第16話 泥濘

 咆哮院ではなく道國くんを連れて帰ってきた俺を見た儚香は、何か起きたらしいことは察してくれたらしい。何も聞かずに、寝床だけ準備してくれる。


 考えることは山ほどあるけれど、今はとにかく眠りたかった。一度寝て、正常な思考回路を取り戻さないと、何もまともなことは考えられない。


 泥のように深い眠りについて、目を覚ました翌朝の8時。俺と道國くんは同時に朝食を摂って、子供たちの駆け回る庭のベンチに腰掛けた。


「大変なことになったね」

「……やけに落ち着いてやがるな」

「そう見える? なら良かった」


 焦ったっていいことはない。寧ろ、集中力を欠いて大事なことを見落とすだけだ。


 まずは状況の整理から始めよう。それもなしに、具体的な方針も対策も決められない。


「あの巨漢……バジャル、だっけ? 道國くんは知っているようだったけど、どんな人なの?」

「……おれの、上司兼仲間だ。異能は知らねえ。異常なフィジカルだけで今まで無双を続けてる」


 突然姿を現したのは、駄作衆特有の能力らしい。時間制限はあるが、駄作衆はダンジョン間の転移をすることができる。便利なものだ。


 バジャルはそれを用いて出現し、咆哮院を連れて消えた。あの時俺は……何も、できなかった。


「勝てるかな。俺と道國くんで」

「配信者共はどうした」

「巻き込む訳にはいかないよ。こっちの事情だ」

「……おれにはなんの事情がある」

「バジャルは、君にとって呪縛か何かに見える」


 道國くんが駄作衆の中でどのぐらいの立ち位置にいるのか、バジャルがどの程度の上司なのか。俺にはそんなこと、知る由もないが……


 駄作衆として生きることをやめる。救いを求めているのなら、バジャルを討伐することは必須事項だろう。その呪縛から、解き放たれる必要がある。


「いいじゃないか。ウィンウィンだ。俺は咆哮院を取り戻せるし、君は駄作衆の呪縛から解放される」

「一応……狼姫はまだ敵のはずなんだかな」


 ぼやきながらも、道國くんは笑った。


 7日……1週間後、バジャルはまたあのダンジョンに現れるのだという。咆哮院が駄作衆の拠点かどこかに囚われているとして、場所は道國くんが分かる。


 1週間後、倒す。完膚なきまでに打倒して、バジャルに……残りの駄作衆に、思い知らせてやる。


「俺からはもう……何も奪わせなんかしない」

「……あの青年に意外な過去、か。テメエ、昔に大切な人を失って〜みたいな口か?」

「大切な人を失って……そうだね。もちろんそれ自体はとても辛かった。でも、それだけじゃない」


 その悲しみと苦しみよりも、もっと。


「もっと大きなものが手に入ったよ」


 ――――――


 俺は先代に拾われて、彼に育てられた。


 ダンジョンの中で子供を拾ったのは初めてらしい。最初はかなり警戒されて、人間らしい生活はできても、儚香と会わせたりはあまりさせてくれなかった。


 気持ちは分かる。でも俺も子供だったから、それはもう盛大に反発して過ごしていた。


儚香に会わせてくれなかったのは、純粋に俺が危険人物すぎたからだろう。過激な人だったけど、そういう部分はちゃんとしていたから。


「儂の娘の、儚香。仲良くしてやっとくれ」


 7歳の頃、儚香と初めて出会った。


 同年代の子供と過ごすのが初めてで、俺たちは特別早く仲良くなって行った……と思う。分からない。他の子供の速度を知らないので、何も言えない。


 その頃になって、ある事情で先代は孤児院を始めた。子供が増えることは、俺としても嬉しかった……けれど。運命とは、とかく残酷なもので。


 子供が増えてきた頃、院長は死んだ。


「病気。どうしようもなかったって」


 あの時の儚香は、見ていられなかった。


 半ば強制的に受け継がされた経営は、借金に手を出さなくてはならないほどに苦しくて。俺も、毎日傷だらけになりながら金を稼いだ。そんな日々。


 お互い、まだ高校に通っているような歳の頃。多感な儚香はある日、日常に耐えきれず飛び出した。


「儚香お姉ちゃん、帰ってくるのー?」

「晴継にい、大丈夫ー?」


 その時の俺がどんなだったか、覚えてないけど。


 まあ、酷い顔をしていたんだと思う。


「……大丈夫だよ。今日は、お留守番できるかな」


 その頃1番の歳上……6歳の、子供がいた。


 少し大人びていて可愛げのある男の子。普段は無口だったけど……あの時だけは、誰よりも強く。


「大丈夫だから。迎えに行ってあげて」


 そう、言ってくれた。


 今でも鮮明に覚えている。雨の降る砂海沿い。


 ここから見る水平線が、好きなんだと。儚香はいつも言っていて、俺や院長、子供たちの誕生日には、必ずここに皆で訪れて、1日中遊んで過ごした。


 (……皮肉なもんだな。今日は)


 儚香はその日、18歳になった。


 (儚香の誕生日じゃないか)


 降りしきる雨の中、膝を抱えて蹲る儚香の頭を、俺は静かに撫でていた。彼女の頭上に掲げた傘の、遮る雨音が今日はやけにうるさく聞こえる。


「……なんで来たの」


 俺は、何も言わなかった。


 答えは分かりきっている。けれど、それを言ったところで……今の儚香には、まったく意味がない。


 俺は黙って、傘を差し出し、雨に打たれた。


 しばらく、無言のまま2人で過ごし。


「最低な女よ。嫌ならやめればよかったのに、私、自分で選んだ責任も……負いきれないなんて」

「ごめん。俺も……支えるようにする」

「違うの! はれくんはもう、十分支えてくれてる。私が……私が、私だけが、何も背負いきれてない!」


 雷鳴が轟いて、儚香の俯いた横顔を照らした。


 雨の中でも分かるほど、雨の雫とは似ても似つかぬ。


 透明な雫は、暖かかった。


「はれくんは毎日傷ついて、子供たちのお世話もしてくれて。私は、傷ついてなんかないのに……満足に、するべきこともこなせなくて! 私、だけが……!」

「違う。院長が亡くなって、誰よりも悲しかったのは儚香だ。傷ついて悲しんで、それでも進んだ。儚香はそれだけでも、もう……誰よりも、重いものを背負ってる」


 こんな責任の取り合いに意味はない。


 でも、そうしなくてはならない。心が壊れかけている儚香を救うために、これは必要なことだった。


「なんで、はれくんは……私を追い詰めてくれないの」

「……そうすれば、儚香は救われるのかい。違う。俺は儚香に、元通りの日々を送って欲しいとは思わない。幸せになって欲しい。だから、追い詰めなんてしない」


 元の日々が儚香にとって辛かったなら、そんなもの変えてしまえばいい。


 元通りなんてクソ喰らえだ。今までしていたことが明確な善であると、誰が言い切れる? 俺は家族として、1人の儚香を愛する人間として、するべきことがある。


 儚香を、幸せにする。


「もっと、苦しんで……私が、全部悪いんだって、そう思いたいのに」

「うん」

「そうしたら、また、私を罰しながらでも、同じような毎日を送っていけるのに」

「うん」

「なんでそんなに……優しくしてくれるのよ」


 ……俺には、分からないことだらけだ。


 生まれがおかしいからとか、他の例が周りになかったからとか、色々あるのかもしれない。でもそういうのは全部、これから知っていけばいいだけのことだ。


 今、分かることが1つだけある。いや、ずっと、これだけは分かっていた。だから、胸を張って言える。


「家族だから。儚香のことが、好きだから」


 降りしきる雨が、やけに冷たくて。


 腕の中の温もりが、痛いほど優しく感じられた。


 雨が降っている。


 きっと、もうすぐ晴れる雨が。

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