第25話 イグニスの愛

 セリーナは小さくなったイグニスを抱きながら、遠くの方で燃えさかるジャマガン王国の王宮を眺めていた。


 暴徒と化したジャマガン王国民を止める理由が2人にはない。

 ヨハンにとっての最優先はセリーナの安全であり、その他を考える余地も必要もなかった。


「その犬っころがジャマガン王国の守り神なのか?」

「はい。イグニスと言います」


 小刻みに震える聖獣の背中を撫でるセリーナ。


「もう夜も遅いが、ここに居ると危険だから出立するぞ」

「夜道ですよ?」

「ジャマガン王国よりはマシだ。心配するな、君と一緒にサチュナに戻ることが今回の任務だからな」


 急ぎ足で、だけども安全に馬車が動き出す。


 馬車の対面に座るヨハンは、セリーナの膝の上で丸まっているイグニスをじっと眺めている。イグニスもまたヨハンを見上げていた。


 ふと、セリーナへと視線を戻すと彼女は重そうなまぶたを持ち上げようと戦っていた。


「休んでいいぞ。頼りないかもしれないけど、オレが居るから」

「そんな……こと……」


 ウトウトしているセリーナにブランケットをかけたヨハンは、すぐに寝息を立て始めたセリーナに見惚れてしまった。


 長い睫毛まつげに綺麗な鼻筋、健康的な血色の良い肌。

 どれもが愛おしく思えた。


『鼻の下が伸びているぞ、小僧』

「――っ!?」


 突然の声に体を起こす。

 馬車の中を見渡してもセリーナ以外には誰も居ない。

 居るのはセリーナの膝の上で丸まっているイグニスだけだ。


「お、お前なのか……?」

『このワタシの向かって"お前"とは無礼な。力を使い切っていなければ、噛み殺しているところだぞ』


 イグニスはそっぽを向いたままだが、ヨハンにはしっかりと声が届いていた。


「力を使い切った? そんなに、あの聖女を苦しめたのか?」

『そんなわけがなかろう。あの聖女バカの首を絞めたのはあいつ自身だ。これまで、この子に頼り切っていた報いを受けた。それだけだ』

「頼り切っていた?」

『この子が連れてきた男だから声をかけてやったというのに何も知らないのか。そこまでの関係ならワタシから伝えることは何もない』

「あぁ! おい、寝るな! 教えてくれ、セリーナ嬢のこと。オレ、何も知らないんだよ」

『自分で聞くんだな』


 イグニスは早々にヨハンから興味を失った。

 セリーナが連れてきた初めての男だ。どんなものかと探りを入れるつもりだったが、その価値がないと判断するや否や、イグニスはセリーナの膝へと頬を擦り付けた。


 懐かしい匂いに心が安まる。

 かつては幼いセリーナを自慢の毛皮で包み込んでやっていたが、反対に包まれるようになるとは、感慨深いものがあった。


「俺はセリーナ嬢のことが好きだ。この人と一生添い遂げたいと思っている」


 ピクッとイグニスの耳が反応する。


『本気か? 生半可な気持ちで口走っているのなら殺すぞ』

「本気だ。オレは嘘が苦手なんだよ」

『この子の境遇を知らぬくせに偉そうに。まずはこの子が自分のことを話せるような関係になることだな』

「セリーナ嬢は多くを語らない人だ。その時が来るのをじっと待つ」

『それでも男か? そんな時は絶対に来ない。そもそも、この子が"この世界"に存在する者を愛するはずがない』

「なら、オレが第一号だ」


 あまりにも尊大な態度にわなわなと怒りに震えるイグニスが小さいながらに牙を向く。


『黙れ、腰抜けッ! 貴様にこの子の苦しみが理解できるのか⁉︎ この子の怒りを、憎しみを、悲しみを背負えるのか!』


 空気が震え、頭を焼かれるほどの緊迫感。

 ヨハンは苦痛に表情を歪めながらも必死に抵抗した。


「そんなことは分からん! 好きになってしまったのだから仕方がないだろう!」

『ならば、この子の真名を言ってみろ! 愛する者の名前すら知らない奴に娘をやるつもりはない!』

「……ま、真名? セリーナが名前じゃないのか……?」


 衝撃的な発言にヨハンが勢いを無くして目を見張る。


『愚か者めが。この子は諦めろ。そもそも、貴様のような男と釣り合うものか』

「……オレもつい先日までそう思ってたんだ」

『初めて意見があったな。話は終わりだ。馬車を止めろ、ワタシとマシュガロンがこの子を安全な場所に連れて行く』

「最後まで話を聞けよ。先日まではって言っただろ。今は釣り合わないことなんてないって思ってる。オレはセリーナ嬢と約束したんだ。もう二度と神に祈らせないってな」


 イグニスは大袈裟にため息をつき、ヨハンに憐れみの視線を向けた。


『それは既にワタシが叶えた。この子は祈りを捧げなくても能力ちからを行使できるようにしてやっている』

「あんたが? セリーナ嬢は神を恨んでいるから、祈らないようにしているだけなんだろ?」

『聖女が祈るのは常識であろう。各国を治める神に祈りを捧げ、その信仰心を力へ換える。祈らない聖女なんて、聖女であるものか』

「は……? じゃあ、セリーナ嬢は何なんだよ」

『この子はただの人間の子だよ。聖女なんかじゃなかった』


 なかった、という言葉に引っ掛かったヨハンは疑心暗鬼ながらに問いかけた。


「あんたが何かしたのか?」

ワタシを、この世界を、ジャマガンの民を憎むこの子にワタシ権能ちからを授けた。体の負担にならないようにじっくりと時間をかけて定着させたまでよ』

「セリーナ嬢は神ってことか⁉︎」

『ただの聖女が痛みを取り除き、飢餓を癒せるはずがなかろう。そんな節穴の目しか持たない人間に娘はやらん』

「さっきから娘、娘って! 何様だよ!」

ワタシを信仰する愚かな人間共の犯した罪を罰して、あの子が憎き世界の破壊を望んだ時に実行できるだけの権能ちからを与えた、ジャマガンの神だ!』


 セリーナさえも知らない事実。

 ヨハンを威嚇する聖獣イグニスこそがジャマガン王国のイージャヴィそのもので、セリーナが憎んでいた神は姿を変えてずっと側で見守り続けていた。


『この子がワタシのことを嫌い、恐れているのは知っている。あの聖女バカがこの子を執拗にいじめていたことも、この子を召喚したクソ共がこの子を不当に扱っていたことも全部知っている! だから、ワタシは決めたのだ。ワタシも含めて、全てを壊す能力ちからを与えると! 誰よりも速く危険を察知して逃げ出せる能力ちからを与えると! 最凶最悪の精霊、マシュガロン一族の末裔を側に置き、人間と魔物を使役する禁断の能力ちからも与えた! これが、ワタシの愛だ! 理不尽に異世界に飛ばされ、惨めに生かされる愛娘へのせめてもの償いだ!』


 ヨハンが拳を握る。

 こんな話を聞かされて、じっとしていられるような男ではなかった。


「なにが愛娘だよ。セリーナ嬢がそんなことを望むわけがないだろうが!!」


 ヨハンが勢いよく立ち上がったことで馬車が揺れる。

 イグニスの首根っこを掴んだヨハンは顔を近づけ、唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。


「セリーナ嬢がどれだけ優しいか知っているはずだろう! 一番近くで見てきたんだろ! 神様は嫌いです、なんて言いながらあんたを迎えに来たんだぞ! そんな子が魔物を率いて世界を滅ぼすわけがないだろ! セリーナ嬢は必死に生きているんだよ! 親気取ってんなら、ちゃんと向き合ってやれよ!」

『なぜ、ワタシなんかを迎えに来た! あのまま聖女と共にこの世を去ってしまえば、ジャマガン王国は崩壊し、この子を解放できたのに……どうして』

「セリーナ嬢にとってイージャヴィは憎くても、聖獣イグニスはかけがえのない存在だったって話だろ。あんたら、親子はどうしてこうも簡単な話を難しく考えるのかねぇ!」


 肩で息をするヨハンはイグニスをセリーナの膝の上に戻し、どかっと椅子に腰掛けた。


『……喰ってしまうぞとあんなに脅したのに?』

「知るか。自分で聞けよ。とにかく、オレはセリーナ嬢の本当の名前を聞く。身の上話も全部聞く。そして、どんな境遇だったとしても愛すると誓うんだ。それなら文句はないだろう。あんたの愛娘はオレが貰う」


 イグニスは何も答えなかった。


 冷静になると一気に頭が冷え、とんでもないことを口走っていることに気づいたが後悔はない。

 こんなにも大声で怒鳴り合っているのに眠り続けられるセリーナ嬢は相当疲れているんだな、とヨハンは暢気なことを考えていた。


 セリーナの耳が真っ赤に染まっていることなど気づかずに――

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