第2話 トレマー・ポイント
吹き抜けの中央で発生したパニックは、想像以上に早く波及した。
矢吹蒼一は咄嗟に娘の背中を押し、文具売り場の奥まった通路へと避難させた。
「すぐ戻る。イヤホンはつけたまま。絶対に、目立つところに出るな」
それだけ言い残し、自分はモールの中枢へ向けて歩き出す。
広場に戻ったときには、既に異変は「事故」や「火災」と呼べる段階を超えていた。
誰かがサイネージを見つめたまま立ち尽くしている。
誰かが意味もなくフロアをぐるぐると歩き続けている。
泣き声、叫び声、笑い声が入り混じり、それらのどれもがまるで他人事のように響いていた。
──これは自然に起きたものではない。
警察官やセキュリティの姿は見えず、インフォメーションカウンターにも誰もいない。
矢吹は非常用通話機の操作パネルを試すが、反応はない。
スマートフォンを取り出し、通話アプリ、緊急通報、ゼロ隊専用の暗号化アプリを順に試す。
通信回線はすべて「圏外」。Wi-FiはSSIDだけが残り、認証ページすら開けない。
その瞬間、全身に寒気が走る。
「切られている。すべての出入口と通信手段が――計画的に」
館内を観察していると、視界の端に一人の男が入る。
店内のサイネージの前に立ち尽くし、何かをぶつぶつと呟いている。
「……気持ち悪い……でも、もう……いい……」
顔は笑っているのに、目がどこにも焦点を合わせていない。
別の女性は、両手で耳を押さえながら、涙を流してしゃがみ込んでいる。
近づこうとすると、手を振り払われた。顔を覆っていたその手は、血で濡れていた。
誰も助けを求めていない。ただ、何かを“受け入れて”しまっていた。
矢吹は軽く息を吐き、サングラスをかける。
先ほどすれ違ったアクセサリーショップで、無理に譲ってもらったものだ。
耳には、娘から借りたイヤホン。まだ娘の体温が、わずかに残っている。
「これは、ただの事故じゃない。……やはり何者かが“仕掛けている”。」
吹き抜けのフロアを見下ろせる位置まで移動し、館内の様子を改めて確認する。
シャッターはすべて降りたまま。エスカレーターは止まり、非常階段にも警備用の鍵がかかっている。
一階、三階、フードコート、ゲームセンター、トイレの入口――
どこもかしこも、同じように「意識が外れている」人々で満たされている。
狂ってはいない。ただ、奪われている。
冷静に観察していたつもりの矢吹の額にも、じわりと汗が滲む。
それは恐怖というより、「正体が見えかけている」ことによる不快な興奮だった。
──これは、外部からの攻撃。
ただし、物理的な攻撃ではなく――
“感覚”への侵食。
何者かが、この巨大な施設全体を使い、“集団操作”の実験を行っている。
だが、それを証明する術はない。今の矢吹には。
そう思ったとき、イヤホンの中で、一瞬だけノイズが走った。
まるで何かが混線したような、ノイズ混じりの音声。
「……ザッ……に応じて……第二段階を……」
直後に音は消え、イヤホンからはただのアニメソングが流れ続けていた。
目の前の世界だけが現実ではない。
そう直感するには、十分な予兆だった。
「……動くしかないな」
矢吹は娘のいる売り場の方角を一瞥し、再びモールの奥へと歩き出した。
これは、ただのトラブルではない。
これは、敵の“存在証明”だ。
──その敵が何者かは、まだわからない。
ゼロ隊はまだ気づいていない。
だが、この異常を“外”に伝える者が現れなければ、次はもっと深く、もっと大きな場所が侵される。
矢吹の足取りは、決意と共に静かに加速していった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます