第30話 理沙視点:私の気持ち

 電話が鳴った。

 リビングにいたお母さんが受話器を取る。いつものように。でも──顔色が変わる。血の気が引いていく。唇が震え始める。

「理沙ちゃん、悠斗が……」

 声が震えている。受話器を持つ手も震えている。白い指が、プラスチックを握りしめて、関節が浮き出ている。

「悠斗が帰ってこないの」

 耳の奥で、その言葉がぐるぐると回る。帰ってこない。帰ってこない。帰ってこない。意味が頭に入ってこない。テレビの音が遠い。時計の秒針だけが、カチカチと規則正しく時を刻んでいる。

 冗談でしょ?そう言いたかった。でも、お母さんの顔を見て、言葉が喉で詰まる。目が赤い。涙の跡が頬に筋を作っている。電話越しに、悠斗のお母さんの嗚咽が聞こえる。ヒック、ヒックという音。本物の泣き声だ。

 胸の奥で、何かが壊れる音がした。ガラスが砕けるような、そんな音。息を吸おうとする。でも、肺が動かない。空気が入ってこない。喉が締まっている。

「嘘でしょ?」

 やっと絞り出した声は、掠れていた。自分の声じゃないみたい。

「本当なの……警察にも届けたわ」

 お母さんの言葉で、現実が押し寄せてくる。ズシンと。重い。立っていられない。ソファに崩れ落ちる。クッションが体を受け止める。でも、心は宙に浮いたまま。現実を受け入れるのに、丸一日かかった。布団の中で、ただ天井を見つめて。涙も出なくて。ただ、空っぽになったみたいで。

***

 最初の三日間は、足が勝手に動いていた。

 本屋のドアを押し開ける。カランカランと鈴が鳴る。いつもの音。でも、今日は違う。店員さんが顔を上げる。

「いらっしゃいませ」

「あの、悠斗……上月悠斗、見なかった?」

 声が震える。店員さんの眉が寄る。考えている顔。首を左右に振る。ゆっくりと。

「いいえ、最近は来てませんね」

 胸の奥が、ズキンと痛む。次はゲームセンター。自動ドアが開く。プシューという音。電子音が耳を打つ。ピコピコ、ガチャガチャ。うるさい。でも、悠斗はいない。格闘ゲームの前も、音ゲーの前も、誰もいない。いや、人はいる。でも、悠斗じゃない。

 公園のベンチ。いつも二人で座った場所。木の感触を確かめる。ざらざらしている。でも、隣は空っぽ。風が吹く。桜の花びらが舞う。春なのに、寒い。

 一緒に歩いた通学路を、何度も何度も辿る。アスファルトを踏む音。タッタッタッ。同じリズム。でも、隣に悠斗の足音はない。足の裏が痛い。靴擦れができている。皮がめくれて、ヒリヒリする。でも止められない。止まったら、本当にいなくなってしまう気がして。

「悠斗……どこにいるの?」

 呟く。風に消えていく。返事はない。当たり前だ。でも、期待してしまう。振り返れば、そこに立っているんじゃないかって。

 手掛かりは何一つ見つからない。交番にも行った。警察官の顔が曇る。「捜索中です」それだけ。焦りが募る。胸の中で、黒い何かが渦巻いている。グルグルと。息苦しい。

「理沙、大丈夫?」

 美月が心配そうに覗き込んでくる。目が合う。優しい目。でも、それが辛い。

「うん、大丈夫……」

 嘘。全然大丈夫じゃない。でも、そう言うしかない。心配されたくない。同情されたくない。ただ、悠斗が帰ってくればいい。それだけ。

 夜、布団に入る。目を閉じる。でも、眠れない。瞼の裏に、悠斗の顔が浮かぶ。笑っている。「理沙」と呼んでくれる。でも、目を開ければ、真っ暗な天井。枕が濡れている。涙が止まらない。鼻水も出る。ティッシュで拭く。でも、すぐにまた濡れる。

 学校でも、頭が働かない。先生の声が遠い。黒板の文字がぼやける。ノートは白紙のまま。ペンを持つ手が震える。

「綾瀬さん?」

 先生の声でハッとする。みんなが私を見ている。視線が痛い。

「あ、すみません」

 慌てて教科書を開く。でも、どこをやっているのか分からない。隣の子が指差してくれる。ありがとう、と小さく呟く。

 そんな時だった。国の偉い人が悠斗の家を訪ねてきたのは。

***

 悠斗のお母さんが、私も来ていいと言ってくれた。

 玄関のチャイムを押す。ピンポーン。懐かしい音。ドアが開く。悠斗のお母さんが立っている。やつれている。目の下にクマ。でも、微笑んでくれる。

「理沙ちゃん、来てくれてありがとう」

 リビングに通される。見知らぬ男性が座っている。スーツ姿。髪は整えられている。でも、目が普通じゃない。鋭い。全てを見透かすような目。

「初めまして。内閣情報調査室の橘と申します」

 名刺を差し出される。手を伸ばす。紙を受け取る。本物の政府の名刺だ。重い。指先が震える。

「悠斗君は女神によって異世界転移させられました」

 は?

 耳を疑う。もう一度聞き直したい。でも、橘さんの顔は真剣そのもの。冗談を言っている顔じゃない。

「魔王と戦っているのです」

 頭の中が真っ白になる。思考が止まる。異世界?魔王?何それ。ラノベ?ゲーム?現実?手に持った名刺を見る。内閣情報調査室、橘隼人。文字がぼやける。手が震えている。

「信じられません」

 正直な気持ちが口から漏れる。当然だ。誰が信じる?

「無理もありません」

 橘さんが苦笑する。口の端が少し上がる。

「でも、これが事実です」

 その声に、嘘がない。真実を語っている声。なぜか分かる。

「三ヶ月後には帰ってきます」

 その言葉を聞いた瞬間、悠斗のお母さんが崩れ落ちた。膝から。ドサッという音。床に手をつく。肩が震えている。嗚咽が漏れる。

「本当に……本当に帰ってくるんですか?」

 私の声も震えていた。喉が詰まる。涙が溢れそう。

「ええ、必ず」

 橘さんの声が落ち着いている。揺るぎない確信がある。

「女神との契約ですから」

 胸の重石が少し軽くなる。ふっと。でも──

「悠斗は異世界で十年過ごします」

 息が詰まる。肺から空気が抜ける。手のひらに汗が滲む。じっとり。冷たい汗。

「十年も……一人で?」

「はい」

 十年。その重さが分からない。想像できない。私が高校を卒業して、大学に入って、就職して……その間ずっと、悠斗は一人で戦っている。胸が痛い。ギュッと締め付けられる。


 十年も一人で戦う。

 私がこちらで普通に学校生活を送っている間に。

 友達と笑って、テストで悩んで、進路で迷って。

 その間、悠斗はどんな思いをしているんだろう。

 寂しくないのかな。

 辛くないのかな。

 怖くないのかな。

 ……いや、きっと全部感じているはず。

 でも、それを私は何もできない。

 手を伸ばしても届かない。

 声をかけても聞こえない。

 ただ待つことしか。

 三ヶ月。

 あと三ヶ月。

 長い。長すぎる。

 でも、悠斗の十年に比べたら……。

***

 帰還当日。

 玄関の前で待っている。朝から。足が震える。緊張で。期待で。不安で。何て声をかければいいのか、ずっと考えていた。でも、答えは出ない。

 ドアノブが回る音。カチャ。心臓が跳ね上がる。ドアが開く。ゆっくりと。そして──悠斗が立っている。

 背が少し伸びた?顔つきが変わった。大人っぽい。でも、優しい目は同じ。安心する。でも、どこか遠い。十年分の距離を感じる。

「おかえり」

 やっと絞り出す。喉が詰まって、それ以上言えない。

「頑張ったんだね」

 ありきたりの言葉。情けない。もっと気の利いたことを言いたかった。でも、これが精一杯。

 悠斗が微笑む。優しく。温かく。胸がきゅっとなる。涙が出そう。

「ただいま、理沙」

 声が少し低くなっている。落ち着いている。大人の声。

「心配かけてごめん」

 その声に、十年分の重みを感じる。どれだけの苦労があったんだろう。どれだけの痛みがあったんだろう。想像もつかない。でも、悠斗は笑っている。私のために。

 複雑な気持ち。嬉しい。でも、寂しい。置いていかれた気がする。でも、それは仕方ない。悠斗は十年を過ごしたんだから。

 その後の日々は楽しかった。本当に楽しかった。アルカディアの扉をくぐった時の衝撃。目の前に広がる赤い大地。二つの月。異世界の匂い。全てが新鮮で、夢みたいで。

「すごいね、悠斗」

 思わず呟く。こんな世界があるなんて。こんな体験ができるなんて。

「こんな世界があるなんて」

「理沙が一緒だから、もっと特別に感じるよ」

 悠斗の言葉に、胸がきゅんと締め付けられる。熱くなる。顔が赤くなるのが分かる。耳まで熱い。

 赤い砂を踏む感触。ザクザク。靴に入り込む細かい粒子。二つの月が作る不思議な影。全てが特別。悠斗と一緒だから。

***

 そして、あのキス未遂事件。

 夕陽がアルカディアの空を染めている。オレンジと赤と紫のグラデーション。綺麗。でも、それよりも──悠斗の顔が近づいてくる。ゆっくりと。でも確実に。

 心臓が跳ね上がる。ドクンドクンドクン。肋骨を内側から叩いている。息が止まりそう。いや、もう止まっている。悠斗の瞳に、私が映っている。真剣な目。優しい目。私だけを見ている目。

 唇が近づく。あと少し。あと少しで──

「悠斗ー!理沙ちゃーん!」

 美月ちゃんの声が響く。最悪のタイミング。本当に最悪。でも──分かった。確信した。悠斗が私を女の子として見てくれている。特別な存在として見てくれている。それだけで、とても嬉しかった。胸が温かくなった。

 あの瞬間の悠斗の表情。慌てて離れた時の、あの顔。耳まで真っ赤になって。可愛かった。ずっと見ていたかった。夕陽の赤が頬を照らして。胸が甘く疼く。ズキズキと。でも、心地いい痛み。

「悠斗、異世界で恋人とかいなかったの?」

 ある日、勇気を出して聞いてみた。ずっと気になっていたこと。心臓がドキドキする。バクバク。答えを聞くのが怖い。でも、知りたい。

「え?そんなの……」

 悠斗が慌てる。目が泳ぐ。右を見て、左を見て、また右。明らかに動揺している。

「戦っていてそんな暇なんてなかったよ」

 嘘だ。絶対に何かある。でも、今は追及しない。少し安心したから。本当に大切な人がいたら、もっと違う反応をするはず。美人のエルフとか、可愛い獣人とか、きっといたはず。いつか必ず問い詰めてやる。全部吐かせてやる。……でも、今はまだいい。今は、この距離感が心地いい。

***

 探索行での出来事は、今でも鮮明に覚えている。

 狼もどきが飛び出してきた瞬間。白い牙が光った。唾液が飛び散る。獣臭い匂いが鼻を突く。

「理沙!」

 藤崎さんが私の前に飛び出す。体を盾にする。牙が腹に食い込む。ブスリ。嫌な音。血が噴き出す。赤い。温かそうな血が、地面に落ちる。ポタポタと。

「うあっ……!」

 藤崎さんの顔が歪む。痛みで。苦痛で。でも、銃を離さない。引き金を引く。バンバンバン。銃声が耳を打つ。

 神崎君も戦っている。腕を噛まれながら。牙が肉に食い込んでいる。血が流れる。でも──

「痛ッ!でも効いたか!」

 笑っている。痛みを誤魔化すように。強がって。カッコつけて。

 二人が大怪我。血だらけ。服が赤く染まっている。地面も赤い。血の匂いが充満している。鉄の匂い。

 胸の奥から、熱いものが湧き上がる。マグマみたいに。ドロドロと。これは──怒り?悲しみ?違う。もっと純粋な何か。

「お願い、治って」

 心の底から祈る。本当に心の底から。神様、仏様、誰でもいい。この人たちを助けて。

 手のひらが熱くなる。ジンジンと。そして──白い光が溢れ出す。眩しい。温かい。優しい光。回復魔法だ。使えた。自分でも驚く。でも、嬉しい。

 傷が塞がっていく。血が止まる。顔色が戻る。よかった。本当によかった。でも──魔力を使いすぎた。頭がクラクラする。視界がぼやける。膝が震える。崩れ落ちそう──

「理沙!」

 悠斗が支えてくれる。強い腕。温かい腕。安心する。もう大丈夫。悠斗がいるから。

「無理しちゃダメだ」

 優しい声。心配そうな声。胸が温かくなる。

 私も守られるだけじゃない。悠斗を支えることができる。仲間を助けることができる。そう実感できた瞬間だった。役に立てた。必要とされた。嬉しかった。

 このまま悠斗から告白させてみせる。絶対に。あの手この手を使って。でも、もし私が先に我慢できなくなったら──……その時は、その時だ。私から言ってもいい。プライドなんてどうでもいい。悠斗と一緒にいられれば。

 二つの月が見守る星で。赤い大地の上で。私たちの物語は、まだ始まったばかり。これからもっと、たくさんの思い出を作っていく。悠斗と一緒に。ずっと一緒に。離れない。もう二度と。

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