第39話 動き出す三日目

 テントのジッパーに手をかける。金属が冷たい。指先が痺れる。ジジジ、と音を立てながら引き下ろす。隙間から冷気が侵入してきた。鼻腔を刺す、凍るような空気。息を吐く。白い。ゆらゆらと立ち上り、薄暗い空に溶けていく。外に出る。一歩。靴底がじゅっと音を立てた。草が濡れている。露だ。葉先にびっしりと水滴が連なっている。きらきらと、かすかに光を反射している。

 頬に風が当たる。冷たい。皮膚がピリピリと引き締まる。背筋に何かが走った。ぞくり。震えが脊髄を駆け上がる。無意識に肩をすくめる。筋肉が硬直する。ゆっくりと息を吸い込む。肺が冷気で満たされる。痛いような、清々しいような感覚。

 遠くから音が聞こえる。ブーンという低い振動。ジェネレーターだ。一定のリズムで唸っている。そして別の匂い。鼻をくすぐる、香ばしい匂い。コーヒーだ。炊事場の方から漂ってくる。胃が反応する。きゅっと収縮した。

「おはようございます、上月さん」

 声で振り返る。柏木一尉だ。地図ケースを両手で抱えている。プラスチックのケースが朝日を反射して、鈍く光る。足音が近づいてくる。ザッ、ザッと規則正しい。

「今日が三日目、帰りを含めて残り二日です」

 言葉が耳に入る。重い。残り二日。その響きが胸に落ちる。

「各班、日没までに戻る前提で計画を立てます」

 一尉の目が細くなる。視線が鋭くなった。俺の胸の奥で、何かがギュッと引き締まる。心臓が一回、大きく脈打った。ドクン。血液が全身に送り出される感覚。指先まで熱が広がる。

***

 会議用の大型テントに入る。入り口の布を押し開けた瞬間、風が吹き込んだ。ばさっと布が揺れる。砂埃が舞い上がる。目を細める。細かい粒子が顔に当たる。ざらりとした感触。

 中は薄暗い。ランタンの光がぼんやりと机を照らしている。長机の上には地図が広げられている。大判の紙。端がめくれそうになっている。ストーブから熱風が吹き出している。ゴオオと低い音。紙の端がひらひらと震える。押さえる。手のひらに紙の感触。つるりとしている。

 ドローンの航空写真も並んでいる。光沢のある印画紙。指紋がつかないよう、端を摘まむ。

「まず東方面」

 河村教授が地図に手を伸ばす。人差し指で川の流れをなぞる。ゆっくりと、丁寧に。爪が紙を擦る音。シュッ、シュッと小さく響く。

「大河沿いに三か所、稲作に適しそうな沖積地があります」

 指が止まる。トントンと地図を叩く。

「今日の午前で候補を絞り込みましょう」

 宮田教授が動く。厚手の手袋を外す動作。指を一本ずつ引き抜く。パサッと机に置く。サンプル瓶を手に取る。透明なガラス。中に土が入っている。指先で弾く。カチッ。軽い音が響く。机が微かに振動する。

「土壌のコアサンプルは私の班で」

 柴崎准教授が写真を広げる。バサッと音を立てる。白く輝く湖面が映っている。塩湖だ。光を反射して、眩しいほどに白い。

「西方面は塩湖だ。採泥と蒸発塩の試料採取を優先する」

 声に力がこもる。熱意が滲んでいる。

 本城教授が地図にペンを走らせる。カリカリと音を立てる。緑色のインク。印が増えていく。一つ、二つ、三つ。

「南方面は薬用植物の追加採取。昨日の二種に加え、まだ未確認の群落もあった」

 ペンを置く。コトンと音がする。

 柏木一尉が立ち上がる。椅子がギィと軋む。全員を見渡す。視線が一人一人を捉える。空気が引き締まる。

「正午過ぎが満潮のピーク」

 時計を確認する。腕を上げる動作。カチカチと秒針の音。

「河川際の作業は午前中に前倒し、午後は高所に移動」

 一呼吸。全員が息を呑む。

「全班、17時半帰投厳守」

「了解」

 声が重なる。揃っている。机の上のカップから湯気が立ち上る。ふわりと揺れる。コーヒーの匂いが鼻をかすめる。

***

 装甲車に向かう。ドアのハンドルを掴む。冷たい金属。ガチャリと開ける。重い。両手で引く。ゴトンと音を立てて開く。中に乗り込む。座席に腰を下ろす。革のシートが冷たい。尻から太ももにかけて、冷気が伝わってくる。じんわりと体温を奪われる。

 シートベルトを引き出す。シュルシュルと音を立てる。バックルを探る。カチッと押し込む。金属同士が噛み合う感触。指先に硬さが残る。

 エンジンがかかる。ブルルルと振動が伝わってくる。座席を通じて、背中に、尻に、振動が広がる。アクセルを踏む音。ブォンと唸る。車体が前に進み始める。

 東方面班は川沿いの道を進む。窓の外を景色が流れていく。緑、茶色、また緑。時折、水面がきらりと光る。カーブのたびに体が横に振られる。シートベルトが胸を押さえる。

 車が止まる。ブレーキの音。キィと小さく鳴る。エンジンが止まる。静寂。ドアを開ける。外に出る。長靴が地面を踏む。ザクッ。砂利の音。さらさらと足元で石が転がる。

「この水際、背後林が薄いな」

 河村教授が首を巡らせる。左、右、また左。木々を見上げる。首の筋肉が動く。喉仏が上下する。

 理沙が杭を配り始める。木製の杭。一本、二本、三本。地面に置く。コトンと音がする。木槌を手に取る。握る。グリップの感触。ざらりとしている。振り上げる。腕の筋肉が緊張する。振り下ろす。

 ガンッ!

 衝撃が手首に伝わる。じんと痺れる。骨に響く。杭が地面に食い込む。少し。もう一度振り上げる。振り下ろす。ガンッ!また衝撃。手のひらが熱くなってくる。

 宮田教授がオーガを準備している。金属の棒。螺旋状の刃がついている。地面に当てる。回し始める。ギリギリと音を立てる。土に食い込んでいく。筋肉が盛り上がる。額に汗が滲む。一滴、また一滴。

 黒い土柱が持ち上がってくる。湿っている。水分を含んでいる。匂いが立ち上る。土の匂い。有機物の匂い。鼻腔に広がる。

「腐植層は厚い」

 教授が土を指で摘まむ。親指と人差し指の間で転がす。ねちゃりとした感触。指先が黒く汚れる。

「水持ちも良さそうです」

 俺は川辺に膝をつく。ズボンの膝が濡れる。冷たい水が染み込んでくる。手を伸ばす。水面に触れる。ひやりとする。掌で水をすくう。透明だ。光を反射している。口元に運ぶ。唇に触れる。冷たい。舌先に乗せる。

 ……鉄の味はしない。

 ごくりと飲み込む。喉を通っていく。食道を下っていく感覚。胃に落ちる。冷たさが内側から広がる。

「上月さん、潮が上がる前に移動だ」

 柏木一尉の声。振り返る。一尉が時計を見ている。眉間に皺が寄っている。立ち上がる。膝についた砂を払う。パンパンと音を立てる。足が自然と前へ出た。一歩、また一歩。急がなければ。

***

 午前中に二か所を回った。地図に印をつける。赤いペンでマーキング。丸を描く。メモを書き込む。「候補地A」「候補地B」。文字が震える。車の振動で手元が定まらない。

 正午が近づいてきた。風が変わった。匂いが違う。塩の匂いが混じり始めた。かすかに、でも確実に。鼻腔の奥でそれを感じる。川面を見る。水位が上がっている。さっきまでなかった波紋が広がっている。水が盛り上がるように見える。

「上げに入ったな」

 河村教授の声。全員が動き出す。杭を抜く。一本、また一本。ズボッと音を立てて抜ける。土が飛び散る。機材を片付ける。袋に入れる。ガサガサと音がする。背中の荷物が増える。リュックが重くなる。肩紐が肩に食い込む。ギシギシと軋む音。

 午後は段丘上に移動した。高い場所。風が強い。髪が乱れる。バサバサと顔に当たる。鬱陶しい。手で押さえる。

 視界が開ける。平野が広がっている。どこまでも続く緑。地平線まで。胸の奥で鼓動が響く。ドクン、ドクン。深く、重く。

 ……今日の成果が、明日の決断に直結する。

 その思いが頭をよぎる。指先に力が入る。ぎゅっと拳を握る。爪が掌に食い込む。痛い。でも、その痛みが現実を確かめさせてくれる。

 風が吹いた。冷たい風。でも、胸の内は熱い。明日への期待と不安が、ぐるぐると渦を巻いている。

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