼を閉じ、骨を軋ませながら待っていた。
足音が近づく。
軽い――小さな、女の足音だ。
迷いのない、まっすぐな足取りだった。
息遣いがすぐそばに来る。
しゃがむ気配。
――今だ。
ドスッ
振り下ろしたナイフの感触に、掌から肘まで痺れた。
刃は、柔らかな腹に沈んだ。
温かい血が噴き出した。
けれど、少年は見なかった。
誰を刺したのかも、何を奪ったのかも、理解していなかった。
女が呻く。
刃の柄を掴んで、抜かれまいと抵抗する。
けれど少年の腕は細く、力もない。
返り血が目に入って、よく見えなかった。
歯を食いしばって、さらに刃を押し込もうと――
「……そんな緊張すんなよ」
息が荒く、鼓動が耳を打つ。
その時、女が笑った。
――笑った、のだ。
「初めてでも……私が教えるんだから、上手くいくって……」
血に濡れた唇が、震えながらも笑みの形を作っている。
目は、真っ直ぐに少年を見ていた。
恐怖でも怒りでもなく、何か別のもの――挑発にも似た光。
「……なぁ」
吐息混じりの声が、少年の耳に届いた。
血が滴り、声が掠れている。
「エデン……」
その瞬間、少年の目が見開かれた。
ナイフを握る手が止まる。
胸が凍る。
誰だ、何を呼んだ、なぜその名前を知っている。
「殺せるんなら……」
唇が動くたびに、血が溢れる。
それでも笑っていた。
「助けるくらい……できるようになれよな」
その声が胸の奥を抉った。
刃が重くなり、手が震えた。
目の奥が軋み、喉が痛い。
――なぜ“エデン”と呼ぶ。
――俺はそんな名前、持っていない。
――俺は、番号しか……。
血の匂いの中で、少年は動けなくなった。
ただ、その女の目と声だけが焼き付いた。
*
白いシーツの上。痙攣のように指がわずかに動き、口元が呼吸器に押しつけられながら、微かに開いた。
「…………ば……る」
誰に?
何を?
その声は、誰を呼んでいる?
白い天井の下で、彼のまぶたが、ほんの僅かに――震えた。
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