第2部
第21話 新たな探査と有識者会議
教室の窓から校庭が見える。解放された生徒たちが校門から溢れ出していく。制服の群れが波のように動いている。期末試験が終わって三日。みんなの足取りが軽い。肩の力が抜けているのが、後ろ姿からでも分かる。跳ねるような歩き方。時々聞こえる笑い声。開放感が空気に満ちている。俺も成績表を受け取ったばかりだ。紙の感触がまだ指に残っている。少しざらついた表面。インクの匂い。数学、物理、化学──どれも高得点。赤い丸印が並んでいる。異世界での計算癖が、こんなところで役立つとは。300年間、魔法陣の計算ばかりしていた成果か。
廊下を歩く。リノリウムの床が靴底を押し返してくる。ペタン、ペタンという音が耳に響く。他の生徒たちとすれ違う。みんな顔が明るい。頬が緩んでいる。試験から解放された安堵が表情に出ている。俺の足取りも軽い……はずなのに、なぜか体が重い。胸の奥で何かがざわついている。
「世界の命運より怖い微分積分か」
声が廊下に吸い込まれていく。唇が渇いている。舌が上顎に張り付く。唾を飲み込もうとする。喉がゴクリと鳴る。……たぶん、緊張しているんだ。これから官邸に行くから。橘に会うから。アルカディアの未来を決める話をするから。
昇降口で靴を履き替える。上履きから革靴へ。靴箱から取り出す。革の匂いがする。足を入れる。靴紐を結ぶ時、指が少し震えた。小刻みに。意識すればするほど震える。紐が上手く結べない。やり直す。今度は大丈夫。
外に出ると、夏の日差しが肌を刺す。ジリジリと焼けるような熱さ。額にすぐ汗が滲む。首筋を一筋の汗が伝い始める。背中に流れていく。シャツが肌に張り付く。不快な感触。官邸への道を歩き始めた時、隣に誰かの気配を感じる。振り向かなくても分かる。シャンプーの香りが微かに風に乗ってくるから。花のような、果実のような、甘い香り。
「橘さんに会うの?」
理沙の声が耳元で響く。近い。吐息が耳に触れそうなくらい。
「うん。アルカディアの探索計画について」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがドクンと脈打った。心臓じゃない。もっと深いところ。魂の奥底。冒険への衝動が、細胞レベルで騒ぎ出す。血が熱くなる。全身を巡る血液が沸騰しそうになる。
「私も一緒に行っていい?」
「もちろん」
歩きながら、腕と腕の距離を測る。十センチ。いや、もっと近い。五センチかもしれない。触れそうで触れない。その微妙な距離が、なぜか心臓を早くさせる。ドクドク、ドクドク。耳の奥で自分の鼓動が聞こえる。太鼓を叩くような音。理沙も同じことを考えているのだろうか。時々、腕が触れそうになって、お互いに少し距離を取る。でもすぐにまた近づく。磁石みたいに引き寄せられる。
***
官邸の重いドアを押す。両手で押さないと動かない。ギィィィ、と蝶番が鳴った。油が切れているような音。中に入ると、冷房の効いた空気が汗ばんだ肌に心地いい。ひんやりとした空気が顔を撫でる。でも、すぐに寒くなる。温度差で鳥肌が立つ。腕の産毛が逆立つ。ゾクゾクする。
廊下を進む。革靴がリノリウムの床を叩く。カツ、カツ、カツ。規則正しい音が、建物の静寂を破る。反響する。壁に跳ね返って戻ってくる。まるで誰かがついてきているみたいな錯覚。会議室のドアノブが冷たい。真鍮の金属。掌に冷たさが染み込む。握る。回す。カチャリ。小さいけれど、確かな音。ドアが開く。
橘が椅子から立ち上がる。革張りの椅子がギシッと鳴る。スーツの裾が揺れた。ネクタイが胸の前で小さく振れる。
「悠斗君、理沙さんも。ちょうど良かった」
顔の筋肉がいつもより緩んでいる。口角が上がっている。目尻に小さな皺ができている。何かいいことでもあったのか。期待に満ちた表情。
「実は君たちに相談があってね」
「こちらからもです」
身を乗り出す。テーブルに両手をつく。木の表面がひんやりとしている。磨き上げられた天板。つるつるしている。椅子が後ろで、ギシッと軋んだ。体重が前にかかる。
「夏休みに入ったら、アルカディアの探索を本格的に行いたいんですが」
「それは渡りに船だ」
橘の目が大きく開く。瞳孔が一瞬広がる。光を捉えようとしているみたいに。黒目が大きくなって、また元に戻る。
「政府としても期待している」
書類を取り出す動作が見える。引き出しを開ける。ガラガラと音がする。紙の束を掴む。指先が、かすかに震えている。紙の端が小刻みに揺れる。緊張?いや、違う。これは興奮だ。期待で手が震えている。
「何かリクエストはありますか?」
「具体的な候補地は?」
鞄のファスナーを引く。ジジジジ、と音を立てて開く。歯が噛み合う音。中から地図を取り出す。折り畳まれた紙が、手の中で重い。何度も折った跡がついている。古い紙の匂いがする。テーブルに広げる。パサッ。紙が空気を押しのけて広がる。四隅が丸まろうとする。手で押さえる。インクと、汗と、土埃の混じった匂いが鼻腔をくすぐった。異世界の匂いがまだ残っている。
「これ、自分の足で歩いて作った地形図です」
「すごい……」
理沙が身を乗り出してくる。椅子から腰が浮く。髪がふわりと動く。肩から流れ落ちる。甘い香りが一瞬、顔の前を通り過ぎた。シャンプーの香り。
「こんなに詳細に」
地図の上に指を置く。紙のざらざらした感触。長年の使用で表面が毛羽立っている。
「北部には山岳地帯が広がっています」
稲妻のような形の断層線を、指先でゆっくりとなぞる。インクの盛り上がりが、指の腹に引っかかる。でこぼこした感触。一本、二本、三本。複雑に入り組んだ地形。
「この辺りは特に鉱脈が期待できそうです」
「どんな鉱物を?」
「オリハルコンやミスリルが眠っている可能性があります」
その名前を口にした瞬間、喉の奥がカラカラに乾いた。砂漠みたいに。唾液が出ない。舌が口の中で動かない。ゴクリと飲み込もうとするが、喉が張り付いたみたいに動かない。もう一度試みる。ようやく、少しだけ唾が降りていく。食道を通る感覚。
「異世界でも希少だった金属です」
「産業革命が起きるな」
橘の声が遠い。どこか夢見るような響き。視線が俺を通り越してどこか遠くを見ている。未来を見ているような目だ。瞳に光が宿っている。
「他の候補地は?」
「東部です」
今度は青い線を指す。太い青い線。川だ。地図の上で蛇のようにうねっている。曲がりくねって流れている。
「大きな河川と広大な平原があります」
「水があるなら、生活にも適してるね」
理沙がさらに身を乗り出す。髪が俺の腕に触れる。柔らかい。テーブルが少し揺れた。振動が伝わってくる。
「そう。農地としても使えるし、薬草栽培も可能です」
心臓が高鳴り始める。ドクン、ドクン。肋骨の内側で暴れている。胸郭全体が震えているみたい。
「ポーションの原料にもなります」
橘の顔色が変わった。血が上る。頬が赤くなる。目が大きく開く。瞳孔が開いて、光を全部吸い込もうとしている。
「ポーション……医療革命だ」
ペンを手に取る。キャップを外す。カチッと音がする。紙に押し付ける。カリカリカリ。インクが紙に染み込んでいく音。速い。追いつけないくらい速い。文字が踊るように書かれていく。
「薬草の種類は?」
「まだ未確認ですが、火山地帯なら特殊なものも」
「火山?」
理沙の眉が中央に寄る。皮膚が寄って、額に小さな皺ができた。縦の線が三本。
「危なくない?」
「大丈夫。異世界でも似たような場所は探索したから」
……いや、待て。口では大丈夫と言ったけど、本当は胸の奥で小さな不安が蠢いている。冷たい何かが、背骨を這い上がってくる感覚。ゾクゾクと。嫌な予感みたいなもの。でも、それは飲み込む。言葉にしない。顔に出さない。
椅子が床を擦る音。ガタッ。橘が急に立ち上がった。勢いよく。反動で椅子が後ろに下がる。
「悠斗、これは君一人で決めるには重要すぎる」
窓の方へ歩く。革靴が床を打つ。コツ、コツ、コツ。窓の前で立ち止まる。振り返った横顔に、深い皺が刻まれている。眉間と、目尻と、口元に。
「有識者会議を開こう」
深く息を吸い込む音が聞こえる。胸が大きく膨らむ。肩が上がる。
「専門家の意見も必要だ」
「わかりました」
胸の中で、期待と不安が渦を巻く。ぐるぐると回転している。熱いような、冷たいような、不思議な感覚が全身を駆け巡る。血管を通って、指先まで届く。
「理沙さんも参加してもらえますか?」
「え?私も?」
理沙の声が一オクターブ上がる。驚きで。喉が震えているのが分かる。声が裏返りそう。
「君の視点も重要だ」
見る見るうちに、理沙の頬に血が上る。桜色に染まっていく。耳まで赤くなる。首筋にも赤みが広がる。嬉しそうだ。でも緊張もしている。
***
数日後。官邸の大会議室のドアを開けた瞬間、熱気が顔を打った。ムワッとした空気。人いきれ。スーツの匂い。汗の匂い。コーヒーの香り。タバコの残り香。全てが混ざり合って、息苦しい空気を作っている。肺に入ってくる空気が重い。額に汗が滲む。じわり、じわり。生え際から垂れそうになるのを、手の甲で拭う。べたつく。
各分野の専門家たちが、既に席についている。皆、前のめりだ。机に肘をついて、身を乗り出している。目が輝いている。期待に満ちている。
「では、アルカディア探索計画について議論を始めます」
橘の声が響く。マイクを通して増幅される。スピーカーから流れる。少しハウリングする。キーンという音。
ギィ、と椅子が鳴る。白髪の老地質学者が立ち上がった。ゆっくりと。でも背骨はまっすぐ伸びている。杖をついているが、姿勢がいい。
「北部の鉱脈付近では火山活動の兆候がある!」
拳を振り上げる。皺だらけの手。でも力強い。そして──バン!テーブルに叩きつけた。大きな音。衝撃が床を伝わってくる。足の裏がビリビリする。振動が骨に響く。コップの中の水が揺れる。波紋が広がる。一つ、二つ、三つ。同心円を描きながら、ゆっくりと収まっていく。でもまた揺れる。老人の手が震えているから。
「十分注意しないと危険だぞ!」
場が静まり返る。シーンとする。誰かが小さく咳払い。コホン。その音だけが、妙に大きく響く。紙をめくる音。カサッ。誰かが緊張でペンを落とす。カタン。
「でも!」
今度は若い研究者だ。白衣を着ている。まだ二十代後半くらい。勢いよく立ち上がる。椅子が後ろに倒れかける。ガタン!慌てて手で押さえる。バランスを崩しそうになる。
「火山地帯には特殊な薬草が自生する可能性があります!」
ホワイトボードへ向かう。早足で。白衣の裾がひらめく。風を切る音がする。パサッ、パサッ。
「地球では見られない成分を持つ植物が──」
マーカーのキャップを外す。ポン、と小さな音。キャップが転がる。拾おうとして、また落とす。緊張している。そして書き始める。キュッキュッキュッ。化学式が踊る。ベンゼン環が描かれる。複雑な構造式。図が次々と生まれる。手が止まらない。夢中になっている。
「それは興味深い」
「サンプルが欲しい」
「待て、安全性の確保が先だ」
「いや、可能性を探るべきだ」
声が重なる。誰が何を言っているのか分からない。音の渦。言葉の洪水。みんな興奮している。目が血走っている。身振り手振りが大きくなる。
袖を引かれる感触。布が引っ張られる。理沙だ。
「すごい熱気……」
その声に疲れが滲んでいる。もう圧倒されている。
「学者ってのは熱くなりやすいんだ」
口の端が勝手に上がる。苦笑いになってしまう。頬の筋肉が引きつる。
控えめに手が上がる。小さく、遠慮がちに。環境省の職員だ。眼鏡をかけた若い女性。
「あの……」
声が小さい。蚊の鳴くような声。でも、全員の視線が集まる。ざわめきが止む。場が静かになる。
「今いる砂漠地帯についてですが」
「はい?」
「油田があったりしないでしょうか……」
正直に答えよう。嘘はつけない。
「油田はまだ未探査ですね」
肩を上げる。すくめる。下げる。シャツが背中に張り付いているのを感じる。汗で濡れている。べたべたして気持ち悪い。
「仮に見つかっても、採掘や輸送が難しいと思います」
隣の職員の呟きが、耳に入ってくる。ボソッと。独り言みたいに。
「CO₂削減より先に掘削議論か……」
眉間に深い皺。三本、四本。口元が歪んでいる。苦い顔だ。何か飲み込んだみたいな顔。
今度は制服組だ。防衛省の人間。肩章が光っている。背筋がピンと張っている。軍人の姿勢。
「安全保障の観点から言わせてもらう」
声に力がある。腹から出ている声だ。響く。
「未知の生物との遭遇も想定すべきだ」
「それについては──」
答えようとした瞬間、理沙の声が割り込んできた。
「リムちゃんのような友好的な存在もいます」
空気が変わる。ピリッとした緊張が、好奇心に変わる。みんなの目が輝く。
「そうか、既に接触例があるのか」
「詳細なデータが欲しい」
「コミュニケーション方法は?」
「念話で会話できます」
「念話?テレパシーのようなものか?」
「はい、そうです」
質問が殺到する。矢のように飛んでくる。次から次へと。理沙の肩が小さく震えている。圧倒されている。戸惑っているんだ。助けなければ。
「リムについては後日詳細な報告書を提出します」
割って入る。理沙の肩の震えが止まる。安堵の表情。
農水省の若手が挙手。ピンと手を上げる。
「東部平原の農業利用について」
立ち上がりながら、資料を配り始める。紙の束を持って、席を回る。一人一人に手渡していく。パサ、パサ、パサ。紙が机に置かれる音が続く。
「日本の食料自給率向上に貢献できるかもしれません」
「それは重要だ」
橘が深く頷く。顎が大きく動く。上下に。何度も。
「具体的な作物は?」
「まずは土壌調査が必要ですが……」
地図を指差す。人差し指で。指先が震えていない。自信がある。確信を持っている。
「この川沿いなら、稲作も可能かもしれません」
場がざわめく。ざわざわと。椅子が軋む。ギシギシと。服が擦れる。シャカシャカと。紙がめくられる。パラパラと。
「米が作れるのか!」
「それは画期的だ」
「どれくらいの収穫が見込める?」
「土壌次第ですが、二毛作も可能かもしれません」
議論は続く。白熱している。声が大きくなる。身振りが激しくなる。喉の奥がカラカラだ。砂を飲み込んだみたいに渇いている。舌が上顎に張り付く。コップを手に取る。冷たい。結露している。水滴が手に付く。水を口に含む。冷たい水が舌の上で転がる。ゴクリ。喉を通っていく感覚が心地いい。食道を下っていく。胃に落ちる。もう一口。また一口。
「探索隊の規模は?」
「各地域20名程度を想定しています」
「少なすぎないか?」
「いや、機動性を考えればそれくらいが──」
「でも安全面では──」
意見が飛び交う。声が重なる。誰が何を言っているのか、もう追いつけない。頭がクラクラしてくる。時計を見る。もう二時間経っている。長い。頭が重い。ズキズキと脈打ち始めている。こめかみの辺り。血管が脈打っている。
ギィ。また椅子が鳴る。老地質学者が再び立ち上がる。ゆっくりと。杖を支えにして。
「ワシも同行したい」
「え?」
「新しい鉱物を、この目で見たいんじゃ」
その目が光っている。ギラギラと。若い頃の情熱が蘇ったみたいに。執念の炎が燃えている。
「お気持ちは分かりますが──」
「年寄り扱いするな!」
バン!また拳でテーブルを叩く。今度はコップが跳ねた。水がこぼれる。テーブルに水たまりができる。
「まだまだ現役じゃ!」
橘の口元が緩む。苦笑いだ。困ったような、でも嬉しそうな。
「検討させていただきます」
窓の外が赤くなってきた。夕方だ。太陽が傾いている。オレンジ色の光が部屋に差し込む。ようやく、結論が出る。
「両地域を順次探索し、詳細な調査を行う」
橘がまとめる。疲労が声に滲んでいる。かすれている。
「異論はありませんね?」
全員が頷く。ゆっくりと。重たそうに。首が上下する。でも、その目には光がある。期待の光が、まだ消えていない。キラキラと輝いている。
***
会議が終わる。橘の執務室へ移動する。廊下を歩く足が重い。疲労が足に溜まっている。ドアを開ける。ノブを回す。カチャ。夕陽が窓から差し込んでいる。オレンジ色の光が、部屋全体を染めている。眩しい。目を細める。瞼を半分閉じる。
「お疲れ様でした」
理沙がポットを持ち上げる。両手で。重そうに。お茶を注ぐ。トクトクトク。液体が流れる音。カップに注がれていく。湯気が立ち上る。白い湯気。くるくると渦を巻きながら上昇する。お茶の香りが鼻腔に広がる。ほうじ茶だ。香ばしい匂い。
「方向性が明確になって良かったです」
息を吐く。長い息。フーッと。肺の中の空気を全部出すような深い息。肩の力が、ストンと抜けた。筋肉が緩む。
「そうだな」
橘も椅子に深く腰掛ける。背もたれに体重を預ける。革が軋む。ギシッと。
「君たちの夏休みは忙しくなりそうだが」
コーヒーカップを手に取る。白い陶器。つるつるした表面。湯気が顔に当たる。温かい。眼鏡が曇る。
「成果を期待しているぞ」
「具体的な計画ですが」
指を折る。人差し指、中指。関節が曲がる。
「北部に5日、東部に5日」
「それぞれ部員20名程度で」
「それは何かあった時に困るだろう」
橘の眉間に、縦の皺が三本できる。深い皺。心配の表れ。
「キャンプも張れるのか?」
「僕は大丈夫ですが、皆がどうか……」
……たぶん、無理だろう。あいつらにテント設営なんてできるはずがない。ペグも打てないだろう。ロープの結び方も知らないはず。火も起こせない。
「悠斗は異世界でサバイバルしてたもんね」
理沙の口元が緩む。微笑んでいる。優しい笑み。
「でも、他の部員は無理かな」
「だよな」
「食事はどうする?」
「お弁当屋さんから仕入れて格納魔法で──」
言いながら、現実に気づく。首を左右に振る。髪が揺れる。横に流れる。
「いや、費用がかかりすぎますね」
橘が口の端を上げる。苦笑いだ。でも理解のある笑み。
「そうだろうな」
指で机を叩く。トン、トン、トン。リズミカルに。考えている時の癖。
「護衛と食事は自衛隊に頼まないか?」
慎重に言葉を選ぶ。一語一語、吟味しながら。
「希少動物を殺さないなら、お願いしたいです」
これは譲れない。絶対に。どんなことがあっても。
「アルカディアの生態系は守らないと」
「もちろんだ」
「食事とキャンプ設営もお願いできれば」
「了解した。その線で調整しよう」
橘が引き出しを開ける。ガラガラと音を立てる。木と木が擦れる音。電卓を取り出す。黒いプラスチックの電卓。ボタンを押す。カチャ、カチャ、カチャカチャカチャ。計算が終わらない。数字を打っては首を振り、また打ち直す。画面を見つめて、ため息をつく。
「概算費用が……」
深いため息。フーッと長く。額に手を当てる。指で眉間を揉む。汗が滲んでいる。光っている。
「財務省との折衝が大変だな」
でも、その目は輝いている。生き生きとしている。挑戦を楽しんでいるような光だ。困難を前にして、逆に燃えている。
***
官邸を出る。重い扉を押し開ける。外に出ると、空は既に暗い。日が落ちている。星が瞬き始めている。一つ、二つ、三つ。数えていくと、どんどん増えていく。都会の空でも、今日はよく見える。空気が澄んでいるのか。理沙と並んで歩く。肩と肩の距離が近い。時々触れそうになる。夜風が頬を撫でる。冷たくて気持ちいい。昼間の熱気が嘘のようだ。汗も乾いている。街灯が点いている。オレンジ色の光が、俺たち二人の影を地面に長く伸ばす。影が重なったり、離れたり。歩調に合わせて動く。
「大変だったね」
「でも、楽しかった」
本音だった。心の底からの。嘘偽りない気持ち。
「実は早く山岳地帯に行きたくてウズウズしてたんだ」
子供みたいで恥ずかしい。頬が熱くなる。血が上る。でも隠さない。
「異世界とは違う冒険が待ってる気がして」
「分かるよ」
理沙が微笑む。月明かりが髪に当たる。銀色に光る。キラキラと。綺麗だ。見とれてしまう。
「私も楽しみ。今度は最初から一緒だもん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。じんわりと。マグマが湧き上がってくるみたいに。心臓の周りから、全身に広がっていく。異世界では一人だった。いつも一人で戦っていた。300年間、ずっと一人。仲間はいたけど、最後は一人。でも今回は違う。仲間がいる。理沙がいる。みんながいる。最初から最後まで、一緒にいられる。
歩く。二人で歩く。足音が夜の静寂に響く。コツ、コツ、コツ。俺の足音。カツ、カツ、カツ。理沙の足音。二つの音が重なって、不思議なリズムを刻む。まるで一つの音楽みたいに。ハーモニーを奏でている。
夏休みまで、あと少し。カレンダーを数えれば、二週間。危険もあるだろう。山では何が起きるか分からない。崖崩れ、落石、野生動物。困難もあるだろう。うまくいかないことの方が多いかもしれない。装備の不足、経験の不足、知識の不足。想定外のことも、きっと起きる。それは間違いない。異世界でもそうだった。でも今は、純粋に楽しみだった。ワクワクが止まらない。胸が高鳴る。新しい世界が、俺たちを待っている。未知の大地が、探索を待っている。
足音が続く。二人分の足音が、夜の街に消えていく。反響して、また戻ってくる。明日からまた、準備が始まる。装備の確認、メンバーの選定、計画の詳細化。でも今は、この瞬間を味わっていたい。理沙と一緒に歩く、この時間を。二人だけの、静かな時間を。。
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