第2話:処刑場にて

 夜だった。照明が落とされた格納庫の裏――訓練棟の影にある、カメラの死角。誰もが知っていて、誰も口にしない「処刑場」。


「来たな、“優等生”」


 D-02が足音を立てずに近づくと、すでに数人が待っていた。隊の中でも特に声が大きく、上官に取り入っている連中。指導係を名乗っていたR-05が、無遠慮に笑う。


「俺たちさ、見たんだよ。例の任務、あの新兵回収したやつ。感動的だったなあ~? なあ、俺らの評価下げてまで、庇ってくれてありがとな?」


 返事はしない。ただ、D-02は止まった。無感情な夕陽色の隻眼が、R-05を捉える。


「……無言かよ。つっまんねぇの」


 次の瞬間、肋骨の辺りに鈍い衝撃が走った。

 ――ゴスッ!

 右脇腹に鋼製のバトンが振り抜かれる。骨が軋み、空気が抜けるように息が漏れた。


「ッ……ぐぅ……」

「おい、声出たぞ。あいつも人間らしいとこあるじゃねぇか!」


 笑い声が広がる。続けざまに、膝裏へ蹴りが入った。

 崩れ落ちたD-02の首筋を、別の男が押さえ込む。軍手越しの指が、呼吸を奪うように喉を締めた。


「ほら、反撃しねぇの? 強いんだろ? 訓練じゃ無双なのによ……こういう時は何もできねぇんだな?」

「なに考えてんだよ、マジで……機械かよ、てめえ」


 喉を押さえつけられたまま、D-02は目を伏せた。痛みが、喉から腹、背骨まで染み渡っていく。けれど反撃はしない。ただ、飲み込む。

 という組織は、自分を仲間として扱ってはいなかった。最初からただの駒、出来損ないの兵器。


「見ろよ、この目。マジでキモい……なあ、取れたら楽になるんじゃね?」


 低く響く金属音。R-05が鉄の焼き棒を持ち上げていた。さっきまで火にかけられていたのか、先端がわずかに赤く光っている。

 その先端が、D-02の頬に近づいた。


「ちょっとだけだよ。いいから……動くなって」


 左腕を押さえつけられ、逃げようとした肩に膝が食い込む。


「なあ、ちょっと焼いてみようぜ。戦場じゃもっと酷いの見てんだろ? 慣れてんだろ?」


 ――ジッ……!


「……ッ、……ッァ……!」


 皮膚の表面に焼けた鉄が触れた瞬間、彼は初めて声を漏らした。

 痛みではない。反射で潰されたような、掠れた吐息だった。

 そのまま押し込まれる。頬ではなく、左の眼窩。肉が焼け、湿った焦げた匂いが漂う。


「おら、おらァ! 泣けよ、叫べよ!」

「なあ、なに考えてんの、今? 痛い? 怖い? 殺したい?」


 ――答えなかった。答えられなかった。

 喉が潰れたように震えていた。息を吸うたびに胸が軋み、左の視界が真っ赤に染まっていく。

 見えるものは全て霞み、ただ、鼓膜の奥で血が跳ねる音だけが鮮明だった。


「ふぅ……ほら、終わった終わった。これで少しはマシな顔になったな?」


 笑い声が遠ざかっていく。

 手を放されたD-02は地面に崩れ落ち、鉄の床に額を預けるようにして静かに息を吐いた。


 ――スゥ……、ハァ……。


 身体が震えている。

 痛みはある。けれど、それ以上に、寒さのようなものが身を蝕んでいた。

 温もりが、ない。

 誰にも理解されず、誰にも必要とされず、それでも使というだけで兵器のように扱われて、挙げ句には自分を焼かれ、嘲られ、それでも生きている。

 なんのために。

 誰のために。

 ――分からない。

 だが、泣かなかった。叫ばなかった。

 その代わりに、喉の奥から絞り出すように吐き出した。


「……ッ……ァ……」


 声というにはあまりにも掠れ、かすかだった。

 でも、それは確かに「彼自身」の声だった。



  深夜、D-02は自室に戻り、破れたシャツを剥いで自らの眼窩に包帯を巻いた。鏡は使わない。感覚でやるしかなかった。慣れている。

 痛みが鈍く、じんじんと頭蓋に響く。

 けれどその痛みだけが、自分がまだ壊れていないことを証明していた。

 ベッドに横になると、すぐに意識を落とした。夢は見なかった。

 

 翌朝。格納庫の点呼でD-02が現れると、誰も何も言わなかった。

 左眼を完全に隠すように眼帯を巻き直し、傷を見せず、立ち位置も変えない。あくまで無言。

 ただ一人、司令官席にいた上官が、皮肉な笑みを浮かべてつぶやいた。


「いい面になったな、D-02。今日からはその眼で、しっかり死神でも演じてくれよ」


 その声を、彼は聞いていた。

 ただ、夕陽色の隻眼を上げて、無表情のまま言った。


「……了解」


 それだけだった。


* * *


 呼吸が浅い。

 喉の奥が焼けるように乾いていた。

 眼帯の下、潰れた眼窩からはうっすらと体液が滲んでいる。じくじくとした熱が眉骨に沿って広がり、鋼鉄の輪のように頭を締めつける。

 左の眼を潰され、表情を失くし、痛みにも声を上げなくなってから、もう何日が経ったのか分からない。

 任務は続いた。潜入、暗殺、迎撃、護衛。傷を負っても、機械のように動き続けた。

 だが、その日。

 作戦中、D-02の片目が見えない弱点が決定的な結果を生んだ。

 

 「目標、左側から来る!ッ、D-02、応答しろ!」


 通信の声が跳ねる。

 だがその左は、彼にとって“見えない闇”だった。


 ――ッ!


 爆風。閃光。肺が縮み、肋骨にヒビが入る。

 仲間の一人が吹き飛んだ。


「てめぇ……! てめぇのせいだ!」


 血を吐きながら、もう一人が叫ぶ。

 だが、彼は何も言わなかった。

 咄嗟にカバーに回ろうとしたが、遅れた。判断は正確でも、身体が追いつかなかった。見えないという一点が、D-02の「戦闘機能」を狂わせた。

 たった一秒。されど、致命的な一秒。

 

 帰還後、彼の戦果は抹消された。

 それどころか――


 「これは命令だ、D-02」


 上官が、冷たく言い放つ。


 「この任務での失態は、お前の身体的欠損によるが原因と認定された。明日付で除隊となる」


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 眼帯の下、潰れた眼窩が脈打つように疼く。


「……除隊……?」

「聞こえなかったか。ああ、そうか。片目だもんな、お前」


 嘲るような笑い。


 「優秀だったんだけどなあ。片目じゃ精密射撃も索敵も不安定だ。任務の継続は難しい」


 上官の指が、机の上の紙を叩いた。除隊通知。判を押された公式文書。印刷された紙なのに、突きつけられた刃より重く感じた。


 「それとも何だ? まだこの部隊に残るつもりだったのか?」

 

 残りたかった。

 ここしか知らなかった。ここでしか、生きられなかった。

 だが、唇は震えるばかりで、言葉が出なかった。


 「片目の兵士に、居場所なんかねぇんだよ」


 声を殺すように、彼は立ち上がった。

 手のひらが震えていた。拳を握ると、爪が手のひらに食い込む。


 「帰れ。死んだものとして処理される。それがお前にとっても一番楽だろう?」

 

 ――楽?

 

 そうだろうか?

 何百回も死線を越え、撃たれ、斬られ、それでも生き残ってきた。

 死んでいった仲間の声を、血を、体温を背負って。

 けれど今、この紙切れ一枚で、自分は「兵士」ではなくなる。

 戦うことしか知らない身にとって、それは――死刑宣告と同じだった。

 


 その夜。

 兵舎の洗面所で、D-02は鏡を見た。

 眼帯を外すと、変形した左の眼窩が現れる。瞼の形が歪み、うっすらとした傷跡がまだ赤い。


 「……ッ……、あ……」


 喉の奥で漏れた声に、自分が驚いた。

 痛みが走ったわけでも、誰かに殴られたわけでもない。

 ただ、「居場所がない」という事実だけが、内臓を圧迫した。


 「く……、ぁ……ッ……」


 呻きながら、壁に拳を叩きつける。乾いた音。拳に走る衝撃。血が滲む。

 何度も、何度も。


 「ッ……、ぁ、あ……!」


 息が荒くなる。喉が焼け、肩が上下する。

 叫びたいのに、声にならない。怒鳴りたいのに、言葉がない。

 殺されるなら納得できた。戦死するなら受け入れられた。

 だが、「見えなくなったから不要」と言われ、死んだことにされる。


 「……っく……は……ぁ……っ、ぁ……」


 喉の奥が潰れるように、嗚咽が漏れる。

 涙は出ない。泣き方を忘れていた。

 代わりに、荒い喘ぎと、血の混じった唾液が顎を伝う。

 


 数分後、彼は洗面台に水を溜め、無言で顔を突っ込んだ。

 冷たい水が顔の腫れを落とし、鼓動が静まる。

 呼吸を止め、心音だけが響く。

 このまま、何分でも沈んでいたかった。



 翌朝。

 私物はすべて回収済み。机の中には何もない。

 除隊後の行き先も、支援も、誰も説明しなかった。

 「ただ、いなくなれ」

 それがこの部隊のやり方だった。

 ドアの外。兵舎の影で、誰かがつぶやく。


 「……死神が、死んだな」


 D-02は立ち止まらなかった。

 その背中には、もう何も背負っていない兵士の空虚があった。


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