第23話 氷海の狼、ファルコンの真意、絶望のカウントダウン

宗谷海峡を秘密裏に突破した帝国海軍の特殊潜水艇「海龍(かいりゅう)」から、漆黒のウェットスーツに身を包んだ数名の男たちが、オホーツク海の氷に近い冷たい海へと躍り出た。その先頭に立つのは、南雲譲二陸将補だった。彼が自ら志願した「北極星作戦」の先遣隊による、択捉島への極秘潜入任務が開始されたのだ。

表向きは作戦のための敵情視察だが、南雲の真の目的は、この作戦の無謀さを証明する具体的な証拠を掴み、そして可能ならば、ロシア側に潜む「アメリカとの密約」の尻尾を捉えることだった。彼がスイスで入手した情報は、あまりにも断片的で、決定的な証拠とは言えなかった。

「閣下、択捉島の南岸に接近しました。これより上陸を開始します」

潜水艇の艇長からの通信を受け、南雲は頷いた。彼と共に潜入するのは、かつて風間武蔵が率いた「八咫烏」の生き残りを含む、数名の精鋭特殊部隊員たち。彼らは、南雲の真の意図を知らぬまま、ただ上官の命令に従い、この危険な任務に身を投じていた。

上陸後、彼らはロシア軍の沿岸監視網を巧みにかいくぐり、島の奥深くへと潜行した。南雲の脳裏には、かつて風間が北朝鮮で辿ったであろう、過酷な道のりが重なって見えた。

(風間…お前も、こんな思いで…)

数日間にわたる潜入調査の結果、南雲たちは、択捉島に配備されたロシア軍の戦力が、帝国軍の想定を遥かに上回るものであることを突き止めた。最新鋭の地対空ミサイルシステム「S-500 プロメテウス」は、確かに存在し、そのレーダー網は島全体を覆っていた。さらに、複数の地下施設や、偽装されたミサイルランチャー、そして山岳地帯には、ゲリラ戦を得意とする特殊部隊が多数潜んでいることも確認された。

「…これでは、奇襲降下など自殺行為に等しい。上陸部隊も、海岸で袋叩きにされるのが関の山だ…」

南雲は、収集したデータを前に、戦慄を覚えた。この情報は、作戦の中止を決定づけるには十分すぎるものだった。だが、同時に、彼はある奇妙な事実に気づいた。ロシア軍の配備は、あまりにも「見せつける」かのように完璧すぎたのだ。まるで、誰かに「ここには手を出すな」と警告しているかのように。そして、その警告の対象は、日本だけではないような気がした。

(アメリカ…か? ロシアは、アメリカに対して、この島が容易には攻略できないことを示し、何らかの取引を有利に進めようとしているのでは…?)

南雲は、スイスでロシアの密使が語った「力の均衡」という言葉を思い出していた。この北方領土は、日米露の巨大なパワーゲームの、まさに最前線なのかもしれない。


その頃、東南アジア某国、山岳地帯の地下アジト。

天城航太郎は、ジャガーから提供された「特別編集版」のUSBメモリの解析に没頭していた。ファルコンが手を加えたというそのデータは、高度な暗号化と幾重ものトラップが仕掛けられており、解読は困難を極めた。だが、天城は持ち前の執念と、解放区の技術者たちの協力を得て、少しずつその核心に迫りつつあった。

そして、彼が突き止めたのは、衝撃的な事実だった。

ファルコンが収集した情報の中には、数年前にアメリカ国内で起きた、ある大手軍需企業のCEO暗殺未遂事件に関する詳細な捜査資料が含まれていた。その事件は、公式には「個人的な怨恨による犯行」として処理されていたが、ファルコンのデータは、その背後に、アメリカ政府内の強硬派と、ロシアの諜報機関、そして…日本の国家保安局の一部が関与していたことを示唆していたのだ。

(なんだ…これは…? アメリカ、ロシア、そして日本が…裏で繋がって、こんなことを…?)

天城は、信じられない思いでデータを見つめた。さらに解析を進めると、その軍需企業のCEOは、当時、アメリカ政府とロシアとの間の、ある「不適切な武器技術移転」を告発しようとしていたことが判明した。そして、その技術移転の仲介役として、長谷川内閣情報調査室長官の名前が、暗号化された通信記録の中に浮上してきたのだ。

「長谷川…! やはり、あの男が全ての黒幕なのか…!?」

天城は、戦慄した。一之瀬宰相の暴走も、帝国の軍事的膨張も、全ては長谷川がアメリカやロシアの特定勢力と結託し、自らの野望を達成するための壮大な芝居だったのかもしれない。そして、ファルコンは、なぜこの情報を自分に託したのか?

天城は、ジャガーから渡された衛星電話を手に取った。今こそ、ファルコンと直接話をする時だと感じた。

数回のコールの後、ようやく衛星電話が繋がった。だが、聞こえてきたのは、ファルコンのものではなく、歪んだ機械音声だった。

『ミスター・アマギ、君は知りすぎたようだ。ファルコンは、もはや君の問いに答えることはない。だが、彼からの最後のメッセージを伝えよう。「真の敵は、君が思っているよりも、ずっと近くにいる。そして、その敵を倒すためには、君自身が『狼』になるしかない」…健闘を祈る』

そこで通信は一方的に切れた。ファルコンの身に何かが起きたのか? それとも、これもファルコンの仕掛けたゲームの一部なのか? 天城には分からなかった。だが、ファルコンの最後の言葉は、彼の心に深く突き刺さった。「真の敵は、ずっと近くにいる」。それは、一体誰を指すのか。そして、「狼」になれとは、どういう意味なのか。

天城は、USBメモリを固く握りしめた。彼は、もはや誰を信じ、何を頼ればいいのか分からない、深い孤独の中にいた。だが、彼の胸には、真実を暴き出すという決意と、ファルコンが残した謎めいた言葉を手がかりに、この巨大な陰謀に立ち向かうという、新たな闘志が燃え始めていた。


日本国内、山中の極秘地下施設「選民会議」アジト。

蓮見志織は、オリオンと名乗る男とその信奉者たちによって、新型核弾頭の最終調整と、目標への照準設定を完了させられていた。彼女が起爆シーケンスに仕掛けた僅かなエラーコードは、今のところ誰にも気づかれていないようだった。だが、それが本当に機能するのか、彼女自身にも確信はなかった。

オリオンは、狂信的な輝きを瞳に宿し、集まった信奉者たちを前に、高らかに宣言した。

「時は満ちた! 今宵、我々は神の雷霆を解き放ち、腐敗した旧世界を浄化する! 新たなる千年王国の暁は近い! 目標、帝都・東京、国会議事堂及び皇居! 発射シーケンス、カウントダウン開始!」

信奉者たちの、地鳴りのような歓声が地下施設に響き渡る。

蓮見は、その光景を、血の気の引いた顔で見つめていた。目標は、帝都。そして、皇居まで…。これは、もはやテロですらない。国家そのものを破壊しようとする、狂気の沙汰だ。

(私が…私がこんなことを…許されるはずがない…!)

彼女は、最後の力を振り絞り、制御盤の緊急停止ボタンに手を伸ばそうとした。だが、その動きは、オリオンの鋭い視線によって見抜かれていた。

「無駄なことはするな、蓮見君。君の役目は終わった。あとは、この歴史的瞬間を、特等席で見届けるがいい」

オリオンは、冷笑を浮かべながら、部下に命じて蓮見を拘束させた。

発射シーケンスのカウントダウンが、無情にも進んでいく。10…9…8…

蓮見は、目を固く閉じた。彼女の脳裏に、故郷の美しい風景と、愛する家族の顔が浮かんだ。

(お父さん…お母さん…ごめんなさい…)

そして、カウントがゼロになった瞬間。

地下施設全体が、激しい揺れと共に、轟音に包まれた。しかし、それは核爆発のそれとは明らかに異なっていた。何かが、おかしい。

オリオンの顔から、笑みが消えた。

「何事だ!? どうなっている!?」

制御盤のモニターには、無数のエラーメッセージが点滅し、核弾頭の起爆が失敗したことを示していた。蓮見が仕掛けたエラーコードが、最後の最後で機能したのだ。

だが、安堵する間もなく、施設全体が再び激しく揺れ、天井の一部が崩落し始めた。不完全な起爆シークエンスが、核物質の暴走を引き起こし、施設そのものを破壊し始めているのかもしれない。

「くそっ! 裏切ったな、小娘!」

オリオンは、怒りに顔を歪め、蓮見を睨みつけた。だが、もはや彼らにできることは何もなかった。地下施設は、断末魔の叫びと、崩壊の音に包まれ、紅蓮の炎と黒煙が、地上へと噴き出し始めていた。

蓮見は、崩れ落ちる瓦礫の中で、薄れゆく意識の中、自分が何を成し遂げたのか、そしてこれからどうなるのか、何も分からないまま、深い闇へと沈んでいった。彼女の最後の抵抗は、最悪の事態を回避したのかもしれない。だが、その代償は、あまりにも大きかった。


そして、その頃。東シナ海の暗い海中では、帝国海軍潜水艦「雷鳴」が、新たな極秘任務を受けていた。艦長の相馬圭吾大尉は、司令部から送られてきた暗号電文を読み終え、険しい表情で部下たちに告げた。

「…これより、我が『雷鳴』は、台湾東方沖に進出し、同海域で作戦行動中の、所属不明の国籍の原子力潜水艦を追跡、必要とあらばこれを拿捕、あるいは撃沈する。繰り返す。目標は、所属不明の原潜。いかなる抵抗も許さず、断固たる措置を取れ」

それは、あまりにも不可解で、そして危険な命令だった。所属不明の原潜とは、一体どこの国のものなのか。そして、なぜそれを拿捕、あるいは撃沈する必要があるのか。

「艦長…所属不明とは…まさか、アメリカ海軍では…?」

若い航海長が、恐る恐る尋ねた。

相馬は、何も答えなかった。ただ、彼の脳裏には、「あぶくま」撃沈事件の記憶と、そしてスイスへ向かったとされる南雲陸将補のことが、重くのしかかっていた。この命令の背後には、何か巨大な、そして危険な陰謀が隠されているような気がしてならなかった。

「雷鳴」は、静かに、しかし確実に、新たな戦いの海へと、その艦首を向けていた。その先には、想像を絶する敵と、そして帝国の運命を左右するかもしれない、過酷な試練が待ち受けていた。

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