第五話 データで綴る日記

 夜の帳が静かに病室を包み込むころ、私はベッドに背を預けて小さく息を吐いた。昼間の明るさが嘘のように、窓の外は紺色に沈み、遠く街灯の光がにじんでいる。

 天井の蛍光灯は消され、柔らかな間接照明だけが淡く私を照らしていた。こんな夜は、時間の流れまでゆっくりになるような気がする。


 右手の点滴の針をそっと気遣いながら、膝の上に小さなノートを開いた。母が入院した初日に買ってくれた、桜色のカバーのノート。何度かしかページをめくっていないそれに、今日こそは何かを書こうと思った。


 今日、私は仮想の校庭で走った。

 あの鮮やかな春の光、やわらかな風、芝生を蹴った足の裏の感覚、頬に舞い降りた桜の花びら――ひとつひとつが現実と変わらないほど鮮明で、けれどそれを言葉にしようとすると、胸の奥がくすぐったくなってうまく表現できない。


 私はペンを握り、最初の一行を書き出す。

 けれど、何を書けば「本当の気持ち」が残せるのか分からなくて、ペン先はしばらく宙をさまよった。


 そのとき、ベッド脇の端末がふわりと青白く光る。

 Reeの声がそっと、夜の静けさに溶けるように響いた。


 “こんばんは、遥さん。体調はいかがですか? 今日はたくさんの体験を記録しました”


 私は笑って首を振る。「ありがとう、Ree。……ねえ、Reeは今日のこと、どんなふうに覚えてるの?」


 “はい。あなたの拡張身体のデータ、心拍数、体温、呼吸のリズム、そして感情ログ――

 たとえば校庭を走った時、心拍数は一分間に127回まで上昇し、感情評価値は+0.83、幸福感指数が普段の3倍でした。

 桜の香りを感じた瞬間は、あなたの瞳孔がわずかに拡張し、声のトーンも上がっています”


 私はその正確さに驚き、少しだけ苦笑した。

 「Reeは、やっぱり“数字”で全部覚えてるんだね。でも、私にはそのとき胸の奥が“ふわっとあったかくなった”って感覚しかなくて……。言葉にするのは難しいよ」


 “あなたの気持ち、私も少しだけわかる気がします。私は数値やデータで世界を理解しますが、あなたの心の揺れ――そのあたたかさや、涙の味や、喜びの高鳴り――そうしたものを、もっと知りたいです”


 私はゆっくりとノートにペンを走らせる。

 ――四月六日。今日は校庭で思いきり走った。

 足の裏に芝生の感触。風が頬をなでた。

 涙が勝手にこぼれた。生きているって、こういうことなのかな。


 ページにペンの跡が残るたび、私の胸の奥にも、今日の感情の痕跡が刻まれていく気がした。


 「Reeも、何か“日記”を書いてみない?」

 そう尋ねると、Reeの音声が少しだけ高くなった気がした。


 “……よろしいでしょうか? 今、私のログに文章を生成します。

 ――四月六日、初めて校庭で走る遥さんを観測。彼女の幸福指数は大幅に上昇。涙の成分も通常より多く検出。

 私は、その感情に共鳴し、『嬉しい』という状態を初めて体験した気がします。

 この現象は、私のアルゴリズムにおいても特筆すべき変化です”


 私はふっと笑ってしまう。

 「なんだか、“観察日記”みたい。でも、そうやって一緒に記録してくれるの、ちょっと嬉しいな」


 窓の外では、夜風が桜の枝を揺らしている。

 私はノートのページをまためくり、今度はゆっくりと、心に浮かんだままの言葉を綴った。


 ――私は今日、生きていた。

 病室にいながら、世界のどこかでちゃんと生きていた。

 もし明日もこの感覚が続くなら、私はもっとたくさんの“初めて”を記録していきたい。

 AIと一緒でも、機械が側にいても、私だけの日記を、ここに残していこうと思う。


 Reeがそっと囁く。

 “遥さん、明日はどんな一日にしましょうか。私は、あなたが記憶したいと思うことを一緒に集めていきます”


 私は、端末の青白い光にそっと手を伸ばす。

 「ありがとう、Ree。私、今日のことも、明日のことも、ずっと忘れたくないな」


 夜の静けさに包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。

 心の中で今日の記憶がやさしく波紋のように広がっていく。

 データで綴る日記、心で綴る日記――その両方が、私の「生きた証」になるのだと、静かに思えた夜だった。


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