掟残りて、人はゆく
炎が、揺れていた。
社務所で雑務をこなしている最中、開け放っていた窓から不意に風が入り込んでくる。
「……まさか」
香の匂いなど漏れ出す訳がない。拝殿は常に閉じているのだから。
静まり返った拝殿の中、供えたばかりの
「何を、お喜びなのですか……」
恐る恐る足を進め、
半紙に
目を閉じて、深く、深く呼吸をする。
香の匂いが鼻を、体内を、思考を巡り、自分の身体が自分の物ではないような感覚になっていく。
宮司の右手が、おもむろに筆を掴んでゆっくりと動いた。
それは少しの
『納豆を食べる時は、三十回以上かき混ぜなくてはならない』
行書体で書かれたその文字は、掟の内容とは裏腹に圧倒的な存在感を放っていた。
我に返った宮司は掟を目にし、
焦ってはいけない。
この村の宮司だけに課せられた掟を破るわけにはいかない。
落ち着いて、
宮司である自分以外は誰も近付かないはずの回廊に、手のひらサイズの手帳が落ちているのに気付いたのはその時だった。
素早く拾い上げ、中身を
【
・ハチに刺されたら“ありがとう”を三回言う
・他人のくしゃみには“優しい嘘”で返す
・鶏より早起きしたら、鶏に謝れ
:
:
:
:
・電話に出る前に、二礼二拍手一礼
・村の神社の場所は誰にも教えてはなら──
最後の記述は筆跡が乱れ、途中で止まっていた。
「ああ……それで掟が……」
宮司は手帳を胸元にしまい、掟の書かれた紙を奉納してから庭へと降りた。
神社の裏手にある小型の焼却炉。蓋を開けて手帳を放り込み、火を付ける。
まだ、燃やさなくてはいけないものが持ち込まれるかもしれない。
まだ、掟が増えるかもしれない。
そんな予感に包まれながら、宮司はひとつ溜息を吐いた。
§
警察署のローカウンター。ふたりの男性がパイプ椅子に座っている。
三十代半ばと見える男性は肩を震わせ、叫ぶように言葉を発した。
「俺は何も知らないんです! 本当なんです! そのメモ取ってる最中に村の人たちの様子がおかしくなって、みんなどっか行っちゃって……!」
行方不明者捜索のための事情聴取を行っている真っ最中であったが、男性は過剰なまでに取り乱している。
顔を歪めて今にも泣き出しそうな男性を、初老の警察官が穏やかな口調で
「村の人たち、全然取り合ってくれなくて。それまではすごいいい感じに撮影できてたから、何なんだよってディレクターがキレ出して……それで、もう撮れ高は充分なはずだから絶対放送するぞ! って言って映像の確認をし始めたんです。俺は急に気持ち悪くなってその辺の草むらでゲロ吐いて……そしたら流石に近くの家の人が心配してくれたのか……車で
男性の言葉尻が震え、カウンターに涙の粒がこぼれた。
「俺だって、俺だって探してるんですよ! 初めて任された大きめの仕事だったのに!! うぅ……俺だって訳が分からないんですよ……どうして……みんなどこに行っちゃったんですか……見つけてくださいよォォ……!」
§
三つの山に囲まれ、国道から少し脇道に
誰にも知られぬ
その波に乗り損ねまいと、とあるTVクルー達が村にやってきていた。
「わ、お茶ありがとうございます〜!」
「皆さんも、ちゃんと食べたり飲んだりできてますか?」
最近メジャーデビューを果たしたばかりのアイドルグループ『
そのリーダーとしてパステルピンクの衣裳を身にまとう
「はあ、お腹いっぱい〜〜」
「マジでよく食べたね」
今回は山中の村でロケということで、普段のアイドル衣裳より私服に近いタイプの服を着ていた。それでもメンバーカラーが一目で分かるくらいには、しっかり衣裳然としていたが。
既に撮影が始まってから数時間が経過しており、途中で出会った優しいご夫婦のお言葉に甘えてふたりがお昼ご飯をご
「すっごい美味しかったんだもん! あんな美味しい塩おにぎり食べたの初めて!」
「あいみんの食べる勢いエグすぎて、掃除機かと思ったよ」
「吸引力の変わらないただ一つのアイドルです……って誰がダイソンか!」
午後も収録は続く。
少しカメラのないところで休憩をして、二人はまたカメラの前に立つのだった。
「納涼・ホラー特集〜本当にあったおかしな村〜、まだまだ続きますよぉ〜〜!」
「あいみん、テンション高すぎ」
あいみがはしゃぎ、ほのかが
砂利道を歩き、出会った村人に声を掛ける。
「こんにちわ〜! 三度の飯より村が好き♡
「え、あぁ……どうも」
今まで会った中では割と若めの男性だった。これまでは高齢者とのやりとりがほとんどだったため、少しやりとりの温度が変わる。
あいみがスイッチを切り替えるのを感じ取ったほのかは、やっぱり彼女がリーダーで良かったと心の中で思った。
「初めまして、椎名あいみって言います! こっちはほのかちゃん! お兄さん、お名前は?」
「
「秀治さん、よろしくお願いしま〜す! 今、この村の掟を教えてもらっているんですけど、何か変だなって思った掟とかありますか?」
あいみの質問に、首から下げたタオルで顔を拭きながら悩む秀治。照りつける太陽よりも、向けられるカメラのせいで汗をかいているようだった。
「変……外から来た人はきゅうりで歓迎しろって、やつかな」
「きゅうり? あ、確かに村長さんからきゅうり貰った!」
ほのかは首を
おそらくテレビで放送される時には、ここでふたりが村に来た時の映像が流れるに違いない。
撮影の前、村役場に挨拶へ行った時、笑顔の村長さんからビニール袋いっぱいに入ったきゅうりを貰ったのだ。
「この村ってきゅうりが有名なんですか? そういえばお昼にもきゅうりの漬物出たね」
「あれ美味しかった」
「いや、特に有名ってわけじゃ……普通に、どこの家でも育ててるくらいの感じで」
「あっ! もしかしてみなさん、前世がカッパだったりして! そういえばどことなくカッパの
「え、いや」
「あいみ〜ん、ウザ絡みしたらお兄さん可哀想だよ!」
アイドルふたりが顔を見合わせてくすくす笑う中、秀治は背負っていたカゴからきゅうりを取り出した。一本ずつ渡し、ぺこりと頭を下げる。
「あ、あの、掟なので僕からも」
「わ! 嬉し〜!」
「ありがとうございます」
喜ぶふたりとは対照的に、秀治の顔色はやや悪かった。脂汗が吹き出し、それを必死で
「では、これで」
「はい! ありがとうございましたぁ!」
「…………気を付けて」
「え?」
去り際、秀治が消え入りそうな声で呟いた言葉は、ふたりの耳には届かなかった。
今までより若い男性との絡みということで盛り上がりを期待していたスタッフたちから、がっかりしたような空気が流れる。
次はもっと撮れ高を、と思い歩いていたふたりの耳に、大勢が楽しげに話す声が聞こえてきた。誰かの家の庭で、みなで何かをしているらしい。
様子を
「今ちょうどおまんじゅう作ってたのよ。よかったら皆さんもどうぞ」
庭に並べられた折り畳みテーブルの上には、ボウルに入った大量のあんこと、それを包む生地がいくつも置かれていた。
それを女性陣が器用にぽんぽん包む中、男性陣は何やら肉を
「今日は鹿も
がはは、と大きな声で包丁を持っていた男性と、隣で血を洗い流していた男性が笑う。あいみたちやスタッフが釣られたように笑うと、その瞬間、男性の降ろした包丁が彼の指を
「いっ……てぇ」
「や、やっちまった……大勢で笑っちまった……」
「大丈夫ですか?!」
慌てるあいみたちを落ち着けるように、女性陣の中からひとりが駆け寄ってきた。
「一緒に包んでみる?」
「え、あの……いいんですか?」
「ええ、あの程度の怪我なら大丈夫よ。心配しないで」
女性の言葉に、全員が安心した。
ディレクターの
「やってみたーい!」
しっかり切り替えたあいみの声で、全体の意識が撮影に戻る。
手拭いを借りて長い髪の毛をまとめたふたりが、女性陣に指導されながらまんじゅうを作る姿は微笑ましかった。
最初はあんこがはみ出たり
ほのかの隣に立つ、小学生くらいの女の子は名前を
歌うことと踊ることが大好きで、「いつかおねーさんたちみたいに東京に行って、アイドルになりたいな!」と無邪気にはしゃぐ歌織に、ふたりは恥ずかしそうに笑った。
ほのかの方が手先が器用と見せかけて、実はかなり不器用というギャップや、中盤から覚醒して村の女性陣顔負けのスピードでまんじゅうを包むあいみなど、かなりの盛り上がりを見せる中、痺れを切らしたスタッフから『掟の話して!』とカンペが出された。
「ここって面白い掟いっぱいですよね〜」
「外の人はそう思うかもしれないけど、人はどんどんいなくなるのに掟ばっかり残っちゃって大変よぉ」
隣にいたトヨさんが、豪快な笑い声とともにちっとも困っていなさそうに答えてくれる。
「大勢で笑っちゃダメみたいなのもあって、気軽に冗談も言えないしねぇ」
「あ……それってさっき……」
カットされるであろう出来事にあまり言及できず、微妙な反応をしてしまったほのかをフォローしようと、おまんじゅうを蒸し器に並べながらあいみが言った。
「掟って何個くらいあるんですか? 暮らしてる人より多いとか?!」
その瞬間、その場にいた村人の視線があいみに集中する。今まで
「あ、あの……あたし……え?」
「帰んな」
「え?」
「もう話すことはないわ、なんも。だから帰んな」
ついさっき、蒸したてのおまんじゅうを食べさせてやると言った笑顔はどこにもなかった。今夜は宴だと盛り上がった男たちはスタッフを冷たく見つめている。
「いや、でも……」
あいみとほのかが何とかして場を繋ごうと言葉を紡ごうとした時、少し離れたところから怒号が響き渡った。
「教えるわけがなかろうが!」
あいみたちが驚いて声のした方を見ると、アシスタントディレクターの
よほど村人の
怒鳴り声を上げたらしい初老の男性は、肩で息をしながら真っ赤な顔をして芦屋を
もう、撮影が続行できそうな雰囲気はカケラもなかった。
もう誰も口を開かなかった。
女性陣が無言のまま、蒸し器やおまんじゅうの材料を持って家の中に入っていってしまう。
男性陣も肉の入ったトレーを
ぞろぞろといなくなっていく村人たちの中、唯一アイドルになりたいのだと憧れを口にした歌織だけが、残っていた。
大人たちの背中を見送ったあと、きょろきょろと周りを見回して、それからあいみの元にやってきて耳元で
「誰も知らないんだよ、大人なのにね」
きゃははははは!
きゃははははは!
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