5-4
HAIにも感情は存在する。脳内チップ内で生成された神経伝達物質によって、人間に近い感情を造り出す事が可能だった。
起動したばかりの〈俺〉には無縁のものだった。しかし、今なら分かる。これは怒りだ。男に対して、そして何もできなかった自分自身に対して。
初期化した〈俺〉には何もない。HAIにとって必要であるはずの存在意義も、生死に対する執着も。ただ流されるように先生の傍にいる時間が、ひどく脆いもののように思った。
ウイルスZに感染したHAIは、本来であれば破壊される運命にあったのだろう。しかし、〈俺〉は破壊どころか、脳内チップを温存させたままウイルス駆除によってこうして再生されている。目の前を歩く先生の背中は相変わらず何も示さない。そうしているうちに、コンクリートで造られた門が見えてきた。
目的地である学校には、白くて四角い建物である校舎が二つ並んでいた。校舎のすぐ傍にはグラウンドが広がっていて、多くの屋台で賑わっている。
食べ物の匂いのするなかで、先生は、二十二日前にルスデンから響いたものと同じ声を持った鈴木という女に挨拶をした後、〈俺〉を連れて校舎に入った。
「鈴木先輩は美術部の先輩なんです。今はこの学校で教員として働いているようです」
靴を脱いで所定の位置に置きながら、先生が言った。〈俺〉もその動作にならい、靴を脱いで廊下を歩いた。秋の日差しを浴びていた外とは違い、廊下にはしんとした涼しさが漂っている。人間達の人口密度が薄いせいかもしれない。
「先生は、絵を描くのが好きだったんだな」
リビングにある数々の絵。カカオの話によると、そのうちのいくつかは先生が描いた絵画らしい。それらは〈俺〉の知識上にある絵画とは何かが違った。カラーコードや形状は認識できたとしても、それが具体的に何を示すのかが分からない。HAIにとって最も不必要で、最も難解なもののように見えた。
「最近も、何か描いているのか?」
「いえ、最近はあまり……。時間もなくて」
黒髪を耳に掛けながら、先生は小さく笑った。またひとつ、新たな先生の顔を知る。ふいに、先ほどの男の声を思い出した。執着。先生に馴染まない単語が、フォルダにおさまらずにぐるぐる回っている。
「先生は、どうしてロボット工学の研究をしているんだ?」
「どうして、とは?」
「本当は、絵を描きたかったんじゃないのか?」
ゆっくりと廊下を歩いていた先生の足が止まった。〈俺〉もその隣で立ち止まる。左側を、制服を着た男女が手を繋いで歩いて行った。
天井の低い廊下では様々な声が反響する。
――キャンプファイヤー、緊張するなぁ
――フォークダンスで最後までペア替えしなかった男女は、ずっと一緒にいられるらしいよ
様々な声が情報として積もっていく。でもそれよりも、〈俺〉は目の前にいる先生をもっと知りたかった。
「絵は、子供の頃の私にとっての、逃避先でした」
ぽつりと、先生が言った。うつむいているせいでその表情がよく見えない。
「ずっと絵を描いていきたいと思っていたのは本当です。でも、その後にもっとやりたい事ができたんです」
小さく息を吐いた先生は、「行きましょう」と言って、階段を昇り始めた。〈俺〉は慌ててその小さな背中を追いかけながら、やりたい事、について考えていた。
三階の途中にあった教室からは、重低音が響いてきた。観劇か何かを公開しているようだ。更に奥へと進み、美術部の展示室に辿り着く。ドアの横には「美術部展示会」とデザインされた文字で書かれている。教室に入ると、つんとした化学塗料の匂いがした。他に客はいないようだ。立てられたコルクボードには色とりどりの絵画が飾られている。
「今の美術部の生徒達が描いた絵ですね」
絵画の下には、クラスを表記する記号と氏名が書かれていた。作品の制作者の名前だろうか。人間の描く絵よりもHAIの描いた絵のほうがずっと正確で、美しいはずだった。しかし、一枚ずつゆっくりと絵画を眺める先生の横顔がとても穏やかで、正確さと美しさについて〈俺〉は考え直す。あらゆる色や線を用いて描かれた絵は、閲覧者に何を訴えているのだろう。
途中で、見覚えのある景色が見えた気がした。風景画と呼ばれるものらしい。
「これは、海ですね」
タイトルの通り、先生がつぶやいた。HAIにとって脅威であるはずの場所を、〈俺〉はデータベース上以外で知っている気がした。視線を落とすと、コートの裾からはみ出た先生の手が見えた。先ほどつないだ手。湿った温度は、HAIの持たないものだった。
さらに先には、リビングにあるものと同じような抽象画が並んでいた。〈俺〉はそれをじっと見つめるが、やはり理解が追い付かない。色を重ねたものであるなら、リビングにある先生の絵画の方がいいと思った。そしてその思考に〈俺〉は戸惑う。横並びにした物事を平等に捉えられない現象は、HAIにとってありえない。脳内チップを占拠されていくような感覚が〈俺〉の全身に染み渡り、〈俺〉を再構築していくみたいで怖かった。
「愁君?」
先生がゆっくりと振り返る。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
慣れない絵画を目にして、脳内でメンテナンスがかかってしまったのかもしれない。ゆっくりと教室内を歩く。そして、コルクボードの向こう側に足を踏み入れた途端、そこにあった絵画に飲み込まれた。
青々とした色彩に含まれた、ひっそりとした情熱が燃えている。
「私の……」
呆然とした様子で、先生が言った。
「私の、絵です……」
タイトル、青春。美術部OB、野瀬悠里。絵画の下に貼られたプレートを見た途端、ざわざわとモーター音が唸った。
波のように何かがどっと脳内に流れ込んできた。視覚、聴覚、触覚、嗅覚を通じて、脳内チップごと色を塗り替えられるような感覚が〈俺〉を襲い、攫っていく。ボディの動作にも影響したのか、平衡バランスが崩れて思わず床に膝をついた。
「愁君……?」
〈俺〉を呼ぶ声が震えて聞こえたのは気のせいではなかった。聴覚センサーの捕らえた周波数が、その感情の揺れを確かに感知している。細い指先が、〈俺〉の肩に触れる。ジャケット越しに伝わる感触。目の前で、ハート型のネックレスが小さく揺れた。
「悠里……」
その名前を声に紡いだ瞬間、平坦だった場所に失われていた時間の欠片が積み上がっていく。――俺も人間になりたかった。叶わない願いと共に。
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