第2話 幽霊のようなあいつ
一学期
月曜日で晴天だった。
殆どの人がそうだと思うが、休み明けの登校はなんとはなしに足取りも重くなるというものだ。既に週末を懐かしく思いながら、ため息をついてぼくはスニーカーを履いた。
「いってきます、と」
やる気のない自分に言い聞かせるようにつぶやいて、玄関の扉を開ける。両親は既に出勤済み。鍵をかけて、きちんと閉まったか確認する。
がちゃり。よしよし。
一度鍵を開けっ放しで留守にし、親にこっぴどく怒られた。ぼくはそれから二度と同じ失敗をしないように気をつけている。間違えから学ぶことは何より大切なことだとぼくは考えている。鍵の確認をし終わったぼくは空を見上げた。
厭になるくらいいい天気だ。
玄関を出るとすぐに、背後からきい、と門扉が開く音が聞こえた。ぼくは振り返ることはしない。いつものことだからだ。
肩からずり落ちた鞄をかけなおして、そのままバス停に向かう。
ゴミを出す若奥様、花に水をやるおばあちゃん。いたって平和な朝の町をぼくはすり抜けて歩き続ける。
バス停が見えてきた。毎朝同じような面子が並ぶ列にぼくも加わる。
ぼくたちの通う瀬田第二高校は、この少子化の時代に四百人の生徒を抱えるマンモス校である。バスに乗って十五分、そこから徒歩で五分。
ちなみにここ日暮市は都心から電車で三十分。いわゆる新興住宅地で、山を切り崩して造られた人口の町である。山の名残で坂が多く、坂の上には団地がそびえたち、下には似たような建売住宅が並んでいる。
この町が出来た時、たくさんの同年代の若い夫婦がそこに移り住んだ。同じくらいの時期に彼らは妊娠して出産ラッシュ。子育て期には公園に大量のこどもたちがあふれた。
そして今この町には大量の高校生がいる、というわけである。バスを待つ間にも、顔見知りが「よ」「や」「お」とぼくに声をかけてきた。
ぼくにだけ。
ぼくも適当にあいさつする。
昨日のテレビの話や、学校の課題のこと。朝っぱらから人生の悩みや政治の話をする高校生はいない。誰もが当たり障りのない話を興味もないのに交し合う。
瀬田校行きのバスが来た。ぼくたちは乗り込む。いつものように。
今日もバスは満席で、後部ドアの近くの定位置にぼくは立った。友人たちもそれぞれの定位置につき、単語帳を繰ったり本を読んだりし始める。
ぼくはイヤフォンを耳に押し込んだ。けれど、そのイヤフォンからは何も聴こえてこない。それも当たり前でコードはぼくの制服のポケットの中でどこにも接続されずに所在無げにそこにあった。ぼくはゆっくり目を瞑った。まるで音楽に没頭しているように。でもぼくの心はここにはない。
バスはやがて大きく揺れて止まった。同じ制服の学生達が一斉にバス停に降り立った。蟻の行列のようにそのまま同じ方向へ進んでいく。
いつもとかわらない朝。いつもとかわらない日常。
そしてぼくの後ろからうつむいてついてくる小さい影。何も言わず、ぼくも何も話しかけない。それでも一定の距離を保ちつつ、影はずっとついてくる。
これがぼくの日常。
来栖あかりというその影のことを、時々本当にぼくの影なのではないのだろうか、と錯覚することがある。
分厚い前髪が顔を覆い、深い影を落としていている。表情のわからない顔は青白く、まるで幽霊のようだ。明らかにサイズの合っていないだぼついた制服は、他の女生徒と同じ制服とは思えない。革靴も大きいのか、カポカポ音がする。
坂にさしかかり、ぼくは少し歩を緩めた。同じテンポで革靴を鳴らしながらついてくるあかりの足音をイヤフォンごしに聞きながら。
後ろに神経を集中させていないと、あかりがいるかいないかぼくにもわからないことがある。
生気が無い。
気配もない。
影の薄い少女。
それがぼくの幼馴染だ。
あかりはそれでも毎日判で押したように学校へ行く。まるで学校に行くことが唯一の自分の義務とでもいうように。
ぼくが家を出ると、すぐに隣の家から飛び出してきて五メートルほど後ろに並び、歩調を合わせる。
初めのうちはぼくの友人たちも、高校生なりに彼女に少なからず興味を持ち、
「おはよう、来栖さん」
「昨日のテレビみた?来栖さん」
と、かなり努力して会話を試みていた。
しかしながら会話というのは受け止め、かつ投げ返さないことには成立しない。
投げかけても投げかけてもミットを構えるそぶりさえしないあかりに、いつしか友人たちはそれが会話でなく独り言になっているという事実に気がつき空しい作業を止めたのだった。
今ではあかりは本当に幽霊のようにみんなの視界に映らなくなってしまった様である。
誰もあかりに話しかけず、誰にもあかりは話さない。
ぼくは自分の中のなにかを吐き出すように、深呼吸する。聞こえない音楽に神経を集中させる。
唐突に、ぼくは美しい人を思い出す。
長い、長い黒髪。飽くまでも白い肌。
化粧を殆ど施していないのに、薄っすらと赤く染まる頬に紅を入れたような唇を持ち、大きな瞳に長い睫を落としてまるで彼女はジュモのビスクドールのようだった。
彼女はもういない。彼の人を思い出すときぼくはノスタルジックな夕暮れのごときしんとした寂寞とした気持ちに覆われる。
いまはもういない、ぼくの初恋のひと。
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