星降る夜、君に願いを
「跳、べっ」
咳き込みながらも口にしようとして、耀は慄いた。
奇怪なことばかりが起きる今日この場所で、驚くべきことなど何もないけれど、ついさっきまでできていたことができなくなるのには驚かずにはいられない。
なにせ、声が、ほとんど出なかったのだ。
喉が嗄れているわけではない。
逃げ惑って息が切れているせいだけじゃない。
――きっと、黒服たちの仕業だ。
寝静まった夜の住宅街。
路地裏の逃走劇は、すでに袋小路の終幕を迎えていた。無個性な黒服の集団の網は、執拗に学生服姿の耀に絡み付く。
足音ばかりがよく響いていて、見つかっていないのが奇跡みたいなものだった。
――あの人たちが、一般的な裏社会の住人だったらまだ良かったのに。
益体もない思考のノイズを噛み締めながら、不慣れな魔法を紡ぎ上げる。
――ゴールが交番で済むような、たかだか拳銃とか、麻薬とか、そんな話で済んでいたら、本当に良かったのに。
でも、そうではない。
人から声を取り上げるなんて真似さえできてしまう、もっとタチの悪い魔術遣い。法ではカバーし切れない陰の部分。
だからこそ、誰にも頼れず、自力で逃げきるための詠唱を続けるほかないのだ。
「跳、べ!!」
声にならない詠唱は、まだ効果をあらわさない。
声が機能せず、一節だけでさえひどく消耗する。これまでの逃走のために肉体も酷使しつづけてきた。
声だけでなく、肺や筋肉、《魔法路》までも限界を訴えていて、ひとやすみする方が賢いようにも思われた。が。
「いたぞ!!」
後ろからは休みを許さない、無慈悲な声が飛んでくる。
「声はほぼ封じた。もはや魔法は使えまい。捉えろ!!」
リーダー格らしき黒服の号令を受けて、ひとり、ふたりと袋小路の路地裏になだれ込む。迫り来る不気味な集団に、耀の背筋は凍る。
――立ち止まっている場合じゃない。わたしは、捕まっちゃいけないんだ。
「っ跳――」
三度目の繰り返し。
ようやく魔法の外形が描き上がり、魔力は光を放ちはじめる。
「――べ!!」
紡いだ言葉は単純なれど、紡がれた魔法は規格外。
他の誰にも真似できない、当代唯一の『魔法』。星降る夜の力を借り受けて、なんだって願いを叶える、果てしない奇跡の編纂。
「――バカな、声は封じたはず」
「――肉声なしで魔法は使えないはずじゃ」
声のデバフさえ、圧倒的な魔力の奔流で、力技で片付けた。
黒服らの狼狽を置き去りに、ほのかな光が耀の体を包む。空間跳躍のための魔力が、魔法が、満たされる。耀が望んだのは遥か彼方への転移。母親が残した、厳重な秘密工房への直接空間跳躍。
『魔法』を耀に受け継がせた、母親の元への逃避行であり、この星降る夜であれば、十全に叶うはずの奇跡だ。
黒服が耀を捕えようとする間際で、流星のように白く爆ぜ――魔法は機能した。
されど。
「はぁっ、はぁっ」
耀は、黒服の視界内で転倒していた。
耀が跳べたのはせいぜい数十メートル。
「っ魔力切れ……!!」
掠れた声で無力を嘆く。
「驚かせやがって。どっかいっちまうかと思ったよ」
「跳……」
再度、耀はあがくように魔法を紡ぎ上げようとして、突きつけられた何かをようやく認識する。
スチャ、という金属質の音のナニカ。殺意がそのまま冷たく形になったような、手のひらサイズの銃。
「見事な見事な魔法だよ、完璧な願望器としてのお目覚めだ。我らが王もお喜びになるだろう。たかだか、今日受け継いだばかりの魔法を、これほどまでに使いこなすとは……本当に素晴らしい限りだナァ!!ンん??」
がしり、と首を掴まれては身動き一つも取れなくなる。喘ぐように空気をすって……隙をみて魔法を紡ごうとしても。
「おっと、変なことするんじゃねぇぞ。その魔法とこの引き金のどちらがはやいかはよぉく考えろ?」
じわり、と嫌な汗が流れていた。
当代唯一の魔法使いをとらえて、魔術遣いがすることなんて碌でもない想像しかできない。
「なぁに、我らが王も悪いようにはしないだろうよ。ただ、惜しいな……せっかく素材としてもこいつは超級」
「腕の一本くらい、頂戴してもいいんじゃねぇかなぁ。我らが王も見逃してくださるかも」
「そいつぁいい。俺も試してみたいことがあったんだ。こんな魔法使いの雛鳥なんてそうそう捕まるもんじゃあねぇしよ」
魔法使いの解剖、解体、分解、さらなる魔術の発展。目論むギラついた視線を背景に、耀の背筋は凍るばかりで。
「だれか――たすけて」
耀は、祈るように呟き続けていた。
⭐︎
それは偶然か、必然か。あるいは運命か。
「あぁ」
しかし間違いなく、少女にとっては奇跡だ。
「助けるよ」
幻聴にしては明瞭な、それでいて有り得ざる宣言。
次の瞬間、首にかけられた圧力が幻のように消え失せ、少女の身体がふわりと浮き上がった。
抱き上げられたのだと気付いたのは、地面に降ろされてからのことだ。
「大丈夫かい?」
声に誘われ見上げた少女の目に映ったのは、彗星のような青年だった。
力強く輝く銀の瞳と、尾を引くような青い長髪。
何処ぞの王子と言われても信じられそうな容姿。
しかしその服装は端々が解れ、どうにも見窄らしい。
何より、その右手に緩く握られた鈍色の鉄パイプが、どうしようもなく不釣合いだった。
「あなたは……」
呟く耀に軽く微笑んで、青年は暴漢共の前に立ち塞がる。
「やあ、お兄さんたち。この子が何をしたかは知らないが、もう勘弁してやってくれないか?」
まさかスリを追いかけているとでも思っているのか。
まるで近所の悪餓鬼を庇うように、青年はそう言った。
困惑しつつ、指揮を執る男は冷静に包囲を進めていく。
「坊主、怪我しねぇうちに帰りな」
「……穏やかじゃないな。金や物なら返させるし、何か壊したなら代わりに弁償しよう。それでも駄目か?」
「別にそいつに何かされたワケじゃねぇ。忙しいんだ、これで帰れ」
男が懐から財布を取り出し、数枚の紙幣を放り投げる。
風に流され飛んで行きそうな紙切れは、不可思議な動きで一枚残らず青年のポケットに収まった。
眇めた目でそれを見ていた青年が、ちらりと後方を確認する。へたり込んだままの少女は、不安げな様子で青年を見上げていた。
「……つまり、なんだ。この子は悪さを働いたわけでもないのに、君たちに追い回されていたのか」
「だったら何だ?」
「それは良くないな。筋が通っていない」
微笑みが消え、青年は鉄パイプを強く握り直す。
「争うのは好きじゃない。この子を置いて帰ってくれないか?」
「何を言ってる」
「もちろんこの金は返す。なんなら利子もつけよう。お互い、怪我はしたくないだろう?」
どこまでも自分本位な主張。
付き合う意味も時間もないだろう。
「やれ」
舌打ちを一つして、男は部下たちに指示を出した。
「だめっ!」
静観していた少女の声よりも早く、鉄パイプが部下の一人にめり込んだ。
投擲したのだと気付いたのは、一瞬遅れてのことだ。
「それなら仕方ない」
人間が倒れ込む派手な音と、地面と金属がぶつかる甲高い音。
「無理矢理帰ってもらう」
「っ! 何もさせるな!」
ゴングにしては地味だが、開戦には充分すぎる合図。
最初の一撃には驚かされたが、特段問題はない。
数の優位は依然彼らに有り、青年は早くも武器を手放した。どちらが有利かなど考えるまでもないだろう。
だが、青年とて無謀にここへ臨んだわけではない。
一方的に倒されるようなことはなく、魔術をいなしながら信じられない膂力を持って男の部下たちを気絶させていく。
「……神秘使いか。意外と強いな」
小さな呟きは、確かな驚きによって囁かれた。
それも当然だろう。
ただの暴漢と侮るなかれ。彼らは傲慢なる王が遣わした騎士。かの王が、願望器を捕らえるに足ると判断した強者である。
だというのに。
「嘘だろ……」
部下たちは、ほんの数分で全滅した。
見えざる手を伸ばす魔術すら片手間にあしらわれ、男には青年が鉄パイプを拾い上げるのを見ていることしかできない。
冷や汗を拭おうとした瞬間、男のポケットに仕舞われた携帯電話に着信が入った。
震える手で応答のボタンに触れる。
「……はい」
『俺だ。どうなってる?』
嘘や誤魔化しが通用する主人ではない。
隠すことなく現状を伝えると。
『フン、無能が。もういい、その男と代われ』
「いいとも。俺がその男だが、何か用か?」
通話を聞いていたらしい青年が、電話を引ったくった。
『手短に話そう。そのガキをこちらに渡せ』
「断る。話は終わりか?」
『その願望器はお前の手に余る。痛い目に合わないうちに手放せ』
「……願望器?」
耳馴染みのない単語に首を傾げると、ビクリと震えた少女と目が合った。
『……呆れたな。何も知らないのか』
「知らない。察するに、魔人のランプのようなものか?」
『あぁ』
「つまり、あなたには叶えたい願いがあると」
『願いなんぞ自分で叶える。ただ単に、欲しいから手元に置く。他のどんな連中より、ソレは俺が持つに相応しい宝だ』
愉悦の滲んだ傲慢な宣言。
しかし、対する青年もまた、自我の曲げ方というものを知らなかった。
「思ったよりくだらない理由なんだな」
『……あ?』
「まあ返事は変わらない。話は終わりだ」
プツリと通話を切って、そのまま携帯を握り潰す。
「おまっ、ぐぇ!?」
指揮を執っていた男も気絶させ、ついでに金も返した青年はゆっくりと少女に近付いていく。
そうして、怯えて身を竦める少女に配慮して鉄パイプを放り捨て、手の届かない位置にしゃがみ込んだ。
「改めて。俺はハレ。君の名前は?」
「……耀」
「耀か。良い名前だね。ところで耀、願望器がどうとかいう話、本当?」
率直にハレが問い掛けると、耀は少しの間逡巡して、躊躇いながら頷いた。
「そうなんだ。すごいね」
「……すごくない。やなことばっかり」
「それは……まあそうか。ごめん」
確かに現在進行形で嫌な目にあったばかりだった。
配慮が足りなかったと眉を下げるハレに、耀はむしろ申し訳なさそうに目を伏せる。
「耀は、帰る場所はあるのかい?」
「……一応、当てはある」
「それは良い。この近く?」
「いや……今は行けない」
「なら、一先ずはうちに来ると良い。狭いし綺麗とは言えないが、安全は保証するよ」
ハレの提案にこくりと頷いた耀をひょいと抱き上げて、ハレはスタスタと歩き始めた。
「ちょっ!?」
「疲れてるみたいだし、この方が速いから」
「え、あの、武器は拾わないの?」
「武器? あぁ、あのパイプはその辺で拾ったやつだから、別にいいかな」
入り組んだ裏路地を、ハレは庭を歩くように迷いなく進んで行く。
それから五分ほど歩いた頃、ハレは口籠もりながら言った。
「……実は、耀に叶えて欲しい願いがあるんだ」
その言葉は、耀にとって特段珍しいものではない。
それどころか、酷く馴染み深いものだ。
「……なに?」
耀は、この力が好きではない。
何もかもを与えられるこの力は、耀には何一つ与えることなく、全てを奪ったから。
けれど、ハレの願いを断るつもりはなかった。助けてもらったのだから、そのくらいはするべきだと思ったのだ。
ただ、金銀財宝だとか、そういう耀にとってくだらない願いでないと良いなと、漠然とそんなことを考えていた。
そして、願望器にその願いが投げられた。
「沢山の人を幸せにして欲しい」
「――え?」
聞き間違いかと思った。
耀や母に、そんな願いが投げかけられたことはない。
誰も彼も、自分のための願いを手前勝手に投げかける。
「俺も頑張ってるんだけど、どうにも難しくてね。こうして、通りがかりに人助けするのが精一杯なんだ」
「――――」
「ところで、耀は今幸せかい?」
「……えと、なんで?」
「そりゃあ、どうせ幸せにするなら自分が最初の方が良いだろう?」
至極当然のように、ハレが言葉を紡ぐ。
「あぁでも、幸せだと漠然としすぎているのかな。もっと具体的な方が良いのか。その辺どうなんだい?」
「あ、えと、具体的な方が良い」
「そうか。ならもう少し考えた方が良いな」
視線を宙に彷徨わせるハレから、目が離せない。
そして考えがまとまったらしいハレが実に良い笑顔で口を開いた。
「簡単なことじゃないか。耀にとって幸せが具体的じゃないなら、まずはそれを明確にしよう」
「ど、どういうこと?」
「耀にとっての幸せを、みんなにも配れば良い」
ぐっと、やたらと整った顔が、耀の視界一杯に広がった。
「耀。俺が必ず、君を幸せにしてあげる」
心底嬉しそうな笑みが。
蕩けるような甘い声音が。
どうしようもなく、脳に響いて仕方なかった。
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