第17話:番外編 武藤喜兵衛、乱世を弄ぶ知謀の蜘蛛
●三方ヶ原の達成感とその後の屈辱:虎の咆哮と、信玄の死
三方ヶ原――あの達成感と屈辱を忘れることはできない。あれは、元亀三年(1572年)十二月のこと。武田信玄公の副将として、若き日の儂、武藤喜兵衛は徳川家康の軍勢を追い詰めていた。あの時の家康は、まるで震える小鹿のようだった。信玄公の猛攻に為す術もなく、必死に逃げ惑うその姿は、後の世に「脱糞」とまで語り継がれるほどの惨めさだった。
「ふん、所詮は三河の狸よ。信玄公の爪先にも及ばぬわ」
そう思っていた。まさか、あの青二才が、いずれ天下を争う大器となるとは、あの頃の儂には想像もできなかった。しかし、信玄公はまさかの病に倒れ、その咆哮は遠く木曽路の空に響き渡る前に消え去ってしまった。偉大な武田の虎が死んだ。そして、儂達は、信玄公の跡を継いだ勝頼公の元で、新たな時代を迎えることになったのだ。
●甲州崩れへの序曲:勝頼の誤算と、忠臣の死
信玄公亡き後、武田勝頼公は、その偉大な父の影を払拭しようと焦るあまり、信玄公傘下の古き家臣団を冷遇し始めた。あの信玄公を支えた、馬場美濃守や山県三郎兵衛、そして儂の父、真田幸隆といった重鎮たちが、次々と遠ざけられていく。長篠・設楽原の戦いでは、勝頼公の無謀な突撃により、馬場美濃守や山県三郎兵衛、さらには儂の兄、真田信綱・昌輝までもが討ち死にしてしまった。勝頼公はいったい何をしたいのか、武田の屋台骨を支えていた忠臣が、次々と命を落とす。儂は、武田の行く末に暗雲が立ち込めるのを感じていたものだ。
父や兄たちの死を受け、儂は武藤姓から真田姓に戻り、真田昌幸と名乗った。そして、その責任を一身に背負い、家督を継ぐことになったのだ。
そして、信長による武田領侵攻の時。勝頼公は、新府城からの撤退を決断した。その際、儂は具申したのだ。「岩殿山(いわどのやま)城に籠もるべきです。あの堅城ならば、織田の大軍を退けることができます!」と。しかし、儂の忠言も空しく、勝頼公は小山田信茂(おやまだ のぶしげ)という阿呆を信じ、その裏切りに遭ってしまった。結果的に天目山での悲惨な最期。
敗走した一部の兵等は信玄様の菩提寺、恵林寺の山門の中に追いたてられて、生きたまま織田信忠に焼かれたとか。なんと酷い……
武田家は、こうして自滅の道を辿ったのだ。
武田が滅び、真田は宙に浮いた。後ろ盾を失った儂たち真田家は、この乱世をどう生き抜くか。儂はすぐに決断した。生き残るためには、大国の間で、しなやかなる竹のように生きるしかない。まずは、織田信長に恭順の意を示し、生き残りの道を探った。
しかし、信長の天下はあまりに短すぎた。
●本能寺の変:天が与えた好機、乱世の幕開け
天正十年六月二日。信長が、京の本能寺で明智光秀に討たれたという報せが、儂の元にも届いた。
「あの信長が死んだだと……!?」
最初は信じられなかった。あの第六天魔王が、まさか、身内の裏切りで命を落とすとは。だが、間違いなく、信長は消えた。そして、儂が一時的に臣従していた織田の将、滝川一益(北信濃・上野を支配)は、撤退を開始した。
これぞ、天が真田に与えた好機!いや、真田昌幸がこの乱世を思う存分かき回す、絶好の舞台が整ったのだ。
信長の死により、旧武田領は再び空白地となった。この地の奪い合いは、再び始まる。信濃には上杉景勝が狙いを定め、東からは北条氏直が、そして南からは徳川家康が牙を剥く。
儂はすぐに動いた。北条氏に接近し、一時的にその傘下に入った。しかし、心は常に独立の道を模索していた。真田が生き残るためには、どの勢力にも完全に組み込まれてはならない。三者の間で、常に有利な立場を保ち続ける。それが、儂の定めた道だった。
●徳川と北条の睨み合い、そして秀吉の咆哮:盤上の采配
徳川家康は、驚くべき速さで堺から三河に戻り、すぐに甲斐・信濃へ兵を進めたと聞いた。
「ふん、あの狸め、嗅ぎつけるのが早すぎるわ」
家康は七月九日には甲府に着陣したという。その動きはまさに電光石火。家康が旧武田領を固めようとする中で、北条氏直も本格的に侵攻を開始し、両者は八月十日頃から甲斐若神子(わかみこ)で八十日間に及ぶ長期の対陣に入った。
この膠着状態こそが、真田にとっての絶好の機会だった。儂は、北条氏に属しながらも、その裏で巧妙に動いた。北条氏が徳川と睨み合っている隙に、わが領地の防衛を固め、さらには勢力拡大の機会を伺った。彼らが互いを牽制し合う姿は、まるで盤上で踊らされる駒のようだ。この信濃の地こそ、儂がその駒たちを意のままに操る舞台となるだろう。
そして、儂が信濃の地で暗躍している頃、畿内からの報せは、常に私の警戒心を刺激していた。
六月十三日。山崎で光秀が秀吉に討たれたという報は、儂を驚かせた。あの猿が、信長を討った光秀を、あれほどの速さで討ち取るとは……。そして、七月二十七日には清洲会議。秀吉が信長の嫡孫を擁立し、織田家中の実権を掌握したと聞いた時には、思わず膝を打った。
「あの猿め、抜け目がない。まさに天下取りの鬼だ」
家康も、この報を聞いて焦っていたはずだ。儂が旧武田領で足元を固めている間に、秀吉はもう天下人への階段を駆け上がっていた。家康が北条との戦に喘ぐその間に、秀吉はもう、自らの天下の形を築きつつあったのだ。
昌幸は、静かに地図を広げた。その傍らには、まだ元服したばかりの次男、源次郎信繁(後の真田幸村)が、口を閉ざし、真剣な眼差しで父の動きを見つめていた。信繁は、父の策謀の数々を間近で見ていた。武田の滅亡、父と兄たちの死、そして乱世の急転。これら全てが、若い信繁の心に深く刻まれていることだろう。昌幸は時折、信繁の顔に目をやり、その聡明さに満足げな笑みを浮かべる。この混乱の時代を生き抜く術を、息子もまた学び取っているはずだと。
「さあて、ここからどう立ち回ろうかのう、信繁!」
昌幸の問いかけに、信繁は父の顔を見上げた。その瞳には、すでに戦国の厳しさと、わずかな興奮が宿っているように見えた。
「父上のお考えのままに」
信繁の短い返事に、昌幸は満足げに頷いた。口元には、不敵な笑みが浮かぶ。家康と秀吉、二人の大魚が天下を巡って争い始めた。そして、信濃を巡る二匹の中魚、北条と上杉。
「この乱世、退屈させはせんぞ。天下を望む者たちよ、思う存分足掻いてみせよ。この真田昌幸が、その全てを盤上で弄ぶように操ってくれるわ」
真田昌幸は、この血なまぐさい時代を、まるで一局の囲碁を楽しむかのように、深く、そして楽しそうに睨みつけていた。
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