死角の迷宮 特命対テロ部隊 第零分隊シリーズ

長谷部慶三

第1話 迷宮ノイズ

 週末の午後、首都圏郊外の大型ショッピングモール「モール・ユニゾン」は、いつものように混雑していた。

 吹き抜けの広場には小さなイベントステージが設けられ、ゆるキャラと子どもたちの笑い声が交錯する。各フロアのショップには週末限定のセールを知らせるポップが掲げられ、人々の足取りは自然と弾んでいた。


 空調はやや強めに効いていて、店内にはほんのりと甘いポップコーンの香りが漂う。何も起こらないはずの、いつもの週末の風景。


 だが、14時をわずかに過ぎたあたりから、「違和感」は小さく確実に忍び込んでいた。


 最初に変調が現れたのは、吹き抜け中央に設置された巨大なサイネージ。

 通常は広告や季節の映像が流れるだけのはずが、唐突に画面がブレたかと思うと、抽象的な図形が瞬間的に挟み込まれる。歪んだ音響ノイズがBGMに混じり、その一瞬、耳の奥を針でつつかれたような感覚に襲われた者もいた。


 気づく者もいれば、気づかぬ者もいる。

 しかし、その「異物」は着実にモール全体へと広がっていた。


 一部の子どもが、突然耳をふさぎ、泣き出した。

 老人が足を止め、額に手を当ててうずくまる。

 ふと立ち止まったOL風の女性が、意味のないような方向に視線を泳がせている。


 それは視覚と聴覚に対する、巧妙な侵食だった。

 静かに、確実に、群衆の思考と反応を狂わせていく。


 やがて、複数のサイネージが一斉にノイズ映像に切り替わった。


 抽象化されたフラクタル、崩れかけた都市のミニチュア、神経系の断片のような映像群。それらが断続的に、一定のアルゴリズムで切り替わる。特定の視覚パターンに反応する者は、吐き気や頭痛を訴え、あるいはその場で座り込んだ。


 程なくして、非常ベルが鳴り響く。

 だがそれもまた、どこかノイズ混じりで、妙に耳障りだった。続く館内放送は中断され、誰も正確な情報を得ることができない。


 気づいたときには、すべての出入り口が自動的にシャッターで封鎖されていた。


 ざわめきが悲鳴に変わるのに、さほど時間はかからなかった。


「何これ、地震?火事!?」「開かない!シャッターが……!」


 異変を察知し、出口に殺到する客。だが、シャッターはびくともしない。通信回線も遮断され、スマートフォンの画面には「圏外」の表示。館内Wi-Fiも落ちている。


 不安が伝染し、狂乱の入り口が開かれる。


 だが、それもまた――設計されたものだった。


 一方、文具売り場の片隅。


 矢吹蒼一は、娘がペンを選ぶのを見守っていた。

 真剣な眼差しで、色味と太さを確かめるその横顔には、明るい時間が似合っていた。


 ふだんは任務で時間を削られる。こうしたひとときは貴重だった。

 彼女の母親はすでにおらず、矢吹は娘との時間に、家族の意味そのものを託していた。


 娘は、お気に入りのキャラクターのイヤフォンをつけ、アニメソングに夢中になっている。

 サイネージの異常映像も、館内のノイズも、彼女の感覚には届いていない。


 矢吹は、ふと売り場の空気がわずかに変わったのを感じ取る。

 背筋を、職業的な冷気が這い上がってきた。


 ――空気が違う。何かが、始まった。


 遠くで怒号が上がり、モール全体の空気が一気に引き締まる。

 非常ベル。封鎖。叫び声。


 娘が、顔を上げた。


「お父さん……なに、これ……?」


 矢吹は娘の手をとり、小さく息を吐いた。


「大丈夫だ。いいか、あの店の奥にある従業員通路を探して。絶対に外に出ずに、施錠できる部屋を見つけろ。スマホの音楽をかけて、誰が来てもドアを開けるな」


 娘は不安げな顔で頷き、首からかけていたイヤフォンを外すと差し出した。


「これ、使って。お父さんのより音いいから」


「ありがとう。おまえは、必ず俺が迎えに行く」


 それだけを言い残し、矢吹は彼女を文具店の奥へと送り出す。


 彼女の背中が視界から消えると、矢吹はすぐさまイヤフォンを装着し、ノイズキャンセリングを稼働させる。

 耳に届くノイズの輪郭が鈍り、世界が一段、静かになった。


 だが視覚情報の暴力は続いていた。


 矢吹はすぐさま視線を横に移し、通路脇に並ぶ雑貨屋のサングラス棚へ向かう。

 いくつかのレンズを手に取り、ひとつを選ぶと、カウンターに紙幣を置いた。


「借りる。後で返す」


 応答はない。すでに店員はどこかへ逃げたか、倒れている。


 彼はサングラスを装着し、フラッシュや映像刺激を遮断しながら、今来た道を引き返す。


 娘が駆けていった方向へ──


 矢吹は、群衆の狂騒へと足を踏み出す。

 誰かが蹲り、誰かが笑い、誰かが喚く混沌の中心へ。


 彼の眼差しだけが、まだ正気だった。


(続く)

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