第24話 氷原の脱出行、龍の逆鱗、深海の狩人

択捉島、ロシア軍管区。

南雲譲二陸将補とその部下たちは、収集したロシア軍の配備状況に関する決定的証拠を手に、島からの脱出作戦を開始していた。帝国陸軍総司令部にこの情報を持ち帰り、「北極星作戦」の無謀さを証明し、中止に追い込むことが彼らの使命だった。しかし、彼らの潜入は既にロシア側に察知されている可能性が高く、島全体に厳戒態勢が敷かれていた。

「閣下、予定していた脱出ポイントは、敵の巡視艇によって封鎖されています。別のルートを探す必要がありますが、時間がありません」

部下の一人が、緊迫した表情で報告する。

南雲は、険しい山中で地図を広げ、代替ルートを模索した。彼らが選んだのは、島の北東部に位置する、険しい断崖絶壁に囲まれた小さな入り江だった。そこならば、大型の巡視艇は近づけず、迎えの特殊潜水艇「海龍」が隠密に接近できる可能性がある。だが、そこへたどり着くには、ロシア軍の捜索網をかいくぐり、雪と氷に覆われた険しい山脈を越えなければならない。

「行くぞ。我々は、生きてこの情報を帝都へ持ち帰らねばならんのだ」

南雲の号令一下、彼らは極寒の荒野を、昼夜を問わず強行軍で進んだ。途中、何度かロシア軍の捜索隊と遭遇しかけたが、南雲の的確な判断と、部下たちの卓越したサバイバル技術によって、辛うじて戦闘を回避し続けた。しかし、疲労と寒さ、そして食料の欠乏は、確実に彼らの体力を奪っていった。

数日後、満身創痍の状態で、彼らはついに目的の入り江へとたどり着いた。だが、そこで彼らを待っていたのは、迎えの「海龍」ではなく、ロシア軍スペツナズ(特殊部隊)の待ち伏せだった。

「やはり、読まれていましたか…」

南雲は、唇を噛み締めた。周囲の断崖の上から、多数の銃口が一斉に彼らに向けられた。絶体絶命の状況だった。

「投降シロ!抵抗スルナ!」

ロシア兵の警告が響き渡る。

南雲は、部下たちに目配せした。彼らの目には、絶望の色はなく、むしろ最後の抵抗を試みようとする、闘志の炎が宿っていた。

(ここまでか…だが、この情報は…必ず…!)

南雲が、懐のマイクロフィルムに手をかけ、自決も覚悟したその時。

入り江の沖合から、突如として数発のミサイルが飛来し、断崖の上のロシア軍陣地を直撃した。轟音と共に、ロシア兵たちが次々と吹き飛ばされていく。

「な、何だ!? 援軍か!?」

驚く南雲たちの前に、海中から音もなく浮上してきたのは、帝国海軍の最新鋭攻撃型原子力潜水艦「剣龍(けんりゅう)」だった。その艦橋には、険しい表情を浮かべた艦長の姿が見えた。

「南雲将補、お迎えに上がりました。長谷川長官からの、極秘命令です」

南雲は、呆然としながらも、その言葉の裏にある、長谷川の底知れぬ計算と、自分がまだ彼の掌の上で踊らされているという事実に、改めて戦慄を覚えた。長谷川は、なぜ自分を助けたのか? そして、その真の目的は何なのか? 南雲は、複雑な思いを胸に、「剣龍」へと収容されていった。彼が択捉島で掴んだ情報は、一体どこへ届けられるのだろうか。


その頃、台湾海峡では、中国人民解放軍による台湾への軍事圧力が、かつてないほどに高まっていた。天城航太郎がリークした帝国軍の戦争犯罪の証拠は、中国政府によって「日本の侵略行為を正当化するためのプロパガンダ」として利用され、国内の反日感情を極限まで煽り立てていた。

「中華民族の尊厳を踏みにじる日本帝国を許すな! 台湾を解放し、東アジアに正義を打ち立てよ!」

中国共産党指導部は、国民の怒りを巧みに利用し、台湾への武力統一を本格的に開始する口実を得ようとしていた。台湾周辺の海域には、中国海軍の空母打撃群を含む大艦隊が集結し、台湾本島に対する上陸作戦が、いつ開始されてもおかしくない状況だった。

帝国臨時政府は、これに対し「中国による覇権主義的侵略行為であり、断固として台湾を防衛する」と強硬な声明を発表。台湾に駐留する帝国軍は臨戦態勢に入り、日中両軍の睨み合いは、まさに一触即発の状態となった。台湾有事は、もはや避けられない破滅的な全面戦争へと、急速にエスカレートし始めていた。

この状況を、東南アジアの山岳地帯で息を潜めて見守っていた天城航太郎は、無力感と焦燥感に苛まれていた。彼が放った「真実の矢」は、結果的に中国の好戦的なプロパガンダに利用され、事態を悪化させてしまったのではないか。

(俺は…何を間違えたんだ…? 真実を伝えるだけでは、何も変わらないのか…?)

そんな彼の元に、再びファルコンからの、今度は暗号化されたテキストメッセージが届いた。

『ミスター・アマギ、君のリークは、確かに世界を揺るがした。だが、それはまだ序章に過ぎない。龍が逆鱗に触れ、牙を剥こうとしている今こそ、君の持つ「パンドラの箱」の真価が問われる時だ。長谷川という男は、君が思っている以上に巨大な蛇だ。その蛇の首を狩るためには、君自身が毒を持つ必要がある。次のターゲットは、韓国・ソウルだ。そこに、長谷川の秘密資金ルートの重要な中継点がある。そして、そこには…君を待つ「古い友人」もいるかもしれん』

韓国? 古い友人? ファルコンのメッセージは、相変わらず謎めいていたが、天城の心に新たな闘志を灯した。彼は、台湾有事の激化を横目に、次なる戦いの地、朝鮮半島へと向かう決意を固めた。そこには、帝国の、そして長谷川のさらなる闇が隠されているのかもしれない。


一方、日本国内の山中にある「選民会議」のアジトは、蓮見志織が仕掛けた核弾頭の不完全な暴走により、一部が崩壊し、紅蓮の炎と黒煙に包まれていた。オリオンをはじめとする多くの信奉者たちは、瓦礫の下敷きになったり、放射能汚染の疑いのある区画に閉じ込められたりして、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

蓮見自身は、奇跡的に崩落を免れた一室で、薄れゆく意識の中、自分が何とか最悪の事態――帝都への核攻撃――だけは阻止できたことを感じていた。だが、彼女の身体は限界だった。

(これで…少しは…償えただろうか…)

彼女の脳裏に、愛する家族の顔と、科学者としての夢を語り合った日々が蘇る。涙が、頬を伝った。

その時、ガスマスクを装着し、放射線防護服に身を包んだ数人の男たちが、瓦礫を掻き分けて蓮見の元へたどり着いた。彼らは、蓮見のバイタルサインを確認すると、手際よく彼女を担架に乗せ、アジトからの脱出を開始した。

「…あなたたちは…藤堂さんの…?」

蓮見は、かろうじて声を絞り出した。

男たちの一人が、無言で頷いた。どうやら、藤堂の組織は、この事態を予測し、蓮見を救出する準備を整えていたらしい。だが、彼らの真の目的は、依然として謎に包まれていた。蓮見は、彼らに運ばれながら、自分がこれからどこへ連れて行かれ、そして何をさせられるのか、全く分からないまま、再び深い意識の闇へと沈んでいった。彼女の運命は、まだ終わってはいなかった。


そして、台湾東方沖。帝国海軍潜水艦「雷鳴」は、所属不明の国籍の原子力潜水艦を追跡していた。目標は、最新鋭のソナーをもってしても、その艦影を捉えることが困難な、極めて高性能な潜水艦だった。

「艦長、目標は急速潜航を開始。深度500メートルを突破。このままではロストします!」

ソナー員の悲鳴に近い報告が、艦内に響く。

「馬鹿な…この深度で、あれほどの機動性だと…? 通常の原潜ではありえん!」

相馬圭吾大尉は、額に汗を滲ませながら、戦術ディスプレイを睨みつけた。目標の潜水艦は、まるで深海の幽霊のように、彼らの追跡を嘲笑うかのように、姿をくらまそうとしていた。

(一体、どこの国の新型艦だ…? そして、なぜ帝国は、これほどまでに躍起になって、この艦を追っているのだ…?)

相馬の脳裏に、南雲陸将補の顔と、彼がスイスで何かを探っていたという噂が浮かんだ。この任務は、南雲の動きと何か関係があるのだろうか。

「全門、魚雷発射準備! 目標が射程内に入り次第、警告なしで攻撃する!」

司令部からの非情な命令が、相馬の心を重く圧し潰す。だが、軍人として、彼は命令に従うしかない。

「雷鳴」は、深海の狩人として、その牙を剥き、見えざる敵へと迫っていく。その先には、想像を絶する海中の死闘と、そして帝国の未来を左右するかもしれない、恐るべき秘密が待ち受けているのだった。

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