第107話:回帰
処置室の床に、血のように沈んだ影がひとつ。
椅子にもたどり着けず、背を壁にもたれかけることもできず、白衣の袖をまくりあげたまま、ハンニバルはただ膝を抱いていた。
メスを持った手はまだ洗っておらず、グローブも取れていない。
うずくまる彼女の呼吸は浅く、だが早くはなかった。
感情の波も、震えも、叫びもなく――
ただ、全てを終えた肉体だけが、戦場からの帰還を果たしていた。
その隣に、しゃがみ込んだ影がある。
「……お疲れさん、少佐」
ミロクだった。
グレーの作業服に白衣を羽織った看護兵長。
看護兵たちから“親父”と呼ばれるこの男は、二十年以上の従軍歴を持ち、医療部隊の現場を知り尽くした存在。
年齢は五十を超えるが、立ち居振る舞いは重くも軽くもなく、必要な時に必要な言葉を選べる、数少ない戦地の大人だった。
彼は無言のまま、ポケットから古びたタオル地の布を取り出し、膝の上に置いたままのハンニバルの手元へ、そっと差し出した。
「手ェ、洗う前に、これで拭いときな。乾く前が楽だ」
反応は遅かった。
数秒してから、ハンニバルはようやく自分の手を見下ろし、そこで初めて、血が付いていることに気づいたように眉根を寄せる。
「……エデンの、血……」
掠れた呟き。
その音を、ミロクはゆっくりと受け止めるように頷いた。
「おう。お前の手に残ったもん全部、命の中身だ」
だが、ハンニバルの手は拭けなかった。
肩も、指も、固まりきった筋肉が言うことを聞かない。
動かし方を忘れた戦う者の姿が、そこにあった。
「……自分でやれる」
ようやく吐いた言葉。
だが、ミロクは聞くそばからその手を取った。
強くはない。だが確かに、体温のある掌で、彼女の手を包み込む。
そして指の間を丁寧に拭き始めた。
「今は、やらんでもいい。やらなきゃなんねぇ時がまた来る。そのときに、また動かしゃいいんだ」
彼の声には、怒りも慰めもなかった。
あるのはただ、経験だけ。
崩れ落ちる背中を、何度も、何十回も、見てきた者の視線だった。
「……さっき、止められたろ。大佐に」
ふと話題を変えるように言ったミロクに、ハンニバルはかすかに首を動かす。
「あれ、正解だったな」
「……何が」
「――俺たちの部隊には、“地獄の医官”と“空の指揮官”がいる」
その言葉に、ハンニバルは顔を上げた。
ミロクは片眉をあげて、ニヤリと笑った。
「地獄を闊歩する医者と、空から見下ろす指揮官。どっちも桁外れだ。けどな、俺たちが支えるのは、そのとんでもねぇ位置に立ってる奴らじゃねぇ。その下で息してる命と、そこに向けて手を伸ばす、お前自身だ」
指先が、かすかに震える。
ハンニバルは、何も返さなかった。
だが彼女の掌にあった冷たさは、ほんの少しだけ、温もりへと傾いていった。
ミロクは手拭きを脇に置き、立ち上がる。
棚から常温のスポーツドリンクを一本抜き取り、何も言わずに、彼女の足元に置いた。
「少佐。少佐は
「ミロク……」
「命を拾うハンニバルが、命削ってたら、本末転倒だ」
背を向けて出ていく男の足取りは、やはり戦場のそれだった。
一歩一歩が、体重と経験に裏打ちされている。
扉が閉まり、静寂が戻る。
ハンニバルは、ようやく、壁に背を預けた。
呼吸を整え、膝を立て、手を見下ろす。
足元のドリンクを拾い上げると、キャップを開けて、
わずかに口を湿らせる。
その表面に――ミロクの体温が、まだ、残っていた。
*
処置室の天井が、やけに遠かった。
蛍光灯の光は冷たく、むしろ薄暗さを際立たせていた。
機械音すらしない。点滴の滴る音も、心電図の律動もない。
ただ、戦地から戻ったひとつの身体が、無音の空間で孤独に包まれていた。
壁にもたれたまま、ハンニバルはしばらく動かなかった。
腕の中に残る、エデンの体温。
血の湿り気。
摘出した爆薬の感触――指先に沈むような、命ではない質量の記憶。
その全てがまだ、彼女の内側で「現在」を終わらせていなかった。
カチリ。
指先でドリンクのキャップを閉める。
それだけの動作にも、数十秒かかった。
ミロクが置いていったボトルは、すでに常温よりも温かくなっていた。
彼の手の温もりが残っていたのか、それとも、自分の掌がようやく熱を帯びはじめたのか。
どちらかは分からない。
――もう、戦場ではない。
それは分かっている。
だが、まだ抜けていなかった。
あの爆薬の形状、臓器の圧、感圧ピンの振動……
すべてが、いまだこの両手に、指先に、脳に、焼き付いていた。
「……ミロクは、何も聞かなかったな」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
笑っていたつもりだった。
引き継ぎも終えた。任務も全うした。
なのに、この声が、誰にも届かないような“音”になっていることに、いまさら気づいた。
グローブを外す。
薄皮のように手に貼りついて、べり、と乾いた音がする。
まるで、生きた誰かの皮膚を剥いでいるようだった。
――エデン。
彼の名を心に置いただけで、胸の奥が引きつった。
処置の途中で聞いたあの呼吸、傷口の深さ、胸腔ドレーンの挿入角――
全てに自分が関わっていた。
あの時、自分が息を吸うリズムが一度でも狂っていたら。
ドレーンが0.5センチ、深すぎたら。
彼は、もうここにいなかったかもしれない。
「……わたしが、間違えてたら」
ぽつり、また一つ、声がこぼれる。
その声に誰も答えないのが、こんなにも静かだとは思わなかった。
足元のタイルに視線を落とす。
血ではない。だが、あの機内にあった死の気配が、まだこの靴の裏に絡みついているようだった。
「エデン……」
ようやく、名前を呼んだ。
声に出した。
でも、それ以上はなかった。
安否も、意識も、何もまだ知らない。
ただ、いまはここで「置いてこられた」側として、立ち尽くしている。
ハンニバルは、顔を覆った。
手のひらが目元に触れる。
ようやく涙が流れるかと思ったが、何も出てこなかった。
潰れていた。感情も、熱も、全部。
代わりに、わずかに温かくなり始めた掌が、脈を感じていた。
それは彼女自身のものだった。
少しずつ。
ほんの少しずつだけ。
戦場の熱が引いていく。
「……まだ、生きてる」
誰のことかは、言わなかった。
ただそれだけを、確かめるように呟く。
その時、ノックもなく扉が開いた。
「失礼します。ハンニバル少佐……点滴、持ってきました。トリガー大佐の指示で」
若い男性看護師だった。階級章は下士。
顔色は悪い。彼女の噂を聞いているのだろう。
だが、運んできた点滴セットは無駄のない動きでスタンドに設置された。
「……ありがとう」
言葉を出した自分に、ハンニバルは少し驚いた。
だが、それでいいのだと、今度は思えた。
看護師は静かに点滴ラインを確認し、ハンニバルの腕へ刺す準備をする。
彼女の左腕は、まだエデンの血で汚れていた。アルコール綿が触れるたび、赤黒く広がる。
だが、彼は怯えなかった。
ただ、無言で手を動かし、針を刺し、輸液を始めた。
「少佐……本当に、お疲れさまでした」
言ってから、彼は少しだけ視線を逸らした。
きっと、何かを見たのだろう。
それでも、ハンニバルは、彼に頷いた。
「……ありがとう。あなたも、待機班?」
「いえ。わたしは、ここにいただけです。でも……あの爆弾の話、聞きました。すごいです」
「すごくなんか、ないよ」
初めて、苦笑のようなものが唇を引いた。
「すごかったのは、わたしの指じゃない。エデンの指示と……それを支えてたトリガーの機体操作。わたしは……ただ、繋がれてた」
言って、自分でも気づいた。
繋がれていたのだ。
彼の視線に。
彼の声に。
機体の揺れに。
命のリズムに。
その全てと、確かに、指先で繋がっていた。
そして――
「その命を、ちゃんと、返してきた」
その瞬間、初めて、目に熱が滲んだ。
看護師は何も言わず、深く頭を下げて退出した。
ハンニバルは点滴の落ちる音を聞きながら、再びボトルのキャップを開け、もう一口だけ飲む。
戦場の血と汗と硝煙と爆薬と悲鳴が、ゆっくりと体から抜けていく。
その全てを味わいきった身体に、静かに水分が戻る。
まだ、戦いは続いている。
だが、今この瞬間だけは――彼女の手が、誰も殺していない。
その事実が、少しだけ、眠りに似た安堵を連れてきた。
そして彼女は、ようやく目を閉じた。
深く、静かに――息を吐いた。
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