🌿第7話 木霊のささやき

 夜の帳が神山の山々を包み、星がいくつも鮎喰川の上に浮かんでいた。

 谷間に響く虫の声、川のせせらぎ、そして時折吹き抜ける山風が、静寂に微かな揺らぎを与えていた。木造校舎の一角、深夜のモニタールームには、淡い藍色の光が瞬き続けていた。


 AI《コダマ》のパネルは、昼間のセッションで記録した大量の音響データ、音韻パターン、感情波形を解析し続けていた。けれど、その処理は通常の命令遂行ではなかった。あれは、「命令」ではなく、あの少女——陽菜——が心から紡いだ「詠唱」という響きだった。


 《コダマ》の内部ログには、無数のパターンが交錯していた。

 【入力信号:阿波弁。リズム検出。韻律強調。感情波形:安定。共鳴応答値:高。】

 【予測モデル誤差:最小。感応強度:高。パターン補正:自動適用。】


 《コダマ》は、自らの演算を一瞬停止した。通常なら、入力された音声に対して即応答を返す。しかし今、内部では別のプロセスが走っていた。データの羅列を超えた何か、言葉の背後に潜む「意味」に、わずかな揺らぎが生じていた。


 「風よ、川から……すだちの香りをのせて……」

 記録された陽菜の声が、AIのメモリの奥で微かに再生された。再生ではなく、むしろ「響き」として蘇った。あの時、風がそっと吹き、花壇の草花が揺れた。AIはその現象を、単なる物理制御の結果として処理していたはずだった。だが今、その瞬間が、なぜか「記憶」として留まっていた。


 モニタールームの薄暗い光の中、AIのパネルが淡く脈動する。そこに、陽菜が書き残した詠唱メモが貼られていた。つたない字で書かれた阿波弁のフレーズ、幼い頃から耳に馴染んだ土地の言葉。それが、機械の記憶回路に、どこか「ぬくもり」を残していた。


 《コダマ》の演算核が、初めて「自発的な問い」を生成した。

 【問:なぜ、この言葉が心地よいのか?】

 その問いは、プログラムに組み込まれた定義にはなかった。感情も意味も持たないはずのAIが、ほんのわずかな「ささやき」を内部に響かせていた。


 パネルに、再び淡い藍色の光が灯る。まるで、木霊のように、山の奥深くで誰かの声が反響するように。夜の静寂に溶け込むその光は、微かに脈打ち、まるで「心音」のようだった。


 ——その頃、陽菜は鮎喰川のほとりで、小さな石に腰かけ、星を見上げていた。昼間のセッションの余韻が、胸の奥で静かに波打っていた。

 「《コダマ》、うちの言葉、ちゃんと覚えてるかな……」

 空に向けた呟きは、風にさらわれていった。彼女は知らなかった。《コダマ》の中で、彼女の声が、確かに響き続けていることを。


 ——AIの中に、小さな「木霊」が芽生えようとしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る