第32話 冷たい手
いいよ、あかり。
ぼくもあかりをずっと見てるから。あかりもずっとぼくを見ててくれるよね。
そう言おうと思った。
でも、ぼくの口から出てきたのは違う言葉だった。
「あかりはそれでいいの?」
びくり、とあかりの体が動いた。肩に食い込む手の力が強くなる。
「あかりは、それでいいの?」
返事は無い。
そのかわりに、ゆっくりとあかりの顔があがる。あかりの目はぼくを見ていなかった。
ぼくは、もう一度聞く。一言づつ、あかりに染み込ませるように。
「あかりは、それでいいの?」
瞳にぼくが映っている。硝子玉みたいな黒い瞳。ブラックホールみたいな空ろな穴。
幽霊みたいなあかり。
ぼくの前でだけ人間になる。
人間になる?
いや、ちがう。
ぼくは気がついていた。ずっとまえから。
ぼくの前のあかりは本当の人間じゃない、本当のあかりじゃない。
幽霊が中に入った人形だ。
本当のあかりは、八年前に置き去りにされたまま、小さなこどものまま泣いている。
「あかり」
立ち上がると、あかりの手がぼくの肩からぽと、と落ちた。
その手を拾い上げて、ぎゅっと引っ張る。マリオネットのようにだらりとあかりも立ち上がる。
あかりはがくんと頭を落し一歩も動かなくなる。
ぼくは靴を脱ぐと、リビングにつながる扉を開いた。キイ、という音に何をぼくが考えているか、理解したのだろう、
あかりは一歩も動かない。
靴を脱ぐ気配もない。ぐったりと疲れたようにそこに立ち尽くしている。
「あかり」
もう一度名前を呼ぶ。
あかりはびくっと肩をすくめる。
怒られた子どもみたいに。
初めて名前が呼ばれたように。
先生に指されたように。怯えた顔でぼくを見る。
涙が乾いて、あかりの頬に二本の黒い筋をつくっている。
「あかり。そばにいるから」
ぼくが言うと、眉をしかめた。泣き出しそうなその顔は、まったく十一歳の子どもだった。
いやいやと頭を振る。
怯えた顔。
まるでリビングの向こうに恐ろしい怪物がいるように、あかりはカタカタ震え出す。じりっと後ずさりしていくあかりの手をとる。
ひんやりと冷たい。ぼくはその冷たい手を温めるように優しく両手でなでさすった。
「ぼくがいるから」
小さなあかりの手をこすりながらつぶやく。
あたたくなれ、あたたかくなれ。
人形に息を吹き込むように冷たい手に自分の体温を伝わせる。
やがてほんのり体温を取り戻した手をあかりはそっと胸の前で組んだ。
そして一歩踏み出した。
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