第3話 影あれば光あり

 その朝も影を引き連れて校門を通り、昇降口から階段を上がり自分のクラスの扉を開けた。 学校側の配慮か都合か策略か、中学生活三年間ずっとぼくとあかりは同じクラスだった。中学から連絡がいったのだろうか、高校でもぼくたちは同じ一年C組だ。

 

 ぼくが着席するとあかりも自分の席(これまた作為的なものをそこはかとなく感じるが、ぼくの真後ろの席)にちょこなんと腰掛ける。

 これまでも三年間ずっとこの定位置に僕らは配置され、相手を取り替えることなく数国社理のみならず美術から音楽まで前後で過ごしてきた。 

 これからの三年間もきっとそうなるだろう。 

 後ろから二番目の窓際というのがぼくの特別席でありその後ろつまり最後尾の席があかりの主な学校での居場所だ。

「オハー。今日のリーダーやって来たかよ。俺ヤベエ、当たるかもしんねーのに全然やってねえし。超ヤベエよ」

 前の席の友人高橋が声をかけて来た。

 こいつは常態が超ヤベエ状態にいるような気がしてならない。

「お前なあ。俺のを当てにすんじゃねえよ。たまには自分でやってこいっつーの」

 ぼくはあからさまにため息をついてみせるがこの高橋という男は気にもかけず、勝手に僕の学生カバンから英語のノートを取り出すと自分のノートに写経を始めた。

「森中くんオハヨ。高橋くん、、来栖さん、オハヨ。ねーねー。今日のリーダーやって来た?」

 甲高い声なのに不快を感じさせない風鈴のような涼しげな声が斜め後方から聞こえた。振り返ろうとするとパタタと軽快な足音がする。

 風紀委員長の和泉さんが僕の机の横にぴょこんとしゃがみ込み両肘を乗せると上目遣いに僕を見上げる。

 長い睫毛がパチパチと開閉し、真っ黒な瞳に僕が映っているのが見えて鼓動を早くする。さくらんぼの様な唇が尖りまるで子犬のような甘えた表情になる。

「やってきたけど」

 ちょっと無愛想になってしまった自分の声に一瞬焦りを感じつつ答えるぼくに気づいてか気づかずにか、和泉さんは急に立ち上がると胸の前で両手を合わせて拝みの態勢をした。

「私、忘れちゃったのね。悪いけど、ちょっと見せてくれないかなー、駄目?」

 えへへ、と恥ずかしそうに笑う。

 可愛いという形容詞を説明するとしたら例えとして今の彼女を迷わず推薦する。

「答え、間違ってたらごめんね」

 出来るかぎりの優しい声で言うと、高橋からノートを奪還して彼女に手渡した。

「わー、助かる。でもいいのかなあ?」

「いいのいいの。こいつはいつものことだから」

 あ、ひでえ!と先着順を主張し喚き立てる高橋は完全無視する。ノートを抱えお礼を言いながら自分の席に戻る彼女を見送った。


 本日の運勢良好なり。ぼくは授業が始まるまで幸福感で一杯に満たされる。

 カタン、後ろで椅子が動く音がする。あかりの存在を思い出したが僕は振り向かない。あかりはきっと一限目の教科書やノートを出したのだろう。

 和泉さんはこのクラスで唯一あかりのことを無視しない。

 もっともあかりのほうは和泉さんをガン無視している。

 優しい彼女は気にしていないようだが、ぼくは気にする。後ろをちらりと振り返ると、あかりはノートをぱらぱらとめくっていた。ぼさぼさの前髪が、だらりと顔にかかってあかりの目はほとんど見えなかった。


 和泉さんはクラス委員である。

 和泉さんは柳中出身である。

 和泉さんはドーナツに今はまっているらしい。

 和泉さんは他の子に比べてスカートがあまり短くない。

 和泉さんは運動が苦手である。

 和泉さんは英語が苦手である。

 和泉さんは毎週大河ドラマを家族で見るのが日課らしい。

 

 ぼくが彼女に知っているのはこのくらいだった。入学して最初に隣になったのだが、

「これからよろしくね」

と笑顔を向けた瞬間に彼女はぼくの心臓をわしづかんだのだ。

 客観的にいって、和泉さんは絶世の美女というわけではない。もちろんぼくにとってそうだとしても。

 でも、あの時の笑顔は間違いなく最高に魅力的だった。

「よろしく」

 ぼくは知っていた。

 十代のぼくらにとって初めて会った人間に自分からあいさつすることはなかなかどうして勇気がいるということ。

 あのとき彼女の手はかすかに震えていた。その手の震えに気がついたとき、ぼくの胸はどくんと脈打った。

 入学から三ヶ月。すでに席がえがあり、彼女は前から二番目の遠い席に移動してしまった。 

 後ろから彼女を眺められるのはそれなりに幸福といえるだろう。ぴょんとはねた寝癖や、シャーペンをくるくるくると器用に回す彼女の姿は悪くはない。

 悪くはないが、やはり物足りない。

 そして六月末現在、和泉さんとぼくはまだ時々話をするクラスメイトという関係だ。もう少し距離を縮められたら、とぼくは考えていた。

 この平和な日常がどんなに奇跡かということをうっかり忘れて。

 

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