うつりぎの術②
やがて亥の刻前に老爺が姿を現した。暗闇から湧き出るように老爺は現れた。
「ほほう~感心、感心。夕刻よりここに来て待っていたものと見える」
「ご老輩よ。我が願いを叶えてくれるのじゃな?」
「そう焦るな。おぬし、名を何という?」
「斎藤平九郎と申す」
「ふふ。平九郎か。良い名じゃ。今から、妖術を授けてやる。この術は、おぬしの願いを叶えてくれるはずじゃ」
「妖術とな?」
妖術とは胡散臭い――と平九郎は思った。
老人がふうと息を吐く。その瞬間、漆黒の闇の中、平九郎の周りだけが薄ぼんやりと明るくなった。薄紅色の柔らかい光に包まれ、気がつくと、ふわふわとした雲の上に立っていた。橋も街道も木々も、周りの景色が消え、柔らかな雲が平原のように延々と続いていた。
目の前にいたはずの老爺の姿がなかった。
「平九郎殿」
背後から名を呼ばれ、振り返るとそこに美しい女が立っていた。まだ若い。二十歳そこそこだろう。抜けるように肌が白い。艶やかな黒髪を頭の上に綺麗に束ね、紅を引いたかのような赤い唇の端を上げて微笑んでいる。
まだ寝苦しい夜が続いているが、若い女は薄い肌着を身にまとっただけだった。たわわに実った胸、形の良い腰が肌着の上から透けて見えた。艶めかしい。
若い女は「こちらにおじゃれ」と平九郎の手を取った。
ふわふわとした雲の上を歩く。女に手を引かれ歩いて行くと、小さな祠があった。「さあさあ、中へ、中へ」と女が先に入って手を引いた。平九郎は岩のような体躯を折り曲げて祠の中に入った。中は思ったより広かった。
祠の中は壁も床も真っ赤に彩られ、灯された灯りが艶めかしく部屋を照らしていた。中央には寝具が敷かれていた。
女がするすると肌着を脱いだ。
目の前に、熟れ切った果実のような裸体があった。その圧倒的な存在感に平九郎は圧倒された。
「大の男が、何を怖気づいておる。おなごに恥をかかすつもりか! 意気地なしめ。さあさあ、わらわを抱くが良い。思う存分、抱いて良いのじゃ」
挑発的な言葉に、平九郎は弾かれたように女に武者ぶりついた。
「それで良い。ああ・・・」女が喘ぐ。
半時後、精を解き放った平九郎はやっと女の体から離れた。女の横に仰向けに横たわると、目を閉じた。気だるさが全身を覆っていた。このまま眠ってしまいそうだった。
隣で女は上体を起こすと、平九郎の顔をのぞき込みながら言った。「ふふ。これで“うつりぎの術”はおぬしのものとなった。良いか。次に情を交えた時から、おぬしはそのものと入れ替わることができる。情を交えた相手に乗り移るのじゃ。女と情を交えれば女となり、男と情を交えれば男となる。交わった相手と心が入れ替わってしまうのじゃ。そうやって、おぬしは相手に乗り移り、そやつが持つ家屋敷や田畑、郎党まで、全てを手に入れることができる。そやつの若さまでもじゃ。情さえ交わることができれば、誰にでもなることができる。そして、永遠に生き続けることができるのじゃ」
「なんと――!」平九郎が驚いて目を開ける。
「どうじゃ。この術さえあれば、おぬしの願いを叶えることなど訳もない。余人へと成り代わり、そのものの財と力を使って、おぬしの願いを果たすのじゃ」
「・・・」平九郎には女の言葉が信じられなかった。
女が笑った。「疲れた。わしはそうやって千年生きてきた。そして、生きて行くのに疲れてしまった。この力をおぬしに授け、わしは永遠の眠りにつく」そう言うと、女の姿が輝き始めた。そして、一瞬、目が眩むほどに発光すると、さらさらと砂になって、崩れて行った。
女が姿を消してしまうと、周りはもとの漆黒の闇に覆われた。
雲の上に乗っていたかのような感覚が失せ、背中に草の葉を感じた。
平九郎は雑草の上で、素っ裸になって寝ていた。
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