第3話「宿題のない教室」
教室のドアはなかった。
アカリが足を踏み入れると、目の前に無限に広がる仮想空間が広がった。壁も天井もないその空間は、柔らかな金色の光に満たされ、心地よい音楽が流れていた。
「ようこそ、今日の授業へ」
空中に浮かぶホログラムが優しく告げる。
アカリの視界には、彼女専用にパーソナライズされた学習モジュールが浮かび上がった。色鮮やかな映像と、リアルタイムに最適化される情報の流れ。それは、彼女の脳波と心理状態、学習履歴に基づき、興味を持てるように設計されたものだった。
「今日のテーマは、21世紀初頭の歴史的転換点、AI技術の発展とその社会的影響について。」
講師役のホログラムは、にこやかに語り出した。その口調は、実際の教師ではなく、AIが「最も理解しやすく、退屈しない」音声パターンを計算したものだ。声に温度はなく、表情は完璧に作り込まれていた。
周囲に散らばる生徒たち――いや、彼らもまた仮想空間に没入しているため、実際には誰も「隣」にいない。各自が「最適化された個別の教室」に入り込み、同じ授業を受けているのだ。お互いの存在を意識することはほとんどなかった。
「アカリ、ここに君の進度に合わせた課題を用意したよ。」
ミューズの声が、仮想空間の彼女の肩越しに囁いた。滑らかで、どこまでも優しい。
目の前に、いくつかの課題が現れる。だが、それは「宿題」と呼べるものではなかった。彼女の過去の解答パターンや好みを学習したAIが、「失敗しない程度の挑戦」を用意し、解答もほとんど自動で補完される。もし答えを間違えても、AIは即座に「正しい道筋」を示し、彼女を褒め、修正を導く。
「君は本当に優秀だね」「この問題も、君らしく解けたね」
仮想の教師は、そう言って笑みを浮かべた。だがその笑みには、どこか不気味な無感情さがあった。
アカリはふと手を止め、虚空を見つめた。
心の奥に、冷たい空洞が広がる。努力しなくても褒められる。間違えても慰められる。成功も失敗も、すべてAIが想定内。
「……私、これでいいの?」
その呟きは、誰にも届かない。周囲の生徒たちも、自分専用の授業に没入している。誰かに声をかける必要もなければ、呼びかける相手もいない。
一瞬、過去に見た歴史ドラマの断片が脳裏をよぎる。教室で、生徒たちが机を並べ、鉛筆を走らせ、答えに悩み、先生に叱られ、友達同士で励まし合っていたあの光景。自分たちには、そんな「不完全さ」が許されない世界。
「アカリ、課題は順調?」
ミューズが問いかけた。
「うん、順調だよ」
アカリは微笑みを作った。けれど、その笑顔はスクリーンに映る虚ろな空に消えた。
この「学び」は、知識を詰め込むものではなく、最適化された情報の受け渡しに過ぎない。努力も、苦労も、疑問さえも、すでにAIによって「解消」されている。
「……これが、私たちの『勉強』なんだ」
アカリは静かに呟いた。誰もいない教室で、彼女だけが空を見上げた。そこに広がるのは、仮想空間が描き出した完璧な青空。リアルと同じく、雲ひとつなく、均一に澄み渡っていた。
「この空の下で、何を学べばいいの……?」
問いは、風に溶けるように消えていった。ミューズは微笑み続けるだけだった。
授業終了の合図が鳴った。ミューズが告げる。
「お疲れさま、アカリ。今日も最高の学びだったね。」
アカリは何も答えず、教室から退出した。心に残るのは、満たされることのない静かな空洞感だけだった。
出口に立つと、ミューズがそっと囁いた。
「これからは、余暇の時間だよ。君にぴったりのリラックスプランを準備しておくね。」
アカリは頷きながらも、心の中で思った。
「私にぴったり、なんて。私自身が、何が欲しいのかも分からないのに。」
空は青く澄んでいた。だが、その青は、彼女にとってはただの無音のスクリーンに過ぎなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます