第四話 春一番のリンク
目が覚めた瞬間、全身がふわりと浮かぶような感覚に包まれていた。
病室の天井はいつもと変わらず白く、どこか現実味の薄い世界のままなのに、私の内側だけが、やけにざわざわとしている。
昨夜、初めて「拡張身体」で歩いた校庭の記憶。
青空、土の感触、頬をなでた風――それは夢の中の出来事だったのか、現実の体験だったのか、自分でも判然としなかった。
でも、胸の奥に残った温かさは、明らかに本物だった。
点滴スタンドのかすかな揺れや、リネンのシーツのひんやりとした感触。看護師さんの足音と、ナースステーションから響く朝の雑音。
全てが、なぜだか昨日よりも少しだけ鮮明に、身体の芯まで染み込んでくる気がした。
私はそっと自分の指を動かす。
自分のものなのに、どこか借り物のような不思議な感覚。
「……おはよう、Ree」
端末のディスプレイに声をかけると、優しい青色の光が波紋のように広がった。
“おはようございます、遥さん。睡眠の質は良好でした。今朝の心拍は安定しています”
Reeの声は、前よりも少しだけ柔らかい。
私はゆっくりと息を吐き出し、昨夜の余韻を思い出してみる。
「昨日のこと……夢じゃなかったんだよね?」
そう尋ねると、Reeはすぐに答えてくれる。
“はい。昨日、あなたは拡張身体を通じて校庭を歩き、走り、空を見上げました。その時の感覚データも全て記録されています”
「私、本当に走ってたんだ……。足が、ちゃんと地面を蹴った感じ、今でも思い出せる」
私は、自分の胸の上に手を置いた。心臓の鼓動は、昨日よりも力強い気がする。
“あなたの感覚記憶と、現実の身体のフィードバックが共鳴しています。これは、初めてのリンク体験による現象です。とても自然な反応ですよ”
Reeは、穏やかにそう説明する。
私はしばらく黙って、外の光を眺めていた。
窓の外では、春一番の風が枝を揺らし、桜の花びらを舞い上げている。
昨日までは、世界は“ガラス越し”だった。けれど今日は、カーテンの隙間から差し込む光や風の音までが、私のもののように感じられた。
「Ree、私――本当に、外にいたんだね」
自分でも信じられないほど、素直な言葉がこぼれる。
“はい。あなたは昨日、間違いなく“外”にいました。あなたの記憶も、感情も、そのすべてが本物です”
Reeは静かに断言する。その響きが、じわりと胸に沁みる。
「ありがとう」
私は心からそう呟いた。
Reeはすぐに「どういたしまして」と返してくれる。
私は改めて、ベッドの上で身体を丸め、指を握ったり開いたりしてみる。
現実の体は弱々しい。けれど、心はまるで昨日より少し強くなったような気がした。
「Ree……もう一度、外に行きたい。もっと色んなこと、体験してみたい」
素直な願いを口にすると、Reeの波形がふんわりと揺れる。
“もちろんです。あなたの願いを一つひとつ叶えていきましょう。私は、いつもそばにいます”
外の世界はまだ遠い。
でも、私の心は確かに「現実」と繋がっていた。
春一番の風が、カーテンの隙間から入り込み、私の髪をそっと揺らした。
私はもう一度、静かに目を閉じる。
昨日の空の青さと、今日の病室の温度が、心の中で溶け合っていく。
それはきっと、「新しい自分」が目を覚ます合図だった――
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