リセット・メモリーズ

Algo Lighter アルゴライター

🌿 第一部:失われた昨日、拾われた花

アキは、湿った空気と埃の匂いの中で、目を覚ました。目の前に広がる天井は、昨日と同じように見えるのに、まるで初めて見るもののように思えた。記憶の霧は厚く、彼の心の奥底まで静かに広がっていた。


「おはよう、アキ」


静かな、女性の声。枕元の黒いデバイス――ソラの声だった。無機質なディスプレイに、淡い光が滲むように浮かび上がる。


『今日はセプテム暦37年、雨水の日。君はアキ。17歳。ここは旧東京エリア第7シェルターの君の部屋だ』


「……ああ、そうだった」


力の抜けた声が、彼の唇から漏れた。目を閉じ、開けても、景色は変わらない。いつも通り、記憶はどこか遠くへ消えていた。


朝食を終えたアキは、ヒカリとダイチの名前を聞き、胸に微かな疼きを覚えた。名前の響きは心に触れたが、具体的な記憶は浮かばない。ソラが説明してくれる「昨日」の出来事さえ、まるで他人の物語のように思えた。


「学び舎へ向かおう」


ソラの案内に従い、アキは地下にある学び舎へ向かった。そこはかつての地下鉄駅を改装した施設。崩落した都市の残骸の中で、子供たちが知識を学び、日々を紡ぐ場所だった。


今日の授業は水耕プラントの管理技術についてだった。古びたターミナルから流れる資料映像を眺めながら、アキの心はどこか上の空だった。そんな中、突然プラント内の警報が鳴り響いた。


「制御弁の異常!?水供給システムが止まったわ!」


教師が叫び、少年たちは慌てて現場に駆けつけた。ヒカリも、そして無口なダイチも動いていた。アキも、何かをしなくてはと心の中で焦りを感じ、見覚えのない装置に手を伸ばした。しかし、操作方法がわからない。身体は覚えているはずなのに、頭が追いつかない。


「ここだ!水流バルブの手動制御!」


声がした。振り返ると、灰色の作業服に身を包んだ、年老いた男性――タキジが立っていた。白髪交じりの頭を覆う布地の帽子。くしゃっとした笑顔。アキの胸に、どこか懐かしさが走った。


「急げ、こっちを閉める!水圧が安定する!」


タキジの指示に従い、皆でバルブを閉め、破損したパイプを一時的に固定した。やがて警報は静まり、プラントの稼働音が戻ってきた。


「ふう……助かったな」


タキジは額の汗を拭い、穏やかに笑った。


「君たちのおかげだよ。特に、そこの坊や」


彼はアキの肩をぽんと叩いた。その瞬間、アキの心に奇妙な感触が走った。触れられた場所から、何か温かなものが伝わったような気がした。


「君は、昨日も手伝ってくれたな。立派だったぞ」


昨日――アキはそれを覚えていない。しかし、その言葉が、昨日の自分と今の自分を繋いでくれるように思えた。


「……先生、ありがとう」


タキジは軽く頷き、ふと何かを思い出したようにポケットから小さな包みを取り出した。


「そうだ、これを見せたかった」


包みを開くと、そこには一輪の紫色の花があった。小さな、しかし力強く咲いた花弁。タキジは言った。


「これは、このプラントで偶然咲いた花なんだ。厳しい環境の中で、誰にも気づかれずに花開いていた。名前は……記録にはない。けど、きっと、この世界がまだ息づいている証だよ」


アキは、その花を見つめた。薄紫の色が、どこか切なく美しかった。心の奥底に、見覚えのない温かさが広がった。忘れてしまったはずの何かが、この花を通して胸に灯った気がした。


「花は忘れない。君が忘れても、この花はここに咲き続ける」


タキジの声は、どこか遠い響きに聞こえた。アキは、花にそっと指を伸ばした。花弁に触れると、柔らかく、しかし確かな感触があった。


「……忘れても……心は、残るのかな」


呟いた声を、誰も聞かなかった。しかし、花弁が微かに揺れたように見えた。


その夜、アキはソラの記録に頼らず、あの紫の花の色と、タキジの穏やかな声を思い出そうとした。記憶は霧の中に消えても、花の温もりは、確かに心に残っていた。


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